ひとひらの桜

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ひとひらの桜

(ああ、今年もまたお花見しながら練習してるな……)  遠くから微かに聞こえてくるトランペットの音色を聴きながら、俺は地元民の間で『桜ヶ丘』と呼ばれる場所の麓に立ち、吹奏楽部の同級生だった綾戸咲(あやどさき)の元へ向かう。  なだらかな丘の頂上には特に大きな桜の樹木が一本だけ植えられており、丘全体は桜色の絨毯で敷き詰められている。  咲は恐らく、頂上で練習しているのだろう。  緩やかな坂道を上っていくにつれ、彼女の奏でるふくよかな音色が次第に大きく響き渡る。  咲が演奏しているのは、二年前の吹奏楽コンテストの課題曲でもあった『さくらのバラード』だ。  仄かに明るくて、どこかほろ苦く切ない旋律が『出会いと別れ』を思わせる。  コンテストで演奏しなかったが、高校在学中、吹部主催の定期演奏会で何度か吹いた曲。  今日は俺もここで演奏したくなり、バリトンサックス持参で桜ヶ丘に来てみたものの、鉛のように重い楽器ケースが頂上までの道のりを阻む。  だが、俺は負けじと楽器ケースを両手で持ち、一歩また一歩と踏み締めるように歩みを進めていった。 ****  何とか頂上まで登り切ると、咲は大きな桜の下で高校の制服に身を包み、漆黒の長い髪を靡かせながら麓に向けて演奏している。  黒く大きな瞳は、遠くの空に視線を向けたまま。  穏やかな風が吹き抜け、スカートの裾を微かに揺らす。  桜の花弁が時折ハラリと舞い落ちていく中で楽器を吹く彼女は、どこか儚げだ。  不意に彼女は唇からトランペットを離して足元に置くと、傍にあるペットボトルのお茶を手に取り、一口含んだ。  フウっとため息を吐いた咲の横顔は、高校入学時と比べると、かなり大人びて色香すら感じてしまう。  休憩をすると思った俺は、彼女に近付きながら名前を呼んだ。 「咲」 「あ、向坂(こうさか)くん。どうしたの?」 「いや、俺もここでバリトンサックス吹いてみたくなってさ。お前、この時期になるとよくここで自主練してるだろ? 雄大な桜色のパノラマを見ながら楽器の練習って、吹部らしい花見の仕方で良いよな」  咲はペットボトルのお茶を足下に置き、トランペットを手にした。
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