2.推し活

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2.推し活

「はい」  目の前に差し出されたハンカチのチェック柄が滲んだ。顔を上げると、葉一がおれを見下ろしていた。鼻水を垂らしているおれの顔にハンカチを圧しつける。 「泣きすぎだよ」  苦笑いしながら雑におれの顔を拭う。反射的に避けようとして顔を背けたが、葉一は猛片方の腕をおれの背中に回して密着してくる。完全におもしろがっている。 「葉一くんは感動しなかった?」  涙と鼻水を吸って湿ったティッシュの塊をコートのポケットに突っ込む。葉一から受け取ったハンカチを広げて、顔を覆う。涙で濡れた顔にバイル地の感触が心地よかった。 「まあ、いい話だったけど、おまえほどはって感じかな」  たしかに、おれたちの後に劇場を出てくる観客たちもすでに会場の外で感想を話し合っているひとたちも満足げな表情だったが、おれほど派手に号泣している者はなかった。  300人も入れば満杯になるような小さな劇場。新進気鋭の脚本家によるオリジナル脚本は戦争によって引き裂かれる恋人たちと家族の物語だった。運命に翻弄される男女の葛藤や苦悩がていねいに描かれ、演じる役者たちの演技も真に迫っていた。はじまってすぐに没頭した。 「隣でグスグスやってるからちょっと心配になった」 「うそ。おれ、うるさかった?」  公演中は鼻を啜る音や息で周囲の観客の注意を削ぐことのないようかなり気を遣っていたつもりだった。慌てるおれを宥めるように、葉一は笑った。 「うるさくなかったよ。おれが気にして見てただけ」 「舞台に集中しなよ……」  呆れていったが、もともと葉一はおれに付き合ってついてきただけだ。ラブストーリーが苦手だということも知っている。責めることはできない。 「もう帰る?」  途中休憩を挟んだとはいえ、3時間座りっぱなしで硬くなった筋肉を伸ばして、葉一がいう。 「メシでも食ってくか。初芽、今日は休み取ってんだろ?」  この日は連休最初の土曜で、商社勤めの葉一は休日だが、カフェで働くおれにはシフトの調整に苦労が必要だった。どうしても初日の公演を観たいとオーナーに頼み込んで、休みを捥ぎ取った。 「あ、ちょっと待って。グッズ買わないと」  グッズを販売するブースの前で立ち止まる。長いテーブルの上に、製本された脚本や過去の作品のDVDが並んでいる。出演者の写真のうち2枚が封入されたランダムチェキを3セット購入した。その場で開封したが、6枚とも目当てのものとはちがっていた。 「どうだった?」 「だめ。全部はずした」  期待していたわけではなかったが、ため息が漏れた。 「おれほんとくじ運ないから」 「貸して」  おれの手から小さな写真を摘み取って、葉一がブースを離れる。5分ほどしてもどってきた。6枚のチェキを返してよこす。 「どこ行ってたの」  おれの問いに、目線だけで答える。促されるまま返却されたチェキに視線を落とす。アイドルグループに所属する女性のキャストのチェキがべつのものになっていた。思わず顔を上げると、葉一の自慢げな表情があった。 「これ……」 「トレードしてもらった」  おれの手のなかで、舞台の衣装を着てメイクを施した凪砂がこちらを見つめていた。 「ありがとう」  チェキを見つめたまま礼をいった。葉一は高校時代から頼りになる存在だった。決断力と行動力があり、コミュニケーション能力にも長けている。おれとは正反対だった。他人に声をかけて交換を提案するなど、おれには考えもつかない。 「じゃ、メシ行けるか?」 「うん。あ、ちょっと待って」  げんなりした顔の葉一に掌を向けて謝ると、もう片方の手でスマホを操作する。すこし待って、スマホの通知音が鳴った。 「凪砂も行けるって」 「もう出られるのか」 「あとで行くから、店決まったら教えてだって」  LINEの画面上でのやりとりを見せると、葉一は身を屈めて画面を確認し、首を揺らすようにして頷いた。独特のしぐさは学生時代からの葉一の癖だ。長身で顔が小さいから、そういった動作が様になる。  若手の俳優が多く出演する舞台だ。劇場のエントランス付近には贔屓の俳優を応援する女性ファンの姿も多く見られた。葉一は芸能活動をしているわけではないが、そのあたりで見かける舞台俳優と較べても遜色ないほど顔が整って、スタイルもよかった。客席でも目立っていて、公演の前後に他の席から視線が送られてきていた。今もすれ違う女性たちが振り向いて友人同士でなにか囁きあっている。慣れているのだろう。葉一はなんの反応も示さず、意識もしていないようだった。 「店どうする? 台湾料理とかは? ここくるとき看板出てて気になったんだけどどう?」  劇場の扉を開けておれを先に外へ出してから、葉一が話しはじめる。 「好き? 台湾料理」 「うん、好き」  さりげない気遣いがいかにも堂に入っている。今はだれとも付き合っていないと聞いているが、彼と一緒にいられる女性は幸せだろうと、友人ながら思った。 「凪砂も好きだったと思う。前に一度、役者仲間と旅行に行ったことあるって」 「そっか」  目的の店は下北沢駅のすぐ近くにあった。メニューは台湾華語と日本語で記載されていて、インテリアも現地から仕入れたものらしく、レトロで本格的な雰囲気の店だった。店の場所は葉一が凪砂に報せてくれた。 「小籠包がうまいらしいよ、ここ」  おれの向かい側に座った葉一がメニューを開きながらいう。やけに詳しい。ここにくる前にあらかじめ店の特徴や料理を調べていたのではないか。まめな性格の葉一なら違和感はない。 「凪砂も台湾では小籠包が一番おいしかったっていってた。お土産はパイナップルのお菓子だったけど、本当は小籠包を持ってきたかったって。でも冷凍はあんまりないし、そもそも味が全然……」 「初芽って」  メニューに視線を落としながら相槌を打っていた葉一が苦笑いする。 「凪砂の話ばっかりだよな、いつも」 「え、そうかな……」 「たまにはおまえの話も聞かせろよ」 「おれの?」  今度はこちらが笑う番だった。おなじようにメニューを眺めながらいった 「おれの話なんかだれも興味ないって」 「おれが興味ある」  顔を上げると、いつの間にか葉一がメニューを置き、テーブルの上に肘をついておれを見ていた。視線が衝突し、思わずどきりとする。 「葉一くんはやさしいから……」 「べつにやさしくはないけど」  店員が注文を取りにきて、会話が途切れた。葉一はビールを、おれはジャスミン茶を注文した。料理の選択は葉一に任せた。こういうセンスは葉一に任せるに限る。 「小籠包も食べるだろ?」 「うん。あ、でももうすぐ凪砂がくるから待ってよう。できたてのほうが……」  また凪砂の話をしていることに気づいて、口を噤んだ。葉一がビールを飲みながら笑う。 「初芽、ほんとに凪砂のこと好きだよな」 「好きっていうか……」  店のドアを開けて、凪砂が入ってくるのが見えた。反射的に立ち上がった。 「凪砂!」  入口に背を向けていた葉一も振り返った。おれたちの姿を確認して、凪砂が軽く手を持ち上げる。大きなバッグを提げ、こちらに向かって歩いてくる。  11歳のときからもう12年の付き合いだ。それでも、凪砂を見るたびに胸が高鳴り、頬が熱くなる。恋愛感情とは異なるものだが、限りなくちかい。憧れとも執着ともいえる不思議な情念を込めて、おれは凪砂を見つめていた。
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