おむすび屋さんの若店主に一目惚れした話。

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 青暗い空に点々と浮かぶ星をぼんやりと仰ぎながら歩く。足取りが覚束ないのは決して酔っ払っているからではなく、意気消沈が故だった。  久々に定時退勤ができそうだと思った間際、先方から急で申し訳ないが仕様変更に対応してもらえないか、と連絡が入った。  明日締切の施策で、余裕を持たせて一昨日には完成データを送付し、問題なく受領した旨の返事をもらっていた。  嫌な予感をたっぷりと抱きながら締切を尋ねれば、当初の予定通り明日の昼までにあげてほしいと言われたときは、受話器を叩きつけてしまいそうになった。  だが新卒から今の会社に入って早三年、すっかり社会に染まった虎太郎は、手に力が籠りそうになるのをぐっと堪えるのにも、尖ってしまいそうになる声を制御するのにももうすっかり慣れていた。そして申し訳なさを装っているこの相談が実質相談ではないことももうよく知っていた。例えここで「無理ですね」と答えたら上司の方に話が行き迂回をしてまた虎太郎の元に戻ってくるだけである。つとめて冷静に了承の旨を返した虎太郎は片付けを済ませていたデスクに再びついた。  同僚たちは憐んでくれたが今日は皆一様に用事があり、上司は頑張れよの言葉だけを残してさっさと帰路について、気づけばオフィスには虎太郎ひとりきりになっていた。修正データを作り先方に再び送ったときにはもう日付が変わろうという頃だった。  急いでオフィスを出て駅まで駆け、電車に飛び乗る。  目が死んでいたり、閉じていたり、ため息を何度もこぼしていたり。疲弊しきった人々が揺られる電車の中、虎太郎は息を切らしながら腕時計を確認した。大学の卒業祝いに妹から貰ってからずっと愛用している黒のスポーツウォッチは無慈悲にも、自宅最寄り駅を通る唯一の鈍行電車の終電時間を指していた。  乗り換え駅からは歩いて帰宅しなくてはならないと思った虎太郎の目は完全に生気を失い、疲弊しきった人々の仲間入りを果たした。  なんとなくで入った大学から、なんとなくで就職した会社は、給料こそは悪くはないが労働環境が、ちょっと、ハードだった。けれど、社会ってこういうものなのかもしれないし。きっと、自分よりも過酷な環境で働いている人だってたくさんいるだろうし。だって、残業はあっても、週末の休みは保証されているんだから。ただ、土曜日は泥のように眠ってしまうし、日曜日になるたびに明日からまた仕事だと思うと気持ちがどんよりと沈んで何をする気も起きない、活気なんてまるでない時間を過ごしているけれど。学生の頃と比べたらずっとお金は稼げているのに、学生の頃のように友達とあっちこち旅行したり遊ぶ時間もなければ、漫画や音楽を楽しもうという気分にもなれない。  なんのために働いて、稼いで、生きているのか。  そんなセンチメンタルはこの頃時々抱いていたし、定時退勤できないのだってしょっちゅうのこと。終電を逃したのもこれがはじめてではないのに。 「……きっついなぁ」  そんな弱音が口から出たのは、これがはじめてだった。そして口にすると、自分の中に募っていた疲弊が一気に輪郭を持ったみたいに、ずっしりと重たくのしかかってきた。次の一歩を踏み出すのが億劫になって、それでも止まるわけにもいかず歩きながら前を向いたとき、あれ、と思った。 「ここ、どこだ」  乗り換え駅から自宅への道はもうすっかり馴染んでいたはずなのに、ぼんやりとしていたせいかどうやら道を間違えてしまったらしい。疲弊のあまり帰巣本能も馬鹿になったってか、と乾いた笑いを零すと、次の一歩がもう踏み出せなくなった。もういっそタクシーを呼んでしまおうか。痛くはない出費だ。けれど、ポケットからスマホを取り出すことすら億劫でぼうっと突っ立っていると、ふいに。  視界の端にぼんやりと映っていた、明かりの灯っていた家屋から誰かが出てくるのが見えた。軒先でぼんやりと蠢くその人の姿に目を凝らすと、どうやら暖簾を下ろしているようだった。飲食店だったのか。いや、こんな遅い時間まで開いていたということは飲み屋だろうか。  なんて考えながらじっと見つめてしまっていた視線が伝わってしまったのか、暖簾を持ったその人がこちらを向いた。  大きな黒い瞳。白い三角巾に覆われた黒髪。三角形が散らばるエプロン。虎太郎よりも少しだけ背が低く、同世代くらいに見える男性。  視線が重なった瞬間、心臓がどきりと跳ねると同時、さっきまでぼんやりとしていたその人の姿が、どうしてか、急に明瞭に見えた。  その人はしばらく虎太郎の方を見つめていたが、やがて家屋の中へと戻っていく。  虎太郎はなんともいえない惜しさを感じた。どうしてそんなふうに感じたのか考えるよりも先に、また軒先に、その人が出てきた。その手にはもう暖簾はなく、虎太郎の方に駆けてきた。  間近にきたその人は、虎太郎を仰いでから、少し視線を彷徨わせた。それからもう一度、意を決したようにまっすぐ虎太郎を見つめた。 「あの」 「は、はい」  虎太郎もつい緊張して上擦った返事をしてしまい、面映く襟足をかく。 「大丈夫、ですか」 「えっ」 「あ、いや、その……なんというか、この世の終わりみたいな顔で、佇んでいらっしゃったので」 「この世の終わりみたいな顔……」  そんなふうに言われたのははじめてだった。自分の頬にそっと触れると、彼は「今は大丈夫ですよ」と手をわたわたと振る。それからまた、彼はきょろきょろと視線を彷徨わせる。決して小柄なわけではないのだが、なんだか、小動物めいたかわいらしさがある。 「お腹とか、空いていますか」  虎太郎がぱちりと瞬く間に、彼はおもむろに顔を上げて、上目に問うてくる。 「おむすびって、好きですか」 「おむすび」 「お米を握ったものです」  さすがにそれは知っている。けれど、わざわざ両手で三角形を作って、やけに神妙に説明してくれる彼に、虎太郎の胸と頬がどうしようもなくむずりとした。 「実は、俺、そこでおむすび屋さんを営んでいるんですけど。もし、お腹が空いていて、おむすびが好き……いえ、好きじゃなくても! もし嫌いじゃなかったら、あの、食べて行きませんか」  彼が出てきたお店は、おむすび屋さんだったのか。  おむすび。お米を三角形に握ったもの。思い浮かべてみると、お腹がぐうっと鳴った。思い返せば、昼食以降摂取したのはコーヒーのみ。そりゃあ、お腹が空いて当然だ。  それに、今もなお三角形を模る彼の手から生み出されるおむすびはなんだかとってもおいしそうに思えて——。 (うわ、何思ってんだ、変態くさい)  虎太郎が思わず口元を抑えると、目の前の彼はそっと眉を下げた。 「嫌いでしたでしょうか」 「いや、好き!」  咄嗟に答えたそれに、頬が燃えるように熱くなり、心臓が激しく高鳴った。 「あ、えっと」 「よかったです」  ほっとしたように嬉しそうに彼はにぱっと笑った。そして「じゃあ、行きましょう」とくるりと踵を返して歩き出した彼に、虎太郎はまるで磁力でも働いているみたいに、足が勝手に動いて着いてった。  暖簾が下りた店先に着き、「商い休」と書かれた札がさがった格子戸をからりと開ける。真正面に現れるのは小ぶりのガラスケース、中には木の板と手書きの商品札があった。お惣菜の名前が書かれているが、商品は置かれていない。暖簾を下げようとしていたのだから、売り切れたかすでに片付けを済ませていたんだろう。  そんなところに訪ねてしまって申し訳ない気持ちがありつつも、温かみのある手書きの商品札を見ていると、いっそう腹の虫が疼いてしまう。きゅう、と音が鳴ってしまって、咄嗟にさすれば、ガラスケースに横並んだカウンターの向こうに入った彼が微笑みながら尋ねてくる。 「好きな具はありますか」 「あ、えっと」 「なんでもいいですよ。あ、メニュー表はこれです」  カウンター上にあるメニュー表がそっと押し出される。 「じゃあ……しゃけで」 「了解です。ちなみに、好き嫌いはありませんか」 「特には……」 「なんでも食べられるの、いいですね。素敵です」 「じゃあ、ちょっとそこの椅子に座って待っててください」と彼はさらに奥、ガラスで仕切られた厨房の方に向かった。  彼が去り際に指した右手側の壁にはテーブルがひとつ、それを挟むように置かれた椅子がふたつがある。イートインスペースなのだろう。片方の椅子を引いて腰を掛けた虎太郎はぐるりと辺りを見回した。木目の床にシックな黒の壁。店内は数人の客が訪れたらもういっぱいになりそうにこぢんまりとしている。個人経営の店なのだろう。彼はそこの店員だろうか。思ってから、先に彼が口にしていた「営んでいる」という言葉を思い出した。  同世代か、年下くらいに見えるのに、自分の店を持っているなんてすごい。ちゃんと、自分のやりたいことを持っているなんてすごい。  ふと、カウンターのところに四角い紙が置かれているのが見えた。もしかしてと思って近づくと、それはショップカードだった。 「おむすび屋、むすび」 「単純な名前ですよね」  ガラスの壁越しに視線が重なる。聞こえていたのか、とちょっぴり驚く。それが伝わったのか、「結構音通るんですよ」と彼は微笑んだ。なんだか、さっきから恥ずかしさやらどきどきやらが止まらない。けれど、ここから目を逸らしたいとか逃げたいとかは思えなくて、もっと、熱くなってどきどきとする。 「一応、由来はあるんですよ。俺の苗字に「結び」って文字が入っているから」 「結び」 「結ぶ城で結城(ゆうき)です」 「お名前は」 「え」  きょとんとした表情に、あ、と内心で焦りの声が溢れる。つい、気になる衝動のままに尋ねてしまった。変だっただろうか。背に変な汗が滲むのを感じる。 「翌日の翌って書いて、 (あきら)です。お兄さんは」 「あ、姫宮虎太郎(ひめみやこたろう)です。えっと漢字は、姫路城の姫に、宮城の宮。動物の虎に太い……郎ってどう説明すればいいんだ……?」 「外郎の郎ですか? それとも、朗らか?」 「外郎の方です」  自分の名前の漢字を口頭で説明するのは、はじめてだった。結城が丁寧に自己紹介をしてくれたから、虎太郎もつい、なぞりたくなってしまった。 「なるほど。音も字面もかっこいいお名前ですね」 「あ、ありがとうございます。たまに言われます。名前負けしているとも……」 「そうなんですか? 姫宮さん、十分かっこいいと思いますけど」  それも言われたことがまったくないわけではなかった。学生時代なんかはそれなりに声をかけられたり、交際をしたこともある。  なのに、結城の声が表情があまりに飾らない色を持っているせいか。その褒め言葉がこんなにも嬉しく感じるのは、それでいて呼吸がきゅうっと苦しくなるのは、はじめてだった。  さっきから、どうにも、体調がおかしい。突然風邪でも引いたみたいだ。でもそれを口に出せば、このやさしい男はきっと、気にしてしまう。タクシーでも呼んで今すぐにでも帰らされてしまうかもしれない。  もっと、彼といたいと思った。彼と話したいと思った。自分の異常を誤魔化すように、虎太郎はなんとか笑顔を作った。 「結城さんは名前にぴったりって感じがしますね」  結城がぱちりと瞬く。 「そうですか?」 「そうですよ。字も音も綺麗な苗字、翌って名前もなんだか明るい感じがするっていうか。俺は、日が繰って夜が明けて明日が今日になってしまった、みたいな感覚が本当に苦手なんですけど。結城さんはぱっと目覚めて、ぴんと伸びをして、健やかに起床していそうです」  目を丸くした結城が視界に移り、自分の頭の中でまた、あ、と声が響いた。  やってしまった。誤魔化そうとしてなんとも盛大に——好意が口から飛び出した。  どうしよう、と思った。正直なところ、薄々感じてはいた。  これはもしかして、風邪なんかではないんじゃないか、って。  もしかしたらもしかして、って。  けれど、同じ男だし、って——その懸念を抱いて真っ先に思ったのは、自分のこれまでの性嗜好に合っていないということではなく、結城にこの好意が微塵でもばれて引かれてしまったらという怯えだった。  だからもう自分にはもう退路がないことがうっすらと分かっていたけれど、まさか、こんなにもあっさりとぼろを出してしまうとは思わなかった。どれだけの多忙の波に襲われて苦しい思いをしても普段はちっとも弛まない涙腺が、しかし今は決壊寸前だ。 「あ、えっと、その」  なんとか自分のやらしをフォローしたいけれど、言葉が生まれない。意味をなさないことばかりが情けなく口からぽろぽろと零れていく。 「姫宮さんって」  虎太郎が自己弁護するより先に、結城の方が先に意味を持つ言葉を口にする。ぎくりと、心臓が凍てつく。 「感性が豊かな方なんですね」 「……へ」 「そんなふうに言われたことないです。でも実際は、俺も朝には強くないですよ」  結城はおむすびを握りながら、穏やかな声音で言う。  ——もしかして……好意にはちっとも気づいていない?  ほっと安堵の息を吐く傍で、ほんの少しだけ、残念な気持ちがあるのはなぜか。 「このお店が夜営業なのもそれが理由のひとつだったりするんです」  そういえば。たしかに、不思議に思っていた。  そもそもおむすび屋さんというものにあまり縁のない人生だったが、なんというかそういう専門的な飲食店は夜の八時ぐらい、遅くても九時にはもう閉まっているようなイメージがある。チェーン店だったり駅構内にある店舗などだったら帰宅の遅いサラリーマン向けに営業していたりもするのかもしれないけれど。結城の店は個人経営で、立地は、虎太郎がうっかり迷い込んだ乗り換え駅と各駅停車でしか止まらない駅の間、人通りの少ない住宅街だ。変わっている、と思う。正直、儲けられているのかと無粋なこともよぎってしまう。 「仕込みのために昼頃に起きるんですけど。それもまぁまぁ辛くて、目覚ましは毎日十個掛けてます」 「十個!?」 「十個って言っても、機体じゃないですよ。スマホのアラーム機能です。そうしないと、止めて二度寝しちゃって駄目なんです」  ああなるほどと納得した。それなら虎太郎も身に覚えがあった。さすがに十個は設定はしていないが、それでも十五分刻みに三回分のアラームを毎日設定している。 「目覚まし時計に囲まれている結城さんを想像しちゃいました」 「あはは。まぁ、絵面としてはありですよね。でも、俺の部屋は散らかってるから、置き場がないなぁ」 「あ、店はちゃんと整理しているし清潔ですよ?」と慌ててフォローする結城につい、くすりと笑いが溢れる。  そんなやりとりをしているうちに結城はおむすびを作り終えたようで、お盆を手に持ってカウンターの方に出てきた。 「そこの席で食べましょう」  ショップカード見に立ったままだった虎太郎に、結城が微笑み言いながら、お盆をテーブルに置く。至れり尽くせり、手伝いを申し出れなかった自分に、ちょっぴり情けなさを覚えながらとぼとぼ戻った席についた虎太郎は、ぱちりと瞳を瞬いた。  お盆の上にはふたつの皿とお椀があった。皿にはそれぞれみっつずつ、おむすびが横並んでいる。お椀にはごろごろと具が入った味噌が鼻腔を擽る汁が注がれている。お腹は空いているから食べられはするだろうけれども——。 「俺も夕飯まだだったので。一緒に食べてもいいですか?」 「も、もちろんです!」  そういうことかと納得すると同時、虎太郎の気持ちは露骨に舞い上がった。 「ありがとうございます」と言って、結城が席につく。こちらこそお礼を言うべきだと口を開いたとき、結城は頭に被っていた三角巾を外した。それによってあげられていた髪がさらりと下りる。虎太郎と同じ黒髪だけれど、虎太郎のものよりも細くやわらかそうに見える。目に少しかかるかからないかの長さの前髪、それをちょっぴり気にするように上目になる大きな瞳。中途半端に開いたまま、口が動かなくなる。つい、かわいい、と見惚れてしまう。 「これ、使ってください」 「あ、はい。すみません、ありがとうございます!」  結城からおしぼりを差し出されて、は、とした。自分の口から飛び出した慌てきった礼に虎太郎はまた恥ずかしさを覚えた。今日だけで一緒分の羞恥心が稼働しているような気がした。けれど、そんな虎太郎の様子を、結城はちっとも馬鹿にしたりしない。気づいていないのか、気にしていないのか——。 「汁物は豚汁です。おむすびは、お腹空いていそうだったから、みっつぐらいいけると思ったんですけど、きつかったら残してくれて大丈夫ですからね。具は姫宮さんから見て左からしゃけと……あ、それ以外はサプライズの方が楽しいですかね?」  顎に手を当て、やけに真剣に言う。さっきから思っていたけれど、結城はなんというか……言葉を選ばなければ、少しずれている気がする。  気づいていないのか、気にしていないのかで言ったら、多分後者。けれど、それは虎太郎に興味がないからというわけでもなさそうで。  虎太郎が日頃接しているような人たちと比べると結城は、どこか少し違うところに視点を置いるような。少しやわらかいような。そしてとてもあたたかいような。そんな気がする。そしてそれが、虎太郎にはとても好ましく思えた。胸が、むずりむずりとする。またうっかり気を抜いたら、好意が飛び出してしまいそうな予感がして、ついきゅっと唇を引き締める。と、それを見た結城が少し目を見開いて。 「喉、乾いてますよね。というか、飲み物ないと食べづらいですよね。冷たいものでも大丈夫ですか?」 「あ、えっと、はい」  結城は駆け足で厨房の中に戻るとまたすぐに、ふたつの湯呑みを持って出てきた。 「麦茶です。どうぞ」 「ありがとうございます……なにからなにまで」 「いえ、俺が勝手にやったことですから」  慎ましく、やわらかく、結城は微笑む。  虎太郎の胸に先から募っていた熱がぐっと突き上がる。 「それじゃあ、いただきます」  結城が両手を合わせる。虎太郎もそれに合わせて、手を合わせた。 「いただきます」 「召し上がれ」  返事もらって、は、と気づいた。「いただきます」を口にしたのがもうずいぶんと久しぶりであることに。  就職を機に実家を出て、多忙の合間に一人で食事を摂るようになってから、すっかり、食事どころか仕事に関わるもの以外すべての挨拶を口にする機会がなくなっていた。  向かいの結城をちらりと伺い見れば、まずお椀を手に持った。縁にそっと唇を寄せて、汁を啜る。ほっと、息をこぼす様に唆られた。  虎太郎もお椀を持って飲む。馥郁と香る味噌には具材の味がしっかりと出ている。嚥下すれば、熱がゆっくりじっくりと染み広がっていく。 「おいしい」  箸を手に持って、具材も口に運んでいく。ほっくりとしたにんじん、じゃがいも、だいこん、ごぼう。とろりととろける玉ねぎ。旨みがぎゅっと詰まった豚肉。ほんのり効いている生姜の風味もよく、体がいっそう温まる。  豚汁を飲んでいると、米が欲しくなった。惹かれるままに、一番左側のおむすびに手を伸ばした。  片手で持つのにちょうどいいサイズ感。けれどなんとなく両手で持ちたくなる不思議なフォルム。  虎太郎はまろい頂点にかぶりついた。 「ん」  たまらず声が漏れた。ほどよい塩味を纏った米がふんわりとまとまっていて、歯触りよく崩れる。噛んでいくほどに甘みが出てくる。米だけですでにとてつもなくおいしい。それなのに、具にたどり着くと、また新たなおいしさが姿を表す。ふんわりとしたしゃけの身の食感と味が米と混ざり合い、食べ進める口がちっとも止まらない。決して小ぶりなおむすびではなかったのに、あっという間にひとつ、姿を消した。  ほわ、とした多幸感が全身に満ちる。ふと、正面から視線を感じて見れば、結城と目が合った。 「姫宮さんって、とてもおいしそうにごはんを食べますね」 「そう、ですか?」 「はい。見ていると、姫宮さんが食べているものを食べたくなるっていうか。作り手冥利に尽きるっていうか」  それを言うのなら、結城もとてもおいしそうに豚汁を飲んでいて、とても唆られた。  そして誘われるままに口にした豚汁も、そしておむすびも、本当にとてもおいしかった。  久々に、おいしいを味わった。 「あの、俺、別に今日特別しんどいことがあったわけじゃないんです」  口に出してから、何を言っているんだろうと思った。けれど、通り雨の降り出しのように、ぽろぽろと溢れていく言葉は止まらない。 「仕事が忙しいのもいつものことで、残業だってよくあることで。でもさっき、なんかすごい、辛いなって感じちゃって。それを口に出したら、動けなくなっちゃって……そこに、結城さんが、声かけてくれて」  あのとき、結城が声をかけてくれていなかったら、虎太郎はどうしていただろうか。立ち止まっていたって仕方ないと諦めて、また歩き出せていただろうか。もしくは、タクシーを呼べていただろうか。明日また、仕事に行けていただろうか。生きていけていただろうか。  自分で思って、大袈裟だと思う。けれど、本当に、結城のやさしさに、救われたと思った。 「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」  本当に通り雨が降り出したのかと思った。机上に一滴、雫が落ちたから。だが少しして、自分の滲んでいることに、頬が濡れていることに気がついた。 「水をコップに注ぐとき、結構限界まで注いでも、なかなか溢れないじゃないですか。表面張力が働いて。でも、そこに一滴ずつ水を落としていくと、ある一定をのところで溢れちゃう。今日は、それだったんじゃないでしょうか。姫宮さんの中に最後の一滴が注がれて、たまっていたものが全部溢れ出しちゃった日」  きぃ、と椅子を引いて席を立った結城がどこからかティッシュを持ってきてくれる。「いくらでも使ってください」と言う様がなんだかおかしくて、ちょっぴり、頬が緩む。 「これは、外野の人間が無責任に言うことではないかもしれないですけど。姫宮さんが少しでもしんどい思いをしないような環境に身を置けるようになったらいいなって思います」  先に会ったばかりの赤の他人なのに、そのやわらかな声言葉は心から虎太郎の安寧を祈ってくれているようだった。  虎太郎はふうっと息を吐いた。胸に溜まっていた重たいなにかが溢れていくのを感じた。肩がゆるむのを感じた。  ずっとしんどかった。それでいて、現状を変えたいと思ったことはなかった。諦めていた。環境を変えるために動くのも体力がいるし、我慢もできていたから。生きてはいられたから。  でも、結城を見て、虎太郎ははじめて、自分の状況をどうにかしたいと思った。  挨拶がしたい。美味しいごはんが食べたい。困っている人にやさしくできるようになりたい。  結城に憧れた。そして、認めざるを得ないほどに、とてつもなく、惹かれていた。虎太郎は、もう自分の後ろに道がないのを感じた。  二つ目、三つ目のおむすびを食べる。具はたらこと、チーズおかかだった。 「チーズとおかかの組み合わせ、はじめて食べました。こんなに合うものなんですね」 「最近は出回ってますよ。俺もすごい好きで、店でも三番目に人気です。ちなみに一番はしゃけで、二番はたらこです!」  じゃあ、しゃけは偶然にしても、結城は店のトップスリーを皿に並べて提供してくれたのか。じんときて、また涙が出そうになってしまった。  たっぷりあった食事はあっという間になくなった。腹がいっぱいに満たされて、ふんわりたぬくもりと眠気に体が包まれる。 「ごちそうさまでした」  両手を合わせる。結城の方も完食していたようで、虎太郎に続いて「ごちそうさまでした」と口にした。 「学生時代に飲食店の洗い場でバイトしてたことあるんです」と押し切って洗い物を手伝わせてもらってから、虎太郎はタクシーを呼んで帰宅した。  翌朝の起床はいつになくすっきりしていた。カーテンを開けて朝日を浴びて、ぴんと伸びをして、食材がなかったから近所のパン屋に朝食を買いに行って。それから、出勤までの間に退職届を認めた。次の仕事は決まっていない。貯金だけはあるから、アルバイトでもしながらゆっくりやりたいことを探すと決めた。  多少引き止められもしたが退職届はしっかりと受理され、今日明日は引き継ぎ資料を作るとして、のこりの出勤日にはたっぷりと残っていた有給に当てた。  残業もしたけれど、昨日までの鬱屈はなかった。午後十一時には会社を出て、電車に乗った。  昨日もらった「おむすび屋 むすび」のショップカードに、「土日休・営業時間は午後五時から午前〇時まで」と書いてあった。昨日、虎太郎が通りかかった際にはもう過ぎていたろうに、暖簾を下ろしている結城に会えたのはきっと、ラッキーだったのだと思う。  今日は余裕を持って行こうと決めていた。軽い足取りで店先につく。かわいらしい三角形と筆字の「おむすびや むすび」が描かれた暖簾が出ている。  ひとつ深呼吸をして、虎太郎は格子戸をからりと開けた。 「ありがとうございました」  ちょうど、客がひとり会計を終えたところだったらしい。カウンターで結城とスーツ姿の長身の男が対峙していた。ビニール袋を手にさげた男がこちらに歩いてきたから、虎太郎は道を開ける。出ていく男の背を見送ってから、虎太郎は結城の方に視線を戻した。 「いらっしゃいませ」  虎太郎はまずはリュックから封筒を取り出した。 「あの、これ」  結城はきょとんと首を傾げた。 「えっと……?」 「昨日の代金です。おむすびと豚汁、ご馳走になったままだったので」  ぱち、ぱちと結城が瞬く。それから、結城は、あ、と声を零した。 「姫宮さん」  結城は封筒を受け取ると、中身を見て、はっと虎太郎の方に突き返してきた。 「こんなに受け取れません!」 「お世話になった分も含めてと思っていただけたら」 「いや、大したことしてないですから」 「大したことですよ。俺、本当に、結城さんに救われて。改めて、ありがとうございました」  封筒を持つ結城の手をたまらずぎゅっと握る。握ってから、はっとする。 「す、すみません」 「いや……あの」  結城は視線を彷徨わせて、俯いた。それから静かな声で。 「本当に、大丈夫ですから」  と、言った。  虎太郎の背筋がわずかに冷えた。しつこすぎただろうか。けれどどうしてもお礼がしたかった。物を買って渡すことも考えたが、それもどうかと思って代金を上乗せすることにしたけれど——。 「おむすび。今日も買って行ってくださったら、それで、十分ですよ」  結城が微笑む。それが作り笑顔であることは、瞬時に分かった。彼の柔らかな笑顔は昨日たっぷりと見ていたから。困らせた上に気を遣わせてしまって、虎太郎の心はいっそう沈む。 「えっと、じゃあ」  けれどこれ以上気を遣わせてはならないと、虎太郎はカウンター上にあるメニュー表を見た。  一通りをなぞったけれど映像がうまく頭に入ってこなくて、虎太郎は昨夜の記憶をなぞった。 「しゃけと、たらこと、チーズおかかで」 「あ、お目が高いですね。うちの一番人気、二番人気、三番人気ですよ。それ」 「用意するので少々お待ちください」と結城が厨房に向かう。虎太郎は少し、ぽかんとした。  そのおむすびが人気トップスリーであることは、昨日に聞いていた。場には気まずい空気が流れて胃から、少しでも和ませるための冗談として言ったのかもしれない。  けれど、なんだろう、拭えないこの違和感は——。  あれ、と虎太郎は思った。  虎太郎が最初に代金を差し出したとき、結城はきょとんとしていた。  そして虎太郎が昨夜の話を持ち出すと、結城はそのとき思い出したように、虎太郎の名前を呼んだ。  仕事が忙しくて昨夜のことなんて忘れていたということもあるかもしれない。結城は顔を覚えるのが苦手なタイプなのかもしれない。  でも。  昨日の出来事は、結城にとってもよくあることなんかじゃないはずだ。それに、結城は虎太郎の見目をしっかり捉えて、かっこいいと褒めてくれていた。  あくまで推測の域から出ない。それに、そんなこと、あり得るのかと思う。ガラスで仕切られた厨房では、結城は慣れた仕草でおむすびを用意している。できている。でも——。  やがて厨房から、おむすびをみっつ乗せたトレーを持って結城が戻ってきた。 「しゃけと、たらこと、チーズおかかでお間違いないでしょうか」 「はい」 「三点で、九百円になります」 「あの」 「はい」  淡く作り笑顔を浮かべている結城が、そっと首を傾ける。虎太郎は意を決して、尋ねた。 「俺のこと、覚えていますか」  結城の瞳が、まあるく見開かれた。  しん、と静寂が流れる。しばらく、返事が来ない。結城の唇がたまに、はく、と震える。  それが、まるで、回答のように感じた。  そしてその様子から、忙しくて忘れたとか覚えるのが苦手だとかいう理由ではない気配が漂った。 「翌」  静寂を遮ったのは、出入り口から聞こえたハスキーな声だった。振り返ればそこには、茶髪の男がいた。年齢は虎太郎や結城と同じくらい。名前呼びなのを見ると、親しい間柄なのだろうか。 「接客中に悪ぃ。その会計終わった後で大丈夫だから、明日の予約分について相談したくて」 「あ、うん。分かった」  結城も接客時とは少し違う低い声音で答える。胸が、つきりと痛む。  と、出入り口に立つ茶髪の男と目が合った。少し薄色の瞳が細められて——睨まれているように感じて、少しどきりとした。 「じゃあ、会計が済んだら、よろしく」  男は去っていく。 「あの」  と、勇気から声を掛けられて、は、と振り向く。 「お会計、いいでしょうか」  何か言おうと思った。けれど、何も言えないまま、虎太郎は財布から九百円を取り出し、商品とレシートを受け取る。 「ありがとうございました」  そう言う結城の声は少し、沈んでいる。今日は大人しく帰ったほうがいいのかもしれない。けれど、踵を返す足が少し、重たい。 「お店に来てくれるの、本当に嬉しいです。でも、俺のことは、あまり気にしないほうがいいです」  躊躇していると、結城がそう声を掛けてきた。え、とおもむろに顔を上げた虎太郎は、密かに息を呑んだ。 「その……俺、ものすごく、記憶力が悪くて。一晩寝るだけでかなりの量が抜けちゃうと言いますか。だから、あなたと話したこともきっと、また忘れてしまいます。がっかりさせてしまいます。昨夜は、俺から話しかけちゃった、けれど。またきてくれるとは思っていなかったんだと思います……すみません」  笑いたくても笑えないような、泣きたくても泣けないような、その表情が、あまりにも切なかった。  胸が、苦しかった。  虎太郎は、はく、と空気を食んだ。躊躇はあった。けれど、やっぱり、退路はなかった。 「ごめんなさい、気にしないのは、無理です」  目を丸くする結城に、虎太郎は意を決して、続けた。 「俺、結城さんに一目惚れしちゃったから」  これは姫宮虎太郎が、起きている間しか記憶が持たないおむすび屋さんの若店主に一目惚れした話。
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