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メルクが女性店員と楽しいお喋りに興じながらバウムクーヘンを食べていた頃、アンヌが暮らす村では一騒動起きていた。
「この前も言った通り、税金を納めてもらう」
ラインの前には一人の青年が立っていた。
彼の名前はテーネ、アンヌの兄であり現国王直属の従者の一人である。ラインとは旧知の仲であるが、その顔は以前よりこけていて目にも隈ができており、何よりその諦めに満ちたまなざしを向けてくる彼の様子には、傍から見ていたアンヌも眩暈がするほどであった。
しかしラインは毅然としていた。自分が不安げにしているところを見せては士気に関わると考えているからだ。そのことを彼が口に出して言っていたわけではないが、いつもそばで見ているアンヌには彼の責任感の強さは良く分かっていた。そしてだからこそ、アンヌは心配だった。その責任感の強さがいつか彼が耐えきれないほどの重荷を背負わせるのではないかと。
「俺たちが金を持っていないのは分かっているだろう。近年は豊作で農作物は多く採れているものの、市場に収穫物が出回りすぎて値段は下がっていく一方だ。そもそも収穫期はまだ先だ。俺たちが渡せるものがないことぐらい、おまえが一番よく分かっているはずだろ」
「国王様の命令なんだ。分かってくれ、ライン」
テーネはやはり疲れた表情で言う。
「だが、こんなことを許すわけには」
「いいか、ライン」
ラインの言葉をテーネが遮った。そして声を潜める。
「今、俺の身体は俺のものではない。この目は王の目であり、この耳は王の耳、そしてこの口は王の口なんだ。それ以上の言葉を発すれば、俺はおまえを逮捕しなくてはならない。そうしなければ俺の首が飛ぶだけではなく、おまえたちにも危害が及ぶことになる。それを俺は望まない。ここは穏便に済ませてくれないか、ライン」
「くそっ」
ラインが握った拳はぶつけるあてもなく、ただ空を切るだけだった。
「大丈夫だ。おまえは俺が必ず助け出す。あの忌々しいクソジジイなんかには絶対に屈しねえ」
ラインは力強くテーネの肩を叩いて励ました。しかしそれに対して、テーネはひどく顔をしかめた。それを見てラインは驚くが、すぐにその理由を察する。
「忌々しいクソジジイとはワシのことか」
「ゲンズ」
後ろにあった馬車の陰から顔を出したのは、たった一人でクーデターを行った現国王のゲンズその人であった。以前は辛うじて軍人としての面影を残していたが、今やブクブクに太り、顔もパンパンで腹にはたっぷりとぜい肉を蓄えている。ゲンズは身体をゆっさゆっさと揺らしながら酒瓶を片手に歩いてくる。
「ゲンズ国王様と呼べ、このクソガキが」
「そのようにおっしゃるのであれば、国王としてふさわしい身の振る舞いを心掛けていただきたいです」
「おい、バカ」
テーネが慌ててラインの方に手を向けて止めるように促したが、すでに遅かった。
陽気で暖かい日だというのに、アンヌはまるで心臓を掴まれたかのように委縮し、身体の芯から急激に冷えていく感覚を味わった。
「うっ」
傍から見ても分かるほどにラインの首筋や額からは冷や汗が噴き出し、呼吸が浅くなる。それだけではない。ラインの両手は明らかに彼の意思に反して一人でに動きだすと、ラインの首元を押さえて親指から徐々に力が入っていく。
「や、やめっ」
ラインはゲンズに向かって話そうとしたが、それはすでに叶わない。息が漏れるだけで、顔を青くして苦しがっている。ゲンズは片方の頬だけひきつらせ不気味な笑みを浮かべている。
周りにいた村人たちもその力に恐怖し、身をすくめている。ラインは必死で抵抗しようとしているが、ヒューヒューと喉の音を鳴らすだけだ。
「もういいでしょう、ゲンズ様」
そこで声をあげたのはテーネだった。
「国民を殺してしまっては、その分の税収が減ることになります」
「ふんっ」
ゲンズは鼻を鳴らす。するとラインの首元から手が離れた。ラインはそのまま地面に倒れ込んだ。
「ライン!」
アンヌは地面に手をついているラインのそばまで駆け寄ると背中をさする。ゲンズは、「次にワシに対して無礼な言動をしたならば、命は無いと思え」と吐き捨てると、またのっそのっそと馬車に戻っていった。
「そういうわけだ。今日だけの話じゃない。余計なことをするのはもうやめろ。城内でも噂になっているぞ」
テーネはまだ咽込んでいるラインを見下ろしながら、特に助けることもなく言う。
「徴税は来週に延期しておく。これから国王様を鷹狩りに連れて行かなくてはならないからな」
そのままテーネもゲンズと同じ馬車に乗り込むと、発車して行ってしまった。最後にアンヌに一瞥をくれたが、言葉さえかけてこなかった。
「大丈夫、ライン。いえ、大丈夫なわけがないよね」
アンヌは真っ青なラインの顔を間近で確認する。他の村民たちも、ラインのことを心配して近寄ってくる。
「俺は、何もできなかった」
「仕方ないじゃない。身体が動かせなかったのだから」
「俺が屈したのは奴の力じゃない。自分の中にある恐怖心だ」
ラインは肩を震わせている。
「力が解かれた瞬間、奴に飛び掛かれば良かった。たとえ死ぬことになったとしても、俺は立ち向かうべきだった」
「死ぬだなんて、そんなこと言わないで」
「テーネはこの苦しみにずっと耐えているんだ。俺たちがやらなくて誰がやるんだ」
ラインはまた拳を握りなおす。
「ライン、もうやめよう」
しかしそこで集まってきた群衆の中から出てきたのは、ラインたちが集会所にしていた酒場の店主だった。
「無謀だ。あれでは死にに行くようなものだ。もしかしたらゲンズの力にも限界はあるのかもしれないが、奴を止めるまでに一体何人を犠牲にすればいいのだ。俺たちは誰一人として動けなかった。お前と違って操られてさえいなかったのにも関わらずだ。皆、命は惜しい。税さえ納めれば生かしてはくれるんだ。テーネだって、俺たちを守るためにああして余計なことをせずに従ってくれている。命は大切にすべきだ」
「そうかもしれないが、しかし」
「俺も降りる。家族がいるんだ。俺が死んだらあいつらを食わせられなくなる」
そう言った農家の男はその場を後にする。「私も、ごめんなさいね」今度は金物屋を営む未亡人の夫人。それらを皮切りに他の村人たちも次々とその場を去っていった。
「計画は無くなってしまったわね」
「ごめんな、アンヌ。俺がもっとしっかりしていれば」
「ラインのせいじゃないわ。私だって皆と同じことを考えていた」
アンヌはラインを慰める。しかし、ラインは「バカ野郎、強がっているんじゃねえよ」と、アンヌのことを抱きしめた。アンヌも目に浮かぶ涙を隠せていないのは自覚していた。ラインも耐えているのに自分だけ泣きたくない。しかしそう思っても止めることはできず、彼の胸をしばらく借りざるを得なかった。
「異能とはなんだ」
ラインはアンヌの頭を優しく撫でながら呟く。
「どうやってアイツはそれを手に入れられた? それとも先天的なものがあって、何かのきっかけで目覚めたとでもいうのか。もっと詳しく知る必要がある。しかしそれを知るにはどうすればいい。そんなことを知っている奴なんて一人も」
アンヌはハッと顔をあげる。ラインと目があった。ラインは苦々しそうに口の端を上げた。
「あの野郎は今どこで何をしてやがるんだ」
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