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「殴……らないだろう、いきなり殴るのはなしだ。それは、暴力だよ!?」
指の一本までぴくりとも動かない中、誰かがしゃべりながら近づいてくる。
ひょいっと伸ばされた手がアルテミシアの手首を掴んで、デイジーの頬から離した。
その瞬間、魔法が解けたように、ぱっと体が動けるようになる。
アルテミシアは、横に立った相手を見上げた。
輝く黄金の髪。長いまつげに縁取られた透き通る青の瞳に、彫りの深い白皙の美貌。
すらりとした頭身のバランスは黄金比で、背が高い。
「エルマー殿下。時を止める魔法なんてお持ちなんですね」
「うん。一日一回しか使えないし、持続時間も長くないけど。さすがに暴力は見過ごせない。相手は怪我をするし、君は退学だろう」
無言のまま、アルテミシアは落ちた教科書を拾い上げ、エルマーがよく見えるように広げて見せた。
「これは暴力ではないんですか。なぜ彼女たちは、こんなことを他人にして許されると思い違いをしているんです? そして、一日一回時を止められるあなたは、なぜまずはこれを止めませんでしたか? 彼女たちを野放しにして、したり顔で私に『暴力はいけない』と説教している自分に疑問を感じないんですか?」
感情を抑えようとしているが、声が震える。
エルマーはけぶるような青を細めて、何か言おうとしたように唇をかすかに開いたが、すぐに引き結んで押し黙った。
言い返せないのか、とアルテミシアはなかば納得しつつ顔を背けた。権力構造にすっかり組み込まれた王侯貴族は、何かと感覚が違うはず。これまで、教えてくれるひとも周りにいなかったに違いない。
(責めてばかりでは、彼も変われない)
チートこそないが、前世で生きた分の経験がプラスしてあるアルテミシアは、年齢以上の分別があるつもりだった。
大人として、エルマーを諭す。
「いじめをした側がお咎め無しで、反撃した側が過剰防衛を責められるのはおかしいです。それでは、やった者勝ちではないですか」
「暴力はすべてを壊してしまう。壊す前なら取れた方法も、壊してしまえば二度と選べない」
なかなか、見どころのあることを言っているかも? と、一瞬考えた。
だが、もう一声欲しい。
「話になりません。その正論は、誰も救わない。第一、正論パンチかますなら、ただのクラスメイトである私ではなく、まずはあなたの婚約者様にどうぞ」
身分だろうか、それとも正ヒロインらしくそれなりに愛らしいこの容姿のせいだろうか。いずれにせよエルマーは「言いやすい」相手を選んで、説教してきたのだ。そこは、自覚しておいてほしい。
もはや顔を見ることもないアルテミシアに対し、エルマーが硬い声で問いかけてきた。
「婚約者をしつけるのは、男の役割だという意味か?」
(違う!)
瞬間的に沸点に達したアルテミシアは、厳しいまなざしをその美貌に向けた。
「男でも女でもどちらでも良いんですけど、生涯一緒に歩むつもりなら、わかっている方がわかっていない相手に教えてあげるべきなのでは? と私は言っているんです。この場合『たとえ平民が気に入らないからといって、いじめて良い道理はない』と懇切丁寧にセレスティーヌ様に教えて差し上げてください。そうでもしないと、悪化しますよ。そのうち私を階段から突き落としたりと、後遺症が残るほど洒落にならない事件を起こします」
悪役令嬢ものの定番。ダイレクトに、暴力によるいじめへと発展していくのだ。
一歩間違えれば死人が出たかもしれない、という段になってようやく悪役令嬢の婚約者は怒りを強め婚約破棄を言い放つ。
世界観的に「婚約を破棄されてしまえば女性としての価値は地に落ちる」そういう背景あっての仕返しなのだろう。
そうでなければ「自分と婚約破棄されることが大ダメージだと信じ切っている男」など、痛すぎる。
言うだけ言ったアルテミシアは、そっと息を吐き出した。
いじめにやり返すために鉄拳をふりかざし、啖呵をきって王子様を叱り飛ばす。疲れた。
(これだけ言っても、わからないかも……。わからなくても良いけど、自分がわからないだけの事実を棚に上げて、私を「おもしれー女」扱いするのはやめてください。それ、言われる方は全然面白くないから)
さすがに、言われたわけでもないのでこれを苦情として本人に言うのは自意識過剰というものだろう。胸の内でぶつぶつと呟くに終わったが、聞こえるわけもないのに「わかった」という呟きが耳をかすった。
慌ててアルテミシアがエルマーに顔を向けたところで、ふいっと周囲の空気が切り替わった。
時間が動き出す。
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