第五章 雪消え染み透る

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第五章 雪消え染み透る

無音  泣いたあと独特の倦怠感がオレを包んでいた。体が鉛のようだ。 「郁弥」  不意に透琉がオレの名を呼んだ。  ――ビクッ  全身が再び強張る。透琉のシャツに縋りついた指の爪は白く感覚もない。何を言われるのか。突き放されるのかも知れない。そんな恐怖がオレを襲う。  しかし透琉は「温かい飲み物をいれようか」と言っただけだった。  ホッとすると同時に、いい加減オレの状況認識能力が動き始めた。密着していた体を離せば、触れ合っていた箇所はしっとりしていた。 「いや、ありがとう。帰るよ」  お互い無言のまま、車でマンション前まで送ってもらいヒンヤリとした部屋に帰ってきた。  スウェットから毛布からぐちゃぐちゃに放置されたままのベッドに仰向けに転がる。  目の上に左腕を乗せてゆっくり呼吸を繰り返した。 「ハハッ、焼き肉くさっ……」  ――こんなんで近くにいたとか、さ。  数時間前の出来事は夢だったのではないか、そう思わずにはいられないほど、静かな夜だった。  ――ボンッ 「こらこら何やってんの」  空気が小さく爆発したようなそんな音を聞きつけて、純也がのっそり立ち上がった。 「なんか、いきなり鳴った」  白い電子レンジの扉を開いて中を覗くが、特に変わった様子は見受けられない。オレのつくね丼は無事だ。 「あーあー。バーコード焦げてるし、ほら、蓋だって弾け飛んでるし」  純也が顎でしゃくったのを改めて見てみれば、確かにシール部分は黒くなり、サランラップで密封されていたはずの蓋と丼との間に隙間が生まれていた。 「加熱しすぎなんだよ」 「いいじゃん、オレのだし」 「買ってきてやったの俺だけどな」  東京から帰ってきた純也に、「面接どうだった」「緊張した?」なんて聞きながら、土産の包みを破っていく。机の下に包装紙を置けば、すかさず純也の手が伸びてきて、丁寧に折り畳む。オレが土産の箱をぶつけないように、つくね丼もテーブルの真ん中に避難されているし、オレが二人分の弁当をレンジでチンしている間にあれだけ乱雑だったテーブル周りも綺麗になっていた。さすがA型人間。 「純也さん、お嫁に来ない?」 「えっ? オレが嫁なの?」 「じゃあ、家政夫さん」 「メイドしてやろうか」 「えー、オレよりでかいメイドなんてイヤン」  オレもA型の筈なのだが、大雑把だし片づけは苦手だ。黄色い箱から出てきた東京タワー型のサブレの封を破ったら、「飯食ってからな」と没収された。 「ちぇっ」  代わりに寄越されたつくね丼を割り箸でつつく。単調な味に若干飽きてきて、純也のピリ辛チキン弁当が美味しそうに見えてきた。 「そういや、郁ちゃんはなんかあった?」 「えっ……あ、あぁ。会社! インターネットとかで調べてはいるんだけど、いまいちピンと来なくてさ」  ――ドキリとした。  純也が透琉のこと知っているはずないのに。意識しすぎだ。  ベランダに目をやれば、つい数時間前まで袖を通していたパーカーが揺れていた。  正直、オレは後悔していた。  当初は溜まっていたものを吐き出した達成感と疲労感からくるゆったり流れる雰囲気に浸っていたが、時間が経つにつれ、なぜ話してしまったのか……思慮が浅い自分を責めた。  二か月だ。たった二か月。その間三度も醜い泣き面や、メンタルの弱さを露呈してしまった。透琉の中でのオレはネガティブシンキングのウザ男に違いない。  透琉にはオレの『いい面』を見て欲しいのに。郁弥と一緒にいると楽しい、そう思って欲しいのに。  今さらだ。自分で自分の首を絞めている。オレだって平素常々沈んでいる訳ではない。基本は楽しいことが好きだ。笑っていたい。なぜこうなったのか。過ぎたことをああだこうだ嘆いたって仕方ない。――オレは今後、透琉のそばにいてもいいのだろうか。実は嫌われていたりしないだろうか。  恋をすればみな臆病になるらしいが、オレのこの焦燥感や逃げ出したい気持ちもそれなのか。以前にも増して曇りがちの逃げ腰だ。そのほとんどが透琉に関することだ。  純也は土産を渡したいだけだったらしく、長居せずに帰っていった。久しぶりにバカ騒ぎしたい気分だったのに残念だ。  クッション相手にうじうじめそめそしていたが、開けっ放した窓から入る冷たい風と、階下から響く小学生の騒ぎ声で、オレの中の何かが吹っ切れた。  上月郁弥の基本的方針、『小さなことでクヨクヨしない』。要は気の持ちようだと意識しないと、壊れる。意識していても、悩むものは悩むのだから。済んだことは済んだこと。元来、切り替えだって得意なはずだ。  幼少時代から『家の外では笑顔』をモットーに生きてきた。家庭内でどんなに酷い目に遭おうとも、限られた外界での時間をエンジョイするために、そして郁ちゃんはいつも元気ねと、ご近所さんに誉めて可愛がってもらうために修得した切り替え術だ。  てやんでぃ、べらぼうめぃ! と自分の膝を掌で打ち鳴らし、良く分からない気合いを入れたオレは、似非江戸っ子の勢いそのままに携帯を手に取りアドレス帳から透琉の番号を探した。 オモテとウラの真ん中は  雲の流れが早い。青く青く晴れた空が、澄んだ水面に光を与えきらきらと反射させている。 「ごめんな、呼び出したりして」  後ろからザッザッと砂道を踏みしめる音がして振り返る。遊歩道を脇に逸れた透琉は、やはりというか持ち前の穏やかな笑みを浮かべていた。 「いいよ。俺も郁弥に話があるし」  ――郁弥、――いつからオレをそう呼ぶようになったのか。前に一度だけ、赤西と三人のときに呼び捨てられたことがあったっけ。 「話?」 「あぁ。でも後で、ね」  視線で問うも、言葉の通り今話す気はないらしい。口を接ぐんだ透琉は銀杏の木とオレとの間に腰を下ろした。間と言えど、オレは盛り上がった根に尻を預け、透琉はいつもオレが座っている根の前の地べたに座ったため、オレからは透琉の旋毛が見えている。  昨日頼さん宅でも不審に感じたが、なぜ何も聞いてこないのだろう。出逢った頃、透琉の質問攻めに戸惑ったことが今では懐かしい。突如乱れ狂った人間に対して何事もなかったかのようなこの白々しさ。腫れ物扱いは御免だが、ここまで問題にされないのもどうでもいいのかと悲しくもなる。  風になびく透琉の蒼く黒い髪を眺めていたら、ゆったりした動作で透琉が体を捻った。 「……で、話したいことって?」  透琉はもう笑っていなかった。オレも表情を引き締める。 「まずは、さ、……昨日はごめんな」  少々タレ目の瞳を直視しながら口を開く。透琉は無表情のまま何も言わない。目から何かを汲み取ろうとしているのか、瞬きもなくオレを凝視している。 「いきなりあんななって、発狂? みたいなさ。迷惑かけてごめん。訳分かんねぇ話もしちゃったし」  ここまで言って、透琉の強い視線に耐えきれなくなったオレは姿勢を体育座りに変えることで逃げた。根っこに対する角度を変えたことでオレの正面には湖と言った方がしっくり来る海が広がる。昼下がりの水面はただただ小さく揺れている。 「悪いけどさ、忘れてください」  オレは頭を下げた。あれだけ派手に立ち騒いでおきながら、忘れてくれはないと思う。だけどオレは自分を護りたい。  失意と共にあの家を出て、今のマンションに越した日、これがオレの人生のスタート地点だと思った。実際は家を出ようがトラウマは消えないし、二年が経過した今でも、アイツから封筒が届くたびに嘔吐するし、死にたい病が出ることもある。  それでも、この地で出逢った人間にアイツの話は一切しなかったおかげでオレは常に『明るい郁ちゃん』でいられた。今さら例外を作ってはいけない。  その例外が、黙って話を聞いてくれるお人好しなら尚更だ。次、何かあったとき、弱いオレは『透琉なら』と頼ってしまう。依存してしまう。そのときになって突き放されようものなら、オレは死ぬ。そして……恨むだろう。オレは誰にも過去話はしない。例外は消せ。 「俺こそ、ごめんね」  一人思考の底にいたオレは透琉の突然の謝罪で現実に引き戻された。 「な、にが?」  透琉が謝る理由に心当たりがない。ごめんね、お前面倒だから今後一切関わるな、ということならば哀しいかな納得できるが、そんな声音ではない。 「何も言えなくて。……郁弥が苦しんでいることは分かったけれど、俺が昨日聞いたのは郁弥からだけの主観で、母親側の意見まで聞いた訳じゃないからさ。適当なことは言えない」  こちらを窺う透琉に毒気を抜かれた気分だ。誠実で真面目な透琉らしい意見。 「いいよ、そんなの。興味本位で踏み込まれたり、その場しのぎの三文芝居をうたれるよりずっといい」 「ふふっ。意外と手厳しいね」  口角を上げ、斬り捨てたオレに透琉も海を眺めながら笑った。 「オレねぇ、バカだからさ。相手がその場を収めるために使った文句や態度でも勘違いしちゃうんだよ。甘えていいのかな、弱音を吐いてもいいのかなって」  弾ませた声はずいぶんと快活だ。 「でね、相手が少しでも冷たい態度を取れば、裏切られたーって傷つくの。被害妄想も甚だしいでしょ。ウザいねーオレ」  小さく、透琉の頭が左右に揺れる。 「だからね、透琉。忘れてよ。オレも二度とあんな話しないからさ」  卑怯だと思う。透琉が首を突っ込んだわけでも、カウンセラー宜しく相談に乗りますよと申し出たわけでもない。蒸し返したのはオレなのに。  忘れろと言うために呼び出したオレは矛盾だらけだ。  ――忘れて、引き続き仲良くしてください。  ――気にして欲しい、オレに構ってください。あなたは甘えてもいい人ですか?  計算高く醜いオレは透琉を試しているのか。 「……話せよ」  脳に響く唸り声は空耳か。海を眺めていたはずの透琉の強い瞳がオレを射抜く。 「力になれなくても、郁弥の味方でいることはできる。俺は、……いつでも郁弥の味方でいるから」  輪郭をなぞるように下から頬に添えられた温もりは本物か、はたまた都合のよい夢か。  ――その体勢きつくないのかな。  状況把握の追い付かない頭は、どうでもよい分析を行っている。腰から上を捻って、左手でバランスを取り、右手は? ――右手は、オレの頬だ。 「ははっ……。透琉はほんっと……。……オレの話聞いてた? 思わせぶりなことばっかしてると、……好きになっちゃうよ?」  泣くんじゃない。ここで泣けば、次はない。透琉のそばに友だちとしてもいれなくなる。冗談混じりにニヤリと笑ってみせたのに、舞台俳優張りに妖艶に笑ってみせたのに、剥がそうとしたてのひらは、離れていかなかった。 「いいよ」  鼻の先に当たったものは何だろう。ふわっと香ったものは何だろう。  近すぎたその距離に、急に視界がぶれて、ピントが合った頃には透琉は元の位置に戻っていた。 「好きだよ、郁弥」  なんて優しく笑うんだ。 「俺と付き合ってください」  透琉の瞳に囚われたオレは魔法でもかかっているのか。何のリアクションもとれないまま頬の熱を感じていた。 「勘違いすんなよ。郁弥が傷を持っているから付き合うんじゃない。今までの郁弥の友だちがそうであったように、俺だってお前の抱えているものを理解してやることも、救ってやることも出来ないよ」  再び表情を消した透琉の声が固い。バックンバックンと壊れそうな心を抑えて、震える握り拳に重ねられた温かい掌を受け入れた。その動きを追いかけ、顔をあげれば、慈しむかのような穏やかな瞳にオレが映った。 「元気な声だとか、笑ったときに細く、なくなってしまう目だとか、郁弥を幼く見せてるかわいい八重歯だとか、いつも笑顔でいようとする健気さや気配り、心配り……。……好きなんだ。ただ郁弥が好きなんだ。だから付き合って欲しい」  視界の端で名前も知らない水鳥が穏やかな水面に波紋を広げていく。 「守ってやる、なんて言えるほど、傲慢でも自惚れやでもない。郁弥を癒せるほどの力はないよ」  透琉が視線を落とし、掌も離れていった。  ――オレが助けてって思っていたの、見抜かれていたんだな。  そう、オレは深層心理で恋慕に見返りを求めていたんだ。だからこそ、オレの恋愛は終息を迎えるのが早い。見限るから。  狡くて汚い人間だということを見破られていた。祈りを捧げるかのように、立てた膝の上で両手を合わせ、それに額をあてた透琉の横顔から目を反らした。 「……俺と付き合っても郁弥にメリットがあるかは分からない。俺じゃ期待に応えられないかもしれない。……でも好きなんだ。――損得抜きで俺と付き合ってよ」  すごい告白だと思った。こんな素敵な人がオレを好きだという。透琉の掠れた声が、相手の緊張をオレに伝えて、現実なのだと実感させる。  ――ゴトリ  根から下りた際に携帯が落ちたが構わずに、ゆっくり膝立ちで透琉のギリギリそばまで寄った。  一歩、二歩。  影が射したことで透琉が目を開いた。オレは首を伸ばそうとしていた透琉の頭ごと、上から覆い被さるように抱きしめた。  ドクン、ドクン……  心臓の音だけが聴こえる。 「……オレ、側にいていいの?」  僅かな間があって、「あぁ、側にいて欲しい」。緩く腰に手が回された。 「……オレ、男だよ」 「俺だって男だよ。でも郁弥は俺を好きでいてくれるんでしょ」  そう言って笑った顔は、今までで一番綺麗だったかもしれない。残念ながら水の膜を張ったオレの目じゃ、それを確かめる術はないのだけれど。  ――コクン  頷きを返せば、我慢していた涙が一粒、渇いた地面に吸い込まれていった。「好き」の言葉は唇が震えただけで音にはならず、涙で滲んで溶けていく。 「郁弥。お前の居場所は俺が作ってあげる。俺の隣は常に郁弥のいるべき場所だ」  ――寂しくて寂しくて、こんななら消えてしまいたいと思っていた。  ずっと欲しかったんだ。オレを愛して、ぎゅっと抱きしめてくれる人。これが愛かどうかは分からない。でも今オレを見つめる優しい瞳、ぎゅって抱きしめる力強い腕。「郁弥」って呼ぶその甘く穏やかな声があるなら。確かに求め続けた愛だ。  恐る恐る抱いていた腕に力を込めれば、透琉も力を強めて返してくれた。  ――ありがとう。  空気に溶けた言の葉は、貴方に染み込んでくれただろうか。  そっと慎重に体を離し、声を出さずに感情を流すオレを覗き込んだ透琉は、「ふふっ、よく泣くなぁ」と笑い骨張った中指の裏で頬についた涙を拭ってくれた。 「緊張したら喉渇いたな」 「う、ん」 「ふふっ。可愛いお嬢さん、お茶でもいかがですか」  十九の春。もしが現実になった。 完
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