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「本当に美味しいですね、奥さんの料理」
ライ麦の食パンにイチゴをすりつぶして作ったジャムを塗りたくりながら、自らをメルクと名乗った青年は満面の笑みを浮かべていた。
「それならよかったわ。おかわりはいるかしら」
「はい、是非お願いいたします。ああ、僕は今幸福感に全身を包まれています。素敵な奥さんと娘さんと共に美味しいご飯を頂けるなんて、これ以上の幸せはあるのでしょうか」
メルクは芝居がかった口調で話す。
「ふふっ、そこまで喜んでくれると私も嬉しいわ。誰もそんなこと言ってくれないから」
アンヌの母親も美青年に褒められて年甲斐もなくはしゃいでいる。
アンヌが家まで連れてきた後、彼は兄の使っていたベッドで寝かせて休んでいた。この家はレンガ造りの平屋であるが、玄関から距離もないところに食卓と調理場のつながった十人ほどは入れる大部屋があり、さらに奥にも個室がいくつかある。だから青年一人を連れ込んでも全く困らない。
それから母親が夕食を作っているとその匂いに気付いたらしく、彼は派手な寝ぐせをつけたまま部屋から出てきた。その様子があまりに自然なものに見え、そこが初めから彼の部屋であったかのような錯覚さえ覚えかけたほどだった。
「それにしても、よく食べるんですね」
またアンヌはメルクの全く遠慮のない食べっぷりに困惑していた。ライ麦の食パンはすでに二斤半ほどは食べ、ジャガイモのスープはこれで六杯目、先ほど取ってきたカゴいっぱいのミズナを使ったサラダも大皿を丸々平らげてしまった。
「ええ、四日ほどは何も食べていませんでしたからね。さすがにお腹がペコペコでした」
メルクはまだ飽き足りないのか口にパンを詰め込み、スープで流し込んでから答える。
「それにしてもあんなところで何をしていたんですか。外から来たみたいだけど、入国審査は受けてないみたいですし」
アンヌは先ほどからひたすら母親を褒めながら家の食料を貪っている青年を警戒していた。飢えていたとはいえ、山の中に潜んでいたのだ。良からぬことを企んでいた可能性だって十分にある。
「実は僕が気づいたときにはすでに山の中にいてね。関所を通らなかったのはヴァレンチノの判断だろう」
「ヴァレンチノ?」
「あんなに美しい馬は初めて見たわ」
アンヌの疑問に答えるように母親が言う。家の外にある離れの小屋の前で桶に入った水を飲んでいる白馬はどうやらヴァレンチノというらしい。普通なら逃げないように縄で括り付けるが、メルクの申し出で馬をつながないでくれと言われたので外した。何かに縛られるのをとても嫌うらしく、たしかにアンヌが柱につないでおこうとしたときも嫌がっていた。
「ええ。彼は美しいだけでなく、賢くて機転もききます。まだ訳は聞いていませんが、わざわざ関所ではなく山の中に入ったのにも何か理由があるはずです。この話は食後にしようと思っていたのですが、奥さんと娘さん。何か心当たりはありませんか」
その質問にアンヌたちは食事の手を止める。その様子を見たメルクは少しだけ口角をあげた。
「やはり食後にしましょうか。せっかくの美味しい料理の味が台無しになってしまうのはいただけませんから」
メルクはこの話は一旦おしまいというように両手を軽く叩いてから、またパンを口に放り込んだ。
片付いた食卓の前に再び腰かけたときには、外はすっかり暗くなっていた。本来であれば客人であるメルクは一食の礼と共に立ち去ってもおかしくなかったが、彼は食後も片づけこそ手伝ってくれたものの、帰ろうとはしなかった。
「女性しかいないお宅に、いつまでも居座っていて申し訳ないと思います。ですが、私としてはあなた方の抱えている問題を聞くまでは立ち去るわけにはいきません。どこの馬の骨とも知らない男を信用するのは難しいかもしれませんが、ここで聞いた話は決して口外いたしません。僕は根無し草の旅人であり、用が済めばこの国を立ち去ります」
彼は自分のことを、旅人、もしくは宝石商と称し、リュックサックから赤色にきらめくルビーを一つ取り出し、これを売って生計を立てているのだとすでに話していた。
「用?」
アンヌが聞き返す。
「ええ、かなり高い確率であなた方の悩みとも関係していることだと思います。先ほど僕が寝かせていただいていた部屋の主も、もう長いこと帰ってきていないようですし」
メルクは自分が寝ていた部屋の方を見ながら言う。
「どうしてお兄ちゃんが帰ってきていないことが分かったの。ちゃんと掃除も行き届いているのに」
「先ほど目を覚ました時に部屋の中を漁って、いえ、観察させていただきましたが、掃除は行き届いているのにそこで生活をしている気配がまるで感じられませんでした。例えば、クローゼットの中には服がほとんど入っていなかったですし」
「開けたんですか」
「いえ。起きたときによろけてしまい、うっかり手がぶつかった拍子に開いてしまったのです」
メルクはあくまでもにこやかに答える。アンヌにはそれが余計に胡散臭く思えた。
「それにあなた方は先ほど僕と一緒に夕食を召し上がっていました。特別遅く帰ってくるのであれば先に食べてしまうかもしれませんが、普通は家族全員で団欒の一時を過ごすものではありませんか」
その一言が母親の心をえぐったのだろう。元々喜怒哀楽に富んだ人であったが、目を潤ませたかと思うと本格的に泣き出してしまった。
「どうしてこんなことに、テーネ」
アンヌは母親の背中をさすりながらメルクに白い眼を向ける。
「ああ、すいません。ちょっと不用意な発言でしたね」
メルクは本当に反省しているようで、先ほどまでの飄々とした雰囲気はなく、むしろひどく取り乱していた。
「いいのよ、別に。あなたが悪いわけではないのだから」
母親が気を遣って言うが、それがますます彼をいたたまれなくさせている。
丁度そのとき、玄関の扉がノックされる音がした。
「女性が泣かれているような声が聞こえてきましたけど、どうかされましたか」
メルクのものよりもずっと低い男性の声だった。
「ああ、ラインさん。ちょっと待ってください。大丈夫ですから」
「誰か来ているのか」
しかしラインと呼ばれた男の声は一層険しくなった。
「いえ、そういうのではないですから」
そこでようやく玄関にたどり着いたアンヌが扉を開けた。すると黒い短髪の精悍な顔つきをした男が飛び込んでくる。そして目を腫らしたアンヌの母親とメルクを見比べ、顔を歪めた。
「おい貴様、何をした。そもそも何者だ、憲兵には見えないがまさか、王の関係者か」
「ん? ああ、良く分かったね」
メルクは平然と答える。
「まさか本当にそうだとはな。外で明らかに育ちの良さそうな馬を見かけたが、そういうことだったのか。彼女たちを脅して計画について吐かせたというのならば、このまま帰すわけにはいかないぞ」
「ちょ、ちょっと」
彼の様子にアンヌは焦る。
「覚悟しろ、俺は腐り切った権力には屈しない。必ず俺たちの手で取り戻すんだ」
ラインは脇に差してあった小刀を抜いてメルクに向ける。
「おやおや、これは物騒だね」
しかしメルクは特に弁明することもなく余裕の表情を浮かべている。このままでは本当にこの場で血が流れかねない。
「違うの、ライン君。私は脅されて泣いていたわけじゃないわ。この方はただの旅人よ」
そこでようやく母親が否定する。
「旅人だと」
ラインが眉をひそめた。
「本当さ。君たちが何かしでかそうとしているのは知っているけど」
「なっ、貴様。それをどこで」
「いや、今自分でばらしちゃったじゃない」
アンヌも思わず口を挟む。
「だがしかし、こいつがただの旅人とはいえ我々の計画を知ってしまった以上は」
「協力するよ」
「なんだと」
メルクの言葉にラインは眉をひそめた。
「こう見えて戦力にはなると思うよ。ただその前に聞かせてほしいんだ、この国でいったい何が起きているのか。僕はただ導かれてやってきただけで、事情は全く知らないんだ」
「本当に敵じゃないのか」
ラインはまだ納得できない様子だ。
「私もこの人のことを完全には信用していないけど、もし国王側の人だったら山中で餓死しそうになってはいないと思う」
アンヌの言葉でひとまずその場は収まった。
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