【マリオネット】

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【マリオネット】

「もう少しだよ、ヴァレンチノ」  青年は先ほどから何度も励ましているが、返ってくるのは弱々しい鳴き声だけであった。 「気持ちは分かるけどさ、まさか次の街に着くまで水辺が一つも見つからないとは思わないじゃないか。たしかに地図には川や湖は見当たらなかったけど、最悪出会った人たちにたかれば……じゃなくて分けてもらえばいいと思ったのに、まさか人一人にも会わないなんて」  青年がグダグダと言い訳をあげつらねていたが、それを遮るかのように腹の虫が鳴る。 「お腹、減ったなあ」  足が思うように進まなくなるほどに力が湧かなくなってきている。空腹を意識しないように喋り続けていたが、青年の止まらない口は余計に体力を消耗させていたようだ。 「それにしても、ここは暑いだけで何もないね。荒れ果てた大地が広がっているとは聞いていたけど、この先の国には色濃い緑の山々が連なっていて農作物もよく育つ土壌だそうだから、この辺にも何か生えていてもおかしくないのになあ。この際、草なら何でもいい。それこそ雑草でもいい。僕の魂が欲している、まさに雑草魂ってやつだ。今、この世界で僕ほど雑草を求めている人はいないだろうなあ」  青年は周囲に目を向ける。しかし食べられる草はもちろん食べられない草も見当たらず、さらに言えば建造物の類も一切なく、ただ大きな岩と砂交じった乾いた灰色の地面が見えるばかりであった。 「夜になれば満点の星空を心行くまで眺められるのは、本当に素晴らしいことだと思うよ。美しい景色は人生を華やかに彩ってくれる。地面に寝そべると煌めく星々が今にも降ってくるんじゃないかと思えるよ。でもね、ヴァレンチノ。キミは知らなかったかもしれないけど、星っていうのは食べられないんだ。昔会った学者さんの話では、あれは太陽が空の彼方にある塵なんかを照らしているから光っているのだと聞いたけど、僕はひょっとしたらあれが宝石のように光り輝くゼリー菓子なんじゃないかと密かに思っているんだ。だってそっちの方がお腹は膨れそうじゃないか。ああ、ヴァレンチノも僕と同じことを考えていたのか」  ヴァレンチノが鼻を鳴らしたのを見て、青年は自分にとって都合よく汲み取った。 「空に浮かぶ星を手に取って食べることができたら、この世界から飢えはなくなるよ。だって星は無数にあるからね。おいおい、ヴァレンチノ。その顔は何だい。僕のことをまるでいい歳をして夢見がちな痛々しい青年だとでも思っていないかい。んっ、していない? そればかりか僕のかっこいい横顔に見とれていた。なんだ、それなら良かったよ」  ヴァレンチノはその長い首を全力で横に振っているが、青年は気にも留めずに空を見上げる。 「おお、雲が出てきたみたいだ。日が陰ってくると歩きやすくなる。これなら今日の夜までには次の国へ着くはず、なんだけど」  先ほどからマシンガンのように話続けていた青年であったが、そこでついに力が尽きて倒れ込んでしまった。  ヴァレンチノは足を止めて青年の方を振り向く。青年はピクリとも動かない。ヴァレンチノは前足で青年の身体を乱暴に揺さぶる。  しかし反応はない。  今度は蹴り飛ばしてみようかと足を引いたが、途中でやめた。ヴァレンチノも青年ほどではないが、空腹で疲れ切っていた。  ヴァレンチノは深いため息をつくと、青年の背負っていた茶色の大きなリュックサックの紐に器用に足を通して持ち上げ、投げるようにして自分の背中に乗せた。青年が「うげっ」と呻くような悲鳴が聞こえたが、ヴァレンチノは気にしない。いつも軽口を言い、行き当たりばったりで計画性がなくて普段は頼りないが、持っていた食料と水を出来る限り自分に優先して与えてくれており、それが青年の倒れた原因の一端でもあった。ヴァレンチノは青年を背負ったまま、のっそのっそと歩き出す。  夕刻、そこを訪れたのは本当に偶然だった。  トマト畑の水やりをしてから山菜を探しに来ていたところであり、今回はミズナや木苺などが目当てだった。ミズナは多年草なので、鎌を使って根元の部分で切るのだが、皮が厚く丈夫であり、それなりに疲れる作業だ。また食べるのは茎だけなので葉っぱはちぎって山に還す必要がある。それでも毎年採っているだけあって、生えている場所もおおよそ把握しているので手際よく行った。  そんな帰り道、山を降りている途中、山の緑にはそぐわない灰色を遠くに見た。子どもの頃から野山を庭としている田舎娘のアンヌは山の異変を目ざとく察知できた。アンヌは息を潜め、足音を立てないように気を付けながら近づいていく。  するとその灰色が唐突に動いた。  アンヌはびくりと身体を震わせ、そのせいで背負っていた籠が横にあった細木にぶつかって音を立ててしまう。すると草木の合間から真っ黒な水晶玉と目が合った。 「馬?」  アンヌは後ずさりながらも正体を見抜いた。 「ヒヒーン」  その鳴き声はアンヌのことを呼んでいるようであった。アンヌは思わず自分を指差して確認する。するとさらに驚くことに灰馬は頷いてみせた。 アンヌは自分が腕力の弱い女子であることは十分に理解しており、行き慣れた場所とは言え、山賊などが潜んでいる可能性を十分に警戒しなくてはならないことを十分に心得ていた。しかし何故かその馬のことは信頼しても良いように思えたのだ。どこまでも澄んだ瞳のせいかもしれない。 「どうしたの、こんなところで」  もちろん言葉が分かるとは思っていないが、アンヌは話しかけながら茂みをかき分けて近づいていく。  近づくにつれて、灰色に見えたたてがみは実は白く、砂で汚れているからそのように見えていたことが分かった。  その馬は草木の隙間のわずかに広まったところにいた。その凛とした立ち姿にアンヌは目を奪われる。普段アンヌが近所で見かけるのはいわゆる農耕馬であり、寸胴のように太く大きな身体で荷馬車を引けるだけの馬力を持っているものだ。農耕馬と比べればずっと細身であり、しかしそれでいて整った毛並みで無駄な肉が一切ついておらず筋肉質な身体には気品が感じられた。  しばらく見惚れていたアンヌであったが、馬がまたのっそりと動き出したのを見て気を取り直す。 「ヒーン」  馬は前足を軽く上げて木の影を指した。 「何かあるの?」  アンヌは恐る恐る歩いていき、木の裏を覗いた。  まず黒色の編み上げブーツを履いた足が見えたが、それには驚かなかった。これほど人に慣れていて手入れの行き届いた馬であるならば、近くに飼い主がいてもおかしくない。  しかしさらに近づくとアンヌはハッとさせられる。そこでは緑色のオーバーコートを羽織った金髪の青年が横たわっていた。身体の大きさの割には随分と小顔、カールした長いまつ毛に高い鼻とシャープな顎が特徴的で、まるで童話の世界から飛び出してきたのではないかと疑うほどに端正整っており、木陰で寝ているだけでも画になっていた。  アンヌはまじまじと彼を見つめていたが、やがて青年のお腹からぐうーと間の抜けた音がした。 「もしかしてお腹が空いているのかしら」  するとそれに返事するかのように馬は頷いた。 「あのー」  アンヌは恐る恐る声をかける。しかし青年は何の反応も示さない。 「大丈夫ですか」  アンヌは緊張した面持ちで青年の肩に触れ、少し揺すってみる。それでも反応はなかった。  青年の右手に麻のリュックサックが転がっている。アンヌは人のモノを勝手に漁るのは良くないと思ったが、何か食べ物や身分を示すものがないか調べることにした。 「失礼します」  そう言いながら鞄を手繰り寄せようとするが、その鞄の重さに驚く。 「えっ、何が入っているの」  開いていたリュックの奥の方で貝紫色に光るものが見えた。その色合いと輝きから装飾品の類かと思ったが、すぐに違うと気付く。 「拳銃?」  引き金と撃鉄がついており、先端には銃口もある。青年の美しさも然り、その拳銃もこの世のものとは思えないほどに美しかった。そしてアンヌが思わず手で触れようとしたその時だった。 「何をやっているんだい」  背筋に冷や水が流れたかのようにアンヌはびくりと身体をふるわせた。アンヌが振り向くといつのまにか青年は目を覚ましていて、アンヌのことをじっと見ていた。 「いえ、物を盗もうとしたわけではないんです。何か食べ物や飲み物がないかと思って、すみません」  アンヌは謝る。たしかに不用意に人のものを触ろうとすべきではなかった。 「私、そのお馬さんに呼ばれただけで」  なんだか余計に怪しまれることを言っている気がした。 「後ろのかごは」  青年は金髪をかき上げながら、訝しげに尋ねてくる。 「えっ、あっ、これは山菜ですよ。ミズナと木苺なんですけど」 「本当かい」  青年はアンヌの鼻先まで顔をずいと近づけ、藍色の瞳でまっすぐと彼女を見る。アンヌは金縛りにあったかのように身体が動かなくなってしまう。実際はほんの数瞬だったはずだが、アンヌにはその瞬間が永遠に続くかと思われた。  しかしそこで青年の眼力が弱まると、上体がふらりと揺れて彼女の方に前のめりになった。アンヌは反射的に受け止める。 「えっ、あの。これはどういうこと」  アンヌは顔を真っ赤にしてうろたえる。突然美青年に抱き着かれて動揺しない女の子などいないだろう。  しかしアンヌはすぐに異変に気付いたため、落ち着きを取り戻した。青年は再び目を閉じていて浅い呼吸をしていた。どことなく顔色も良くない。そしてそっと顔を触ると熱かった。アンヌは思い当たる。 「もしかして脱水症状を起こしているのかしら」 「ヒーン」  二人の様子を見守っていた白馬が返事をするように鳴く。それと同時に、またも青年の腹の鳴る音が聞こえた。リュックサックに水や食料の類が全く入っていないらしく、どうやら飢えかけているらしい。 「いったんウチに連れて行きましょう。あなたの上にこの人を乗せても良いかしら。私はリュックサックを持つから」 「ヒヒーン!」  やはり先ほどから助けを求めていたようだ。アンヌは馬を誘導しつつ、自宅に急いだ。
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