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翌日、個室の扉が叩かれる音でメルクは目を覚ました。
「うーん、あと五分」
メルクは寝ぼけまなこで答える。しかし扉の叩く音はさらに大きくなる。
「ヒヒーン」
聞こえてきたのは大きな鳴き声だった。さすがにメルクはむくりと起き上がった。
「ヴァレンチノ?」
扉を開けると、そこには見慣れた白馬が立っていた。
「器用にもひとりで縄を外して馬小屋を出て行き、勝手に宿の中にまで入って来てしまったんですよ」
宿主がすぐ横で疲れた顔をしていた。
「どうした、ヴァレンチノ。いつも優雅なキミらしくもないじゃないか」
「察しはつきますけどね。あんまりにかわいそうなんで、他の馬の分の昼飯をわけてやりましたよ」
「へっ、昼?」
メルクは首を傾げる。
「そうですよ、お客さん。今はもう午後です。太陽が空の頂点まで上り詰めて、さらに傾き始めていますよ」
メルクは納得した。つまるところ派手に寝坊したわけだ。おかげでヴァレンチノは朝食はおろか昼食にもありつくことができず、馬小屋に閉じ込められたままだったのだ。
メルクは宿主にヴァレンチノの朝食代をひとまずラインから借りた銀貨で支払ってから、怒っているヴァレンチノをなだめすかしつつ、薄く粗い目の布をまとわせ、またメルク自身も麦わら帽子を目深に被る。この街は王都からさほど離れていないが、自然豊かなのどかな雰囲気で人通りも少ない。ヴァレンチノの美しい毛並みさえ隠し、通りすがる行商人のふりでもしておけば怪しまれない。
そうしてあぜ道をのんびりと歩いていく。左には山、右には田畑が広がっており、草木は初々しい鮮やかな緑色をしている。メルクはその景色を十分に楽しみ、ようやく目的地に着いた。
「遅い」
そこではアンヌが腰に両手を当てて待ち構えていた。
「お昼ご飯の前には来ると言っていたじゃない」
「天気が良くて、つい寝過ごしてしまったよ」
「気持ちは分からないでもないけど、もうお昼過ぎじゃない。私だって畑仕事もあるから暇じゃないのよ。トマトの収穫時期が近いの」
「ごめんごめん。お詫びにこれをあげるから許して」
そう言ってメルクは背中に回していた手を前に出す。
「ちょっと少女趣味だったかな」
メルクが持っていたのは白と黄色の花の冠であった。
「まだ春の残花があったんだ。綺麗だったから少しだけ摘ませてもらった。キミもこの辺りに住んでいるのだから作ったことがあるかな」
「丁寧に編み込まれているのね」
アンヌは受け取った花冠の完成度の高さに驚いていた。白の小さなシロツメクサの花を黄色のタンポポの花を組み合わせているだけのさほど珍しいものではなかったが、それぞれの花の間隔がほとんどなくボリューミーに敷き詰められている。
「手先の器用さには自信があるんだ。それに、昔作ったことがあってね。宝石よりも花冠を喜ぶ奇特な人がいたのさ」
そう言ってメルクは笑う。
「あなた」
アンヌはメルクの顔を見て何か言いたげにした。
「まあいいわ。怪しまれないように早く行きましょう」
メルクは彼女が何を言おうとしたのか気にはなったが、あまり悠長にもしていられないので、黙って彼女の後をついていく。
二人は初めて出会った場所でもある山の中に入っていく。関所の役人に見つからないように一度国の外に出てから、今度は正式に関所を通って入るつもりだった。そうしないと街中で身分証明等を求められた際に困ったことになる。
さすがに地元の人間だけあって、アンヌは舗装された道を外れてもスイスイ進んでいく。
「一番、安全に出られるのはここですかね」
急な坂というよりもほとんど崖のような場所で立ち止まる。
「うわ、これを降りるのか。結構大変そうだね」
「むしろどうやって登ってきたのかと聞きたくなりますよ」
「それはヴァレンチノのおかげだね」
メルクはヴァレンチノの首付近を軽く撫でてやる。ヴァレンチノは首を振ってその手を払う。
「もちろん後ろに乗らせてくれるよね」
ヴァレンチノは何も言わずに崖を降りていく。器用に岩壁の突き出た部分を足掛かりにスピードが出ることも恐れずにどんどん下っていき、あっという間に下の地面に降り立つ。
残されたメルクはため息をつくが、すぐに気を取り直してアンヌの方を向く。
「案内ありがとう。また正式に入国したら荷物を取りに行くから、そのときはよろしく頼むよ」
大方の荷物はアンヌの自宅の離れに置いてきた。関所では武器や金品は取り上げられると聞いたからだ。
「無事に降りて帰って来られることを願っているわ」
崖を見ながらアンヌは言う。
「大丈夫。こう見えて、城の最上階から地面まで城壁を伝って降りたこともあるくらいだからさ」
「城?」
アンヌが疑問を投げかけた時には、すでにメルクの姿はなかった。メルクもヴァレンチノほどではないが、かなりのスピードで駆け下りていく。
「だ、大丈夫?」
「余裕余裕。楽勝さ、あっ」
メルクはものの数秒のうちに足を滑らせる。アンヌは思わず悲鳴をあげそうになるが、万が一にも関所の方に聞こえてはまずいと思い、口に手を当てる。メルクは途中で木の枝に引っかかって事なきを得た。アンヌは胸を撫で下ろし、彼が下まで降りるのを見届けてから家に戻っていった。
どうにか山を降り切ったメルクは、裾についた葉っぱや土を落としていた。ヴァレンチノは近くに生えていた木苺をむしゃむしゃと食べている。おそらく宿主のくれた餌だけでは足りなかったのだろう。メルクも試しに口に含んでみるが、それらはアンヌの家で食べたものよりも酸味が強く、さすがに地元の人はしっかりと見極められるのだなと感心させられた。
一休みしたメルクたちはいよいよ関所に向かう。
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