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「ここが王都か」
メルクは石畳で舗装された通りを見渡す。道は馬車が四台は通れるほどの幅があり、行商人の馬車や人が行き来している。人通りはあまり多くなかったが、粗暴で悪魔の力を持った反逆者が現れて国を乗っ取っていることを考えると、いささか平穏そうに見えた。ただ、だからといってメルクはそれほど驚きはしない。政治というのはほとんどの市民にとっては天気のようなものであり、初めから自分たちが介在する余地もなく、ひたすらに受け入れていくしかないものなのだ。
「さてさて。そろそろ僕も働かないといけないのかもしれないね」
横にいたヴァレンチノはその言葉に何度も強く頷いている。
「おや、この匂いはなんだろう」
メルクはくんくんと匂いを嗅ぐ。何やら香ばしく甘い匂いが彼の元に漂ってきていたが、その元はすぐに分かった。メルクが立っている場所から、数歩も離れていないところにある木組みの建物に入っている飲食店であった。メルクは無意識にそこに歩を進めようとしたが、ローブを後ろに引っ張られて首元が締まり、「うげっ」と声をあげる。
「危ないじゃないか、ヴァレンチノ。突然、噛まないでくれよ。えっ、何だって。寄り道していないでちゃんと働け? 何を言っているんだい、これも立派な仕事だよ。こうやって客として潜入しながら聞き込み調査を行うんだ。決して美味しそうな匂いに惹かれたわけじゃない」
白々しい言い訳をするメルクを、ヴァレンチノは睨みつける。しかしそこで思わぬ助け舟が差し出された。
「もしかしてウチのお店に御用ですか」
後ろから若い女性の声が聞こえてくる。
「はい、御用です。香ばしい匂いが誘ってくださってね」
メルクはヴァレンチノに服を噛まれながらもいたって爽やかに振り返る。するとそこには青色の瞳に黒髪をなびかせた女性が立っていた。
「あれはオーナーの焼いているバウムクーヘンですね。焼き上がったばかりのバウムクーヘンにアイスシャーベットを乗せて食べるんですよ。ウチで一番人気のメニューなんです」
「へえ。じゃあそれを注文しようか、うわっ」
今度は噛まれて引っ張られただけでなく、メルクの身体を顎で持ち上げて宙づりにしてから、地面に叩き落とした。
「ちょっと。いくら何でも酷すぎないかい」
しかしヴァレンチノはメルクの整った顔に息がかかるぐらいまで顔を近づけ、思い切り鼻を鳴らす。
「はい、すいませんでした」
メルクは膝を折ってうなだれるように頭を下げる。
「仲良いんですね」
女性は笑っていた。
「ええ、まあ長い付き合いですから」
メルクは頭の後ろに手を当てながら言う。
「それにしても、どうしてご主人様がお店に入るのをそんなに嫌がるのでしょうか。やっぱり構って欲しいんですかね」
「いや、それは僕が仕事をしないからですね」
「あっ、そうなんですね」
彼女は顔をこわばらせたが、すぐに笑みを浮かべて繕った。客商売の鑑だなとメルクは素直に感心する。
「でも、仕事をしていないという割には、身なりが整われていますよね」
茶色のローブには歯形こそついているが丈夫で高質な布で縫製されており、黒いブーツも所々擦り切れて傷がついているが丹念に磨かれている。
「僕もヴァレンチノも綺麗好きなんだ。身なりを整えるのは、料理をする前に台所や調理器具を綺麗にしておくのと似たようなものだね。どちらも素晴らしい仕事をするためには欠かせないことだ」
「仕事はしていないと今しがたおっしゃっておりましたよね」
「うーん、それを説明すると長くなるなあ。ここで立ち話をしては店員さんに申し訳ないし、話すのには頭を使うから甘いものがないといけないなあ」
メルクはこれ見よがしにヴァレンチノの方をチラチラ見る。そのしつこさが功を奏したのか、ついにヴァレンチノが深いため息をついて折れた。
「バウムクーヘンだけでしたらお持ち帰りも出来ますけど」
「せっかくなので店内でいただきますよ、お姉さん。続きは店内でお話ししましょう」
「私は仕事があるので、そんなにゆっくりと話せるかは分からないですけどね。ただ、あいにく今は皆お金を使いたがらないせいか、お客さんもあまり来ないのでやっぱりお喋りできる時間もあるかもしれません」
彼女は苦笑いする。昼下がりだというのに、客はせいぜい三、四人ほどしか入っていなかった。
「実を言うと、僕の仕事もそのことに関係あるかもしれません」
「何ですって」
彼女の目の色が変わった。街の人からすれば当然気になるのかもしれないが、メルクの直感では何かあると判断した。急に緊張の糸が二人の間に張りめぐらされる。彼女はこちらをじっと見てくる。
ぐうー。
呑気なお腹の音が鳴り響く。
「ひとまず店内に入っても良いですか」
メルクは彼女に向けて片目を瞑ってみせる。
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