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彼女は、振り向いた僕の鼻先に自分の顔をぐいと近づけながら、僕の返答を待っている。ふう、と急に吹いてきた風にのって香水のにおいが漂ってきたのを感じ、思わず僕は彼女に背を向けてから言った。
「花見なのに、花がないなあ、って」
「あー、まあね。それはあたしも残念だけど」
「残念なのか」
「え?」
「それは花が散ることが残念なのか、花が散るさまを眺めながら飲めないから残念なのか、どっちだ」
誰彼構わず議論をふっかけようというわけではないが、僕は対人コミュニケーションとなると急に思考がビジー状態になってしまう。今の質問だって、たまたま彼女に話しかけられる直前に考えていたことだから、それがそのまま口から勝手にフライアウェイしていっただけだ。そもそも僕にとってはそんなもんどうでもいいし、どちらにせよこの場所に、花は咲いていない。
「――あんた、お花見したことないね?」
変なやつ……と踵を返すこともせず、彼女はそのまま質問を返してきた。どことなく、そんなことを聞くやつは何も理解しちゃいないやつなんだよ、と言いたげなイントネーションで。
「ないけど、なんだよ、したことない奴のほうが下なのか」
「あんたがお花見したこともないのに、あたかも自分の目で見てきたようなこと言ってるからだよ。この童貞」
風評被害だ、と言えないのが悔しい。事実だからだ。だが今は僕に女性経験があるかどうかなどという話は関係がない。
「どうして僕が、したことないって分かった」
「女の子の扱い方をまるでわかってなさそうだから」
「童貞の話じゃない」
「あっはっは、分かってるって。……でも、なんとなく頭に浮かんだのね。この人の中でのお花見は、きっと桜の花が雪崩みたいに舞い落ちる中でやるもんだってことになってるんだろうなーって」
海を隔てた隣国が弾道ミサイルをぶっぱなした速報が携帯に届いても眉ひとつ動かなくなって久しいが、この時ばかりは僕も自衛隊員と同じくらいの勢いで飛び上がって、脚を着地させた先がわずかに傾斜していることをすぐに思い出し、直前まで座っていたブロック塀に片手を添えた。
だって、そうじゃないか。ドラマでも映画でもアニメでも、お花見は花が散っている中のシーンとして描かれていて、シートの上に広げた重箱やオードブルに桜の花びらがひとひら落ちてきて「あらあら」みたいな顔をみんなで浮かべていたはずなのに――。
花が散るという、命が終わるさまを眺めて馬鹿騒ぎをするなど、デスゲームの主催者に等しい悪行。僕だけがこの着眼点を持っているものだと思っていた。けれど、それは前提から間違っていたらしい。愚かなことに、僕は彼女から指摘を受けたつい直前まで、そのことに全く気づいていなかった。
誤った定義によって、誤った回答を導き、勝手に世界を背負った気になって、苦悩していただけだった。
「ということで、さっきの質問の回答は、どちらでもない。強いて言えば、こんな殺風景なところじゃなくて、満開に咲いた花々の下でやってほしかったな」
そもそも定義が異なるから答えられないね、あたしは散りゆく儚い様子でなく、今まさに生命力を爆発させている満開の花を眺めたいんだよ。
彼女の返答を噛み砕くなら、そんな感じだろうか。自分だけが多角的な視点を持っているなどという、思春期に陥りがちな浅はかで愚かしい勘違いの存在に気づき、僕はたった今ここに核ミサイルが落ちてきてもいい……とさえ思ったが、これからこの世界に降り注ぐのは圧倒的な夜の闇と、悲しいほどに美しい月の光くらいのものだろう。
酒をがぶ飲みしたわけでもないのに、自分への絶望感に頭がくらくらする。
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