桜花爛漫

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 近くで高い声の鳥が鳴いている。 「ひとりで花見って寂しくない?」 「……わたし、桜を独り占めしたいって言いましたよね? 寂しくなんかないです。むしろ気が楽です」 「新見先生ってめっちゃ人嫌いだね」  それには無反応で答えておいた。 「人生あと75回くらいしか花見ができないんです。1回くらいひとりで見てもいいでしょう」 「あぁ、1年に1回だとしてね。そうか、新見先生はあと75回かぁ。じゃあ俺は65回ってとこかな。だったらなおさら誰かとしたいね、花見」  佐々木先生の目には、この桜はどう映っているんだろう。ただ咲いているだけの花びらなのか、それとも春の風物詩として癒される対象なのか。あんまり目が輝いてないところを見ると、やはり前者か。  佐々木先生は長い人差し指を上に向けた。 「国語的にはさ、この桜が咲き誇ってる様子って、なんて表現するの? 例えば……四字熟語とか」 「あー……桜花爛漫、ですかね。『さくらばな』で『おうか』」 「へぇ。すごい字面だ」 「化学には桜の記号? ってあるんですか?」 「あー、化学式? 桜自体にはないけど、そうだな……」  佐々木先生は立ち上がって、食べていたキャンディの棒を口から離した。先端にキャンディはついていない。それを手にして、地面に何かを書き始めた。 「桜の香りの成分って『クマリン』っていう化学物質なんだけど、クマリンの化学式が……」   佐々木先生は『C9H6O2』と地面に書いた。硬い土がえぐれて文字が並んでいる。文系のわたしには意味が分からない。 「こっちは組成式ね。で、構造式で書くと……」  六角形をふたつ並べて、右の六角形の下には『o』、その右隣の角に『=』と『o』を書いた。  化学とは全く縁のない生活を送っているわたしには、それが絵に見える。でも佐々木先生にとっては数学でいうところの『式』なのだろう。数学にも疎いわたしには理解できないのだけれど。 「これが『クマリン』の構造式」  分からないけど頷く。 「なるほど。名前も構造式もかわいいんですね」 「心揺さぶられたら写真撮ってもいいよ」 「……揺さぶられてはないですけど、記念に撮っておきます」  スマホでカシャリと1枚だけ収めて、すぐポケットに仕舞った。  風が吹いて、地面に落ちた花びらが佐々木先生の書いた式の上で踊る。なんだか桜が喜んでいるみたいで、フッと鼻から息が漏れた。 「せっかくお弁当作ったんだからさ、気にせず食べていいよ」  隣に座り直した佐々木先生にそう言われた。さっきより距離が近くなっているのは気のせいだろうか。 「じゃあ、遠慮なく……」  閉じた蓋を再び開けた。佐々木先生の頭がこちらに傾く。ちょっとだけコーヒーの匂いがした。何を食べようか逡巡していると、「うまそ」という声が微かに聞こえた。無視して玉子焼きを箸でつまむ。  佐々木先生は弁当箱に残っている卵焼きを指差した。
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