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この気持ちの名前
「おはようございます。朝のお仕度をお手伝いに参りました」
そう言って入室してきた王城のお仕着せを纏った侍女三名は、深々と頭を下げた。
「――私の侍女は?」
「王太子殿下の命により席を外されております」
(どうして話したいときにいないのかしら。ユリに王太子の名前について確認したかったのに!)
無表情な、いまいち感情のつかめない侍女たちを見て、分かってはいるけど念のため確認してみる。
「……ところで、殿下のお名前は」
「申し訳ございません、そのご質問にはお答えできません」
だからどうしてなの……。
どうやら王太子は何が何でも私自身の力で名前を思い出してほしいらしい。
(教えてくれたらそれでいいのでは? そうしたらちゃんと名前で呼ぶのに!)
そんなことを考えていると、昨晩の王太子の熱い掌や唇の柔らかさが突然蘇り、顔が熱くなった。慌てて両手で顔を覆う。
(本当に、あんな、あんな触れ合いをしていたというのかしら! 婚姻前だというのに⁉︎ あ、愛し合っていた⁉︎)
『ルディ……』
王太子の切ない声が聞こえる。私もその声に応えたくて、名前を呼びたいと思った。けれど呼ぶべき名を、私は知らない。
そうしてまたこの疑問に戻る。
……ウィリアムって、誰。
ユリは王太子の、私の婚約者の名だと言って教えてくれた。だから呼んだのにどうやら違うらしく、彼はとても怒っているようだった。
違うの? 私は王太子と想い合う中なのではないの?
「確認だけれど、王太子殿下って黒髪で青い瞳?」
「はい」
「背が高くて、黒のダブレットを着ている?」
「はい」
「……私は王太子妃候補?」
「はい。ルドヴィカ様は王太子殿下の婚約者候補であられます」
「……」
――さっぱり分からない。
頭を下げたまま動かない侍女たちを見て、ここで文句を言っても始まらないと諦め、私は朝の支度を手伝ってもらうことにした。
*
朝の支度を終えると、扉がノックされ護衛騎士から声を掛けられた。
「殿下がお見えになりました」
私の返事を待たず扉が開け放たれ、王太子が入室してきた。慌てて膝を曲げて首を垂れる。あ。これも淑女教育の賜物かしら。自然と流れるように動作が出てくる。
「おはようルディ。よく眠れたかな?」
その言葉にまた昨夜のことを思い返し、顔が熱くなる。そんな私を見て王太子は嬉しそうに笑顔を見せた。
(その清々しい笑顔は何かしら!)
悔しいような恥ずかしいような、落ち着かない気持ちを堪えて、何でもないことのように視線を伏せて挨拶を返す。
「おはようございます。お陰様でぐっすり眠れました」
「それは良かった。気を失うように眠ったからかな」
笑う気配を感じ、また顔が熱くなる。
(誰のせいだと思っているのかしら!)
「朝食を一緒に取ろうと思って迎えに来たよ。君のお気に入りの場所に用意させたんだ。一緒に行こう」
嬉しそうに笑いながら差し出す手を横目にちらりと見て、大人げない態度なのは分かっているけれど、なんだか悔しい気持ちが収まらない。
それでもそっと手を載せると、逃すまいとキュッと強く手を握られる。
そんな風に私に向けてくる気持ちに、私の胸の中から何かが溢れてくる。この気持ちに名前を付けたい。何と呼べばいいのだろう。
「……ずるいです」
「ん?」
ぽつりと口の中で呟くと、横を歩く王太子が笑顔で首を傾げた。美しい顔を嬉しそうに緩めて私を覗き込む王太子は、私の記憶がないことを楽しんでいるように見えた。
「私ばかりが何も知らず、不公平だと思うのです。お名前を教えて下さってもいいのに」
「ん~、それだとつまらないから」
「つ、つまらない?」
「そう。君に一番に思い出してほしいのは私のことだよ。他のことなどどうでもいいんだ」
「どうでもいいなど……」
「どうでもいいよ。何も思い出せなくても、また新しく君の人生を構築していけばいいだけだ。でも、私とのことは思い出してほしい。私と君の二人だけの思い出は、この先もずっと私たち二人のものだからね」
そう言うと王太子は、腕に絡めた私の手をキュッと上から握りしめほほ笑んだ。その言葉や表情、そして向けられる視線に胸が苦しい。
――ごめんなさい。
そう伝えたくて、でも何に謝っているのか説明ができなくて、私は黙って王太子と共にゆっくりと廊下を歩いた。
*
「まあ、なんて素敵なの……!」
王太子が朝食を用意させたのは、先日の庭とは違う中庭だった。
冬だというのに周囲は緑に溢れ、キラキラと陽の光を照り返す池、そのほとりに建つガゼボの白い柱には蔓が絡まり、小さなピンク色の花が甘い香りを微かに漂わせていた。
聞くと、魔法でこの庭全体を覆い、一年中初夏のような気候にしているという。見上げると確かに、青い空にうっすらと庭を覆うような魔法陣の光が見えた。
ガゼボにあるテーブルには既に朝食がセットされ、使用人たちは私たちが現れると頭を下げ立ち去った。
「人がいては落ち着かないと思ってね。私が取り分けよう」
「そんなことはさせられません!」
「大丈夫、二人で過ごす時はいつも私がやっていたのだから」
「い、いつも?」
王太子は私を椅子に座らせると、自ら慣れた手つきで食事を取り分けてくれた。
「お、恐れ入ります」
「これくらいどうということはないよ。……さて、君は何が嫌いだったか覚えているかな?」
王太子は向かいに腰掛けると、私の目の前に置いた皿をみて悪戯を思いついたような顔でにっこりと笑った。言われて皿を見下ろすと、前菜が何種類か乗せられている。
(この中に私の苦手なものがあるのかしら。今のところ全て美味しそうとしか思わないけれど)
「私は嫌いなものがありましたか?」
「あったよ。恐らくもう何年も口にしていないと思うな」
当ててみて、と言われて何だか急にやる気が出る。こういうことから何か分かるかもしれないものね!
よし! と気合を入れてナイフとフォークを持つと、向かいの席で王太子が楽しそうに笑った。
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