ひとひらの桜

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 十年後。  東京で就職した俺は、久々に故郷へ帰ってきた。  大学時代は吹奏楽サークルに所属してバリトンサックスを吹いていたが、社会人になってからは、すっかり楽器から遠のいてしまった。  桜の美しい季節に思い出すのは、今でも片想いしている咲と桜ヶ丘でお花見練習をした事だ。  不意に思い立ち、桜ヶ丘へ足を運んでみる。  だが、十年という年月は思いの外残酷だ。  桜ヶ丘の麓は、新築と思しき一軒家がひしめき合い、全く違う姿に成り果てていた。 「マジかよ……」  俺は愕然としながらも整備された道を歩き、頂上を目指す。  十年前にここに来た時は、異様に長く感じた道のりも、今は十分も掛からないうちに頂上へ到着した。  桜の大樹は、どうやら残されたままのようだ。  満開になっている木の下に人が佇んでいる。  黒いスカートとベージュの薄手のコートを羽織り、漆黒の長い髪という出立ちからして女性だろう。  特に気にも留めずに、俺は大樹へ向かって歩いていく。  すると、そこにいた女性がこちらを向き、目を見開いた。 「もしかして……向坂くん?」  涼しげな声音に弾かれたように女性を見ると、あの日、ここで一緒に楽器を吹いた咲だった。 **** 「ひょっとして…………咲?」  十年振りに再会した彼女は、上品かつ美しい女性へと変貌していた。  それに比べて、俺は高校時代から冴えないままで何となく恥ずかしい。 「久しぶりだね。ここに来たのは、向坂くんとお花見練習して以来だけど、あまりにも様変わりしちゃって……何だか寂しくなっちゃった……」 「ああ。俺も……何かショックだった」  その後、互いの近況について話したり、吹部時代の思い出話に花を咲かせる俺たち。  咲は夢を叶え、現在は日本最高峰の管弦楽団と言われているJHK交響楽団に入団し、首席トランペット奏者として活動しているとの事だった。  微かに吹き抜ける風の音が漂う中、咲が徐に口を開く。 「そういえば十年前、私がここを立ち去る時に言った事、覚えてる?」 「ああ、覚えてるよ」  ——今日も二人で演奏できて、すごく…………嬉しかった  あの時、彼女はこう言ったのだ。  忘れない。忘れられるはずがない。  当時の俺は呆然として、彼女の名前を呼ぶ事しかできなかったが、『もしかして咲も……』と、淡い期待を抱いたものだ。  だが彼女は、俺の呼びかけにも答えず、そのまま立ち去って行ったのだ。
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