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お腹が空いたから
俺がまだ新卒のペーペーだった頃、※※市のボロアパートに住んでいた時の話だ。
そこは木造ではないんだが、壁やら屋根やら支柱やら、とにかくそこら中が錆だらけの軽量鉄筋のアパートでな。俺の部屋は2階にあったんだが、アパートの階段を昇る度、ギッシギッシっていう不吉な物音と共に、剥げた塗装が粉雪のように下へ落ちていくんだ。いつ倒壊してもおかしくない、金に困っている奴以外は絶対に住まない、そんな酷いアパートだった。
あの女の子は、そこの共同郵便受けの近くで、いつも1人で人形遊びをしていた。
当時の俺は忙しくてな。帰宅するのはいつも夜の10時を回る頃だったんだが、そんな時間になっても、あの子はいつも郵便受けの近くに1人で座っていた。
人形遊びというより、ぬいぐるみ遊びと言った方が正しいかもしれないな。
女の子が持っていたのはクマのぬいぐるみだった。
汚れてボロボロになったクマのぬいぐるみ。所々糸がほつれ、目は片方が取れかけていた。それをその子は、まるで飛行機遊びのように、上へ下へと、ゆっくり振り回していたんだ。
・・・全然楽しそうに見えなかったな。
女の子は無表情で、何もやることがないから仕方なくぬいぐるみで遊んでいるーー気を紛らわせているーーそんな風に見えた。
女の子がいつもいる場所は、丁度階段の登り口の側にあってな。俺は家に帰る度、イヤでもその子を目にしなければならなかった。
・・・そう、俺はイヤだったんだよ。
女の子は、一目でネグレクトを受けていると分かる見た目をしていた。
髪は油でベタついているし、着ている服は古い布を適当に裁断したような粗末なワンピースだった。近づくと少し臭うし、俺が『こんばんわ』と挨拶をすると、何も言わずに、ただじっとこっちを見つめ返してくるのもキツかった。
いっそ『助けて』と言って欲しかった。
そうだったら、俺は何の迷いもなく警察や役所に通報出来たのに。でも、女の子はそんなこと言わなかったし、助けを求めるような素振りも見せなかった。・・・いや、その言い方は卑怯だな。
女の子は、確かに、助けを求めるサインを出していたんだ。
言葉や行動にしていなくても、サインは出ていた。それは、誰が見てもはっきりと分かるものだった。あの子の姿を見れば、この子には助けが必要なことくらい、誰にだって分かったはずなのに。
俺も他の住人も、面倒ごとに巻き込まれるのを恐れて、誰も通報しなかったんだ。
俺は酷い奴だよ。どうしようもなかった。
あの当時、俺の頭の中は言い訳で埋め尽くされていた。
新入社員だから、憶えることもやることも山程あるから、俺が通報しなくてもそのうち誰かが通報してくれるからーーそんな言い訳を頭の中で繰り返し、俺はあの女の子を見ない振りをしていたんだ。・・・本当に、最低だったと思う。
俺の人生を変えるきっかけとなった出来事が起こったのは、そのアパートに越して来てから3ヶ月が過ぎた頃だった。
その日、俺はいつもよりほんの少しだけ早く帰宅した。仕事が思ったよりも早く片付いたから、上司にもう帰宅していいと言われたんだ。
せっかく早く上がれたんだから、どこかに遊びに行くことも考えたんだが、結局家に帰ることにした。疲れていたし、そもそも遊んだり飲みに行くような金も無かった。
家に着いたのは、夕方の6時を回る頃だったと思う。
女の子は、当然のようにいつもの場所に座っていた。
その頃になると、俺はもう、その子を見てもほとんど何も感じなくなっていた。
慣れとは恐ろしいもので、俺は最初の頃にあった後ろめたさをほとんど感じなくなっていた。俺は女の子をいつもの風景の一部か何かのように捉えるようになってしまっていたんだ。
その日も、『ああ、またいるな』くらいにしか思わなかった。普段通りに、軽く会釈して通り過ぎようとした。しかしーー
違和感を感じた。
その違和感が何なのかは、すぐに分かった。
ぬいぐるみだ。
女の子の持っているクマのぬいぐるみの首が、ない。
俺は思わず立ち止まり、じっと女の子とぬいぐるみを見つめた。
「・・・?」
女の子は、そんな俺を不思議そうに見つめ返した。その目を見て、俺はハッと我に帰った。今の自分は、端から見ると不審人物以外の何者でもないと気付いてしまったからだ。
「・・・そ、そのぬいぐるみの頭、どうしたのかな? なんで取れちゃったの?」
俺は誤魔化すような笑みを浮かべ、女の子の持っているぬいぐるみを指差した。自分で訊ねておきながら、聞いてしまったことを激しく後悔した。どう考えても愉快な理由ではないだろう。ボロボロになりすぎて自然に取れたか、あるいは近所の悪ガキに壊されたか。そんなところだろうと思っていた。けれどーー
「お腹が空いたから」
女の子から返ってきた答えは、ひどく理屈に合わないものだった。
女の子はずっとキョトンとした表情をしていたが、今度は俺の方がそうなる番だった。
クマのぬいぐるみの首が取れていることと、お腹が空いていたという答えに、何の整合性も見つけられなかった。俺は返事に窮した。それは一体どういうことなのか、と尋ねるのは簡単だが、何故だかその言葉が中々出てこない。
聞きたくない、と、俺の心のどこかの何かが、警鐘を鳴らしていたのかもしれない。
女の子はぼうっと突っ立っている俺から目を逸らし、何やら後ろを向いてゴソゴソし始めた。
「・・・」
そして、無言で俺の前に何かを差し出してきた。
それは、萎れたクマのぬいぐるみの首だった。
首の切断面からは千切れた綿が覗いている。女の子はそれを摘むとーー
徐に、自らの口に運んだ。
「・・・おにいちゃんも、たべる?」
女の子が言った。
自分のお菓子を分け与えるのを少し渋っているようなーーそんな、表情で。
俺は泣いたよ。その場に立っていられなくなるくらい、泣いた。
女の子は、そんな俺を不思議そうにじっと見ていた。
・・・その後のことは、特段話すことはない。
俺はあの後、すぐに警察に通報したよ。
女の子は、それからしばらくして姿を見せなくなった。
警察は詳しいことは教えてくれなかったが、話の断片から察するに、どうやらあの子は母方の両親の方に引き取られて行ったらしい。俺はあの子の名前も知らないが、元気で幸せに暮らしていることを心の底から願っているよ。
そして俺は、勤めていた会社を辞め、勉強をし直して、警察官になったんだ。
あの女の子のような子どもを助けたい。
その一心でな。
<了>
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