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1.運命の出会い
おれには推しがいる。
だれよりもかわいくてかっこいい、美しく、逞しく、あらゆるものを超越した存在。それが沓澤凪砂だ。
はじめて彼を見たのは小学校5年生の頃だ。シングルマザーだった母が再婚し、その年の夏に他校から転入してきたおれはまだ新しい学校に馴染むことができずにいた。
学芸会の舞台で、凪砂は主演を務めていた。演題はよくある子ども向けの童話で、凪砂は王子を演じていた。厳密にいえば、主人公はお姫様役の女子だったが、実質は凪砂が舞台の中心で、お姫様もほかの生徒たちも凪砂の引き立て役にすぎなかった。
凪砂はとにかく外見が美しかった。単純に「美少年」と形容するのも躊躇するほど完璧に整った顔を持っていた。舞台上にいるだけで観客の目を引きつけた。
ただ美しいだけでなく、存在感も抜群だった。一瞬で目を奪われた。白いタイツとマントを身に着けた王子の姿に釘付けになった。
おれたちのクラスの出番はとっくに終わっていたから、みんなとっくに帰宅してしまっていたが、おれはひとり残って、凪砂を見ていた。舞台が終わると、衝動的に舞台裏にはしった。
客席からはまだ拍手の音が聞こえていたが、凪砂は真っ先に舞台を降りてきた。喝采を浴びたのにもかかわらず、憮然とした表情で、大股に階段を下りる。おれの前を通り過ぎて、体育館を横切っていく。無意識に後を追った。
あきらかに苛立っている空気のせいか、それとも彼自身が持つ強烈なオーラが威圧感を与えるのか、凪砂が歩くと自然と道がひらき、歩くスペースが生まれた。校内でも有名らしく、だれもが振り返って彼を見た。
すこし離れてついて歩きながら、おれはこっそりと王子を観察した。凪砂は雑な手つきで手袋をはずし、ポケットに圧しこんでいた。時折女子に声をかけられたが無視して、脇目も振らずにすすんでいく。
男子トイレに入っていく凪砂のあとを追いかけて角を曲がると、突然目の前に凪砂が立っていた。あやうく衝突しかけて、声が出た。さっきまで舞台上にあった美しい顔が目の前にあった。
「だれ、おまえ」
呆然と立ち竦んでいるおれに、凪砂はいった。冷ややかな声だった。不審に思っているのはあきらかで、おれは狼狽えた。
「なんか用?」
「あの……」
なにかいわなければと思ったが、うまく言葉にならない。舞台の感想を伝えたかったが、どういえばいいのかわからなかった。彼を賞賛する言葉は無数にあるはずなのに、言葉が喉の奥に絡まって外に出ることを拒絶しているようだった。
「あ……」
凪砂が首を傾げながら視線をはずす。背中を向けられ、おれは焦った。
「さっきの舞台」
凪砂が振り返る。品定めをするような目でおれを見た。
「すごくよかった」
「……どこが?」
本当は真っ先にその美貌を讃えたかった。しかし、女子生徒の歓声を疎ましげに無視する姿を思い出し、言葉を飲みこんだ。代わりにいった。
「王子の台詞、感動した」
「どの台詞?」
凪砂の態度にはまだ警戒心がこもっていたが、無視はされなかった。試されている。おれは胸の鼓動を悟られまいと平静を装いながらつづけた。
「最後の『ぼくはだれにも縛られない』っていうの」
凪砂は腕を組み、壁に凭れておれを見つめた。長い睫毛が揺れ、大きな黒い瞳がかすかに揺れた。
「あとは?」
おれは必死で舞台の感想をまくしたてた。凪砂の発声がよく台詞が聞き取りやすかったこと、感情移入して涙が出そうになったこと。凪砂は腕組みの姿勢のまま無言でおれの話に耳を傾けていたが、やがて唐突におれの言葉を遮っていった。
「おまえ」
「はい」
同級生にもかかわらず、緊張のあまりについ敬語になってしまった。硬直して額に汗を浮かべているおれを見て、凪砂はいった。
「名前なに」
「安藤初芽……」
「ウメ?」
凪砂が笑った。まるで天使のように美しい笑顔に、おれは釘付けになった。
「ババアみてえな名前だな」
腕を組んだまま目を細めて笑う。乱暴な言葉遣いをすこし意外に感じたが、凪砂の魅力を損なうまでには至らなかった。むしろ儚げな美貌と強靱な態度のギャップがさらに特別な印象を放っていた。
「おい、安藤初芽」
呆然と立ち尽くしているおれに、凪砂はいった。
「おまえ、おれのファン第1号になる?」
拒否する理由などあるはずがなかった。その日から、おれの「推し活」がはじまった。
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