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15話
翌週の放課後。
椿から、「今日、部活早く終われそうだから、終わったら音楽室行く!」とメッセージが届いた。メッセージを受け取った愛華は、OKのスタンプで返事をしてピアノの練習に励んだ。
愛華なりにこの曲はもう自分のものにできている感覚があった。精度も十分に仕上げて来て、今日はそれを十二分に発揮するだけだ。
最高の演奏をして、気持ちに一区切り付ける。
そう決めてはいても、やはり寂しさは拭えない。
(椿くんと気軽に話せるのも、今日が最後なんだなぁ…)
椿のことだから、廊下で擦れ違えば声を掛けてくれるかもしれない。もちろんそれには答えるつもりではあるが、彼の世界にはこれ以上踏み込むことは決してないだろう。
二人きりで話すことも、今日がきっと最後だ。
愛華は席を立ち、一階の昇降口前にある自動販売機まで緑茶を買いに行くことにした。
少し行儀が悪いとは思いつつも、自動販売機の横で買ったばかりの緑茶に口を付ける。口の中も喉も、潤したそばから乾いていくようだった。
そこにちょうど水原が通りかかる。
「あれ?水原くん、今帰り?珍しいね」
水原は部活にも委員会にも所属しておらず、授業が終われば帰宅するかレッスン教室の空き教室に行くかの二択である。この時間まで学校に残っているのは珍しかった。
「進路の相談でちょっとな」
「あ、もうそういうの考えなきゃいけない時期か…」
高校二年生ももうすぐ終わる。来月からは高校三年生。受験生になるのだ。今はまったくもって考えたくもないが。
「愛華はいつも通り音楽室で練習か?」
「うん」
「まあ、励めよ」
水原は得意げに笑って、校舎を出て行く。
今回のコンクールは彼に失望されることのないよう、もちろん彼より上を目指していくつもりだ。
「あ、愛華ちゃん!」
水原と別れた直後、今度は美音と藤宮がやってきた。愛華は美音と藤宮の顔を交互に見てしまう。二人揃って下校するのだろうか。
「あ、美音ちゃん、バイバイ」と手を振る愛華に、美音はいつも通りの明るい笑顔で「バイバイ!」と手を振り返してくれた。藤宮は特に何も言わなかったが、彼はまあいつもそんな感じのようなので愛華は特段気にすることはなかった。
(美音ちゃんとは、ずっと友達でいたいなぁ)
美音との関係は変わらずいられるだろうか。美音と椿が付き合うことになったとして、愛華の気持ちを知らない美音はきっと今までと変わらず接してくれるだろう。どちらかというと、それに愛華が耐えられるかどうか、なのかもしれない。
緑茶をもう一口喉に流し込んで、愛華は音楽室へと戻った。
「お待たせ!悪いな、ちょっと遅れた」
ジャージ姿から制服へと着替えた椿が、慌てたようにやってきた。
「ううん!大丈夫だよ。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、特等席で聴かせてくれてありがと」
椿は手近な椅子を引き寄せると、ピアノから少し離れたところに腰を下ろした。それを見届けた愛華は、椅子に座り直してこほんと咳払いをする。
(…ああ、もうこれで終わりなんだ…)
自分で決めたことだというのに、簡単に決意が揺らぎそうになる。
(本当はずっとこのままでいたい。ずっと椿くんと話をしていたい。彼の近くで、同じものを見たい)
けれどそれは決して叶うことのない願いなのだ。だからこそ、愛華はこの道を選んだ。
「では、…弾きます」
椿は嬉しそうにぱちぱちと手を叩き合わせる。
椿の楽しそうな顔を見るだけで、力が湧いてくるようだった。
拍手が終わって、愛華は深く呼吸を繰り返す。
(私の今できる、精一杯の演奏を)
椿に届きますようにと願いながら、愛華はゆっくりと音楽を奏で始めた。
最初はこの前のコンクールでボロボロだった「愛の夢 第三番」を。そして次の課題曲である、「悲愴」を。
ここ数か月の愛華のありったけの気持ちを演奏に込めた。
(椿くんへの気持ちは、好きが大きい。でもそれだけじゃなくて、感謝の気持ちもたくさんある)
助けてもらったこと。勇気付けてくれたこと。背中を押してくれたこと。
一緒に過ごした日々は、愛華にとって宝物だった。
(恋をしてよかった。恋をしたのが、あなたでよかった。
演奏が終わって、何もかもが終わったとしても。きっと私は前を向いて歩いていける。椿くんからもらった強さがあれば平気。進んでいける、絶対に)
最後の一音が音楽室に響き渡って、愛華は椿へと顔を向ける。
椿がまたぱちぱちと拍手をして、愛華のミニ演奏会の終わりを告げた。
「すげーかっこよかった!愛華さん、ほんとピアノ上手だなー」
クラシックや音楽の知識のない椿は、きっとどんな演奏でも褒めてくれそうなものだが、その絶賛ぷりが愛華は少し照れくさい。
「聴いてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、聴かせてくれてありがとな」
にこっと笑う椿の顔はやっぱりいつも通りで、愛華が憧れ始めた時と変わらない、見ているこっちすら笑顔にしてしまうような明るさがあった。
「この曲ってどんな曲なの?」と椿が訊いてきたので、曲の解釈やら、当時の情景やらを簡単に説明する。それから少しピアノについて話して、切りが良くなったところでまた椿が「あ、そうだ」と思い出したように話題を振る。
「愛華さん、これ」
そう言って椿がブレザーのポケットから出してきたのは、抹茶味の小さな四角いチョコレートだった。
「あ、それ…」
それは以前、定期テストの勉強でD組を訪れた時。椿の席を借り、こっそりと机の中に入れておいたお菓子だった。
「これめっちゃはまっちゃってさー、うまいなーこのチョコ」
椿はそれを愛華に手渡しながら、自分も口に放り込む。
「愛華さんでしょ?俺の机の中に入れてくれたの。この前も生チョコくれてたし」
「あ、うん。勝手にごめんね…喜んでもらえたなら良かった」
「抹茶味のお菓子ってあんまり食べたことなかったんだけど、美味しいなー。結構好きかも」
もぐもぐと美味しそうにチョコを食べる椿を見ながら、愛華は思った。
(このまま私のことも、好きになってくれたらいいのに…)
お菓子みたいにうまくいかないことくらい分かっていても、やっぱりそう思わずにはいられなかった。
(楽しい。この時間が好き。椿くんと他愛のないお喋りをして、なんでもないことで笑って。私、やっぱり、)
「椿くんが好き」
「え…?」
「え?」
二人して同じようにきょとんとした顔で見つめ合う。
(え…私、今なんて言った?椿くんが好き、って声に出しちゃってた?!)
いつも心の中で椿が好きだ好きだと思っていたので、不意に気持ちと一緒に言葉が溢れてしまった。
愛華の顔がみるみる青ざめて行くのとは反対に、椿の顔は少し朱色に染まっていた。
「えっと、…聞き間違い?」
「き、聞き間違いで…」
聞き間違いです!そう言いたかったけれど、愛華はもうこの際だと言わんばかりに開き直ってしまった。
「は、ないです!」
「え」
「私、ずっと椿くんのことが好きだったの」
言うつもりなどなかった。椿にとっては迷惑になるだけなのだから。この気持ちは愛華の中で、ゆっくりと落ち着かせるはずだったのに。
けれど、一度溢れてしまった気持ちはとめどなく溢れてくる。
「ずっと音楽室から見てた。グラウンドで走るあなたを。駅で助けてもらうよりも、ずっと前から…」
椿にとって愛華を知るきっかけとなったのは、ホームから落ちそうになった愛華を助けた時だろう。しかし愛華はその前からずっと椿を知っていたし、ずっと彼の練習を見てきた。
「走る姿が素敵でずっと憧れてた。私もあんな風に楽しく頑張りたいって、ピアノでうまくいかない時があっても、いつも椿くんに励まされてたんだよ」
愛華にとってそれは大きなことだった。ずっと孤独であった闘いが、椿と一緒なら頑張れるような気がしたから。
「これからも、ずっと好きです!」
愛華はそうはっきりと口にした。してしまった。
(言うつもりなんてなかったのに…こんな、勢い任せに……)
愛華は恐る恐る椿の顔色を窺う。心臓が飛び出しそうだった。椿にも聞こえているのではないかと思う程に胸は高鳴って、息も苦しい。
椿は照れたように頬を掻きつつも、案の定少し困ったような顔をした。
(……ああ、きっと美音ちゃんの話をするんだろうな…)
愛華は瞬時にそう思った。当然だ。椿は美音が好きなのだから。
椿は拳をぎゅっと握りしめると、愛華の目をしっかりと見つめて言葉を紡ぐ。
「ありがとう、愛華さん。俺、女の子に告白されるのって初めてで、すげー嬉しかった」
「え!?嘘でしょ?!」
椿の言葉があまりに衝撃的で、愛華はつい口を挟んでしまった。
「いや、嘘じゃないし」
「だって椿くんこんなにかっこよくて、優しいのに!モテまくりだと思ってたよ!?」
愛華の言葉に、また椿は少し顔を赤くした。
「いやいや、別にそんなかっこいいことないだろ。モテまくりってなんだよ、一度もないわ」
「そんな、馬鹿な…」
椿の発言の衝撃力が強く、愛華は目をぱちくりさせてしまう。
愛華にとってはもちろん誰よりも椿がかっこいいし、優しくて素敵な男子なのである。
でももしかして…と愛華ははたと思い当る。
(椿くんが美音ちゃんのことを好きなの、周りも気付いていたりする?だから誰も椿くんに告白しなかったのでは…?)
少なくとも藤宮はとっくに気が付いていたようだし、素直すぎる椿のことだ、周りにバレバレだったのではないだろうか。
「いや、そんなことはどうでもいいんだけど…」と照れくさそうに話を戻す椿は愛華にとってはやっぱりかっこよかった。
「俺、好きな人がいてさ」
「あ、うん…」
美音のことだ。その話は嫌というほど知っている。この耳で直接聞いたのだから。
「俺、ずっと幼なじみの美音のことが好きだったんだ」
「うん…」
「でも、…この前フラれた」
「え?」
「告白したんだ。バレンタインデーに。でも、フラれた。家族みたいにしか考えられないんだと」
「そ、そっか…」
なんと言葉を掛けていいか分からなかった。
椿も愛華と同じように、失恋して、その痛みを知っていたのだ。
椿は苦笑しながらも話を続ける。
「美音には好きな人がいるんだ」
「あ…」
「俺はそれに気が付いてた。フラれるって分かってたのに、どうしても伝えたくてさ」
愛華と同じだった。椿もまた、美音が好きで、その好きな美音には好きな人がいて。まるきり愛華と同じ状況だった。
「美音のことは、結構長い間片想いしてたからさ、正直すぐにこの気持ちを忘れるのは無理だと思う」
「うん…」
「でも、いつまでもこのままじゃいけないってもの分かってるんだ」
他人に暗いところを見せない椿は、きっと一人で悩んだのだろう。自分の気持ちを、どこに向かわせるのが正解なのか。
「だから、愛華さんの気持ちには、今すぐは答えられないと思う」
「うん、…分かってる。私も、椿くんが美音ちゃんのこと好きなの、知ってたから」
愛華の言葉に、椿は目を丸くして、苦笑いを見せる。
「そっか」
帰ろうか、とどちらともなく立ち上がり、音楽室を後にする。
好きな人には、好きな人がいる。
愛華と椿は、同じ境遇だった。
春が近付いて、ほんの少しだけ、陽が伸びたような気がする。
暖かい日が増えて来て、春の訪れを予感させる。
(私達の恋も、一緒に春を迎えられたらいいのに)
そう暮れていく夕陽を見て愛華は思ったのだった。
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