ひとひらの桜

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「ねぇ。せっかく桜の綺麗な所にいるんだから、この景色を見ながら『さくらのバラード』を吹こうよ! 私が旋律担当。向坂くんは低音部分担当ね」 「わかった。準備するから待っててくれ」  俺は楽器ケースを開いてストラップを取り出し、首に掛けてバリトンサックスに装着させた。  マウスピースをセットして軽く音出しをしてみる。指もよく動くし、音もよく響いている。今日は特に調子が良さそうだ。  準備が整ったところで、俺は気になった事を彼女に聞いてみた。 「なぁ。何で制服なんて着てるんだ?」 「だって、高校卒業したし、制服を着て楽器を吹くのもこの先無いでしょ? それに——」  咲はしばらく言い淀むかのように沈黙した。その間、俺は彼女の言葉を待ちながら楽器に息を吹き込んで温める。 「——この町にいるのも、今日で最後だから」  咲が寂しそうに微笑む。彼女には悪いと思うが、どこか憂いを帯びているような表情が美しい。 「そうか。いよいよ明日……出発なんだな」  咲は東京にある立川音楽大学器楽学部のトランペット専攻に進学し、更に研鑽を積むという。  音大志望だった彼女は、部活が終わってからも毎日遅くまで練習に励み、部活の合間にトランペットはもちろん、受験科目の副科ピアノ、ソルフェージュのレッスンを立川音大の教授から受けていた。  弛まぬ努力が実り、第一志望だった音大に合格できたのだ。  咲の音楽への情熱は、俺が一番知っていると自負している。何せ、『吹奏楽部』という彼女から最も近い所でずっと見つめていたのだから。 「向坂くん、準備はいい?」  思考の海を彷徨っていた俺を、咲の涼やかな瞳と声が拾い上げる。 「おう、いつでもオッケー」  二人で桜色の海に向かって楽器を構え、咲がタクトを振るように軽くトランペットのベル部分をスッと上げた。 ****  在学中、何度か吹いた楽曲を、今は俺と咲だけで吹いている。時折交わす視線と互いの身体の揺らぎで曲のテンポを合わせる。  ギャラリーの無い中で奏でる金管と木管の即席二重奏(デュオ)。咲のトランペットが歌うように響き、俺は曲の雰囲気に合わせ、ベースラインをしっとり吹きながら彼女の旋律を支える。  ——咲とこうやって楽器を奏でるのも、今日で本当に最後なんだな。  切ないメロディラインに耳を澄ませつつ、俺は柄にもなく胸の奥が苦しくなっていくのを感じていた。  一番盛り上がるサビの部分で、一陣の風が俺たちを包み、桜の大樹の枝先を揺らした。  花曇りの空とハラハラと舞い散る桜吹雪。  鈍く光る、シルバーのトランペットのベル部分。  その中に溶け込む、三年間想い続けてきた咲。  この景色の中に、彼女が白く霞んで消えてしまうのではないかと、焦燥感のようなものが俺の心を過っていく。
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