灰色の雲、ウィンドウの前で

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 王太子は用意された椅子に腰かけ、膝に肘をついて頭を抱えたまま動かない。背後に立つ従者らしき男性はごくりと喉を鳴らしたっきり、こちらも黙ったまま動かない。眼鏡がまた白く曇っている。 「それは、間違いないのですか」  どのくらいの時間が経っただろう、やっとのことで従者が医師に確認すると、医師は居た堪れないような表情でひとつ頷いた。 「ご自身のお名前も、周囲のことも何も覚えておられないご様子です」 「怪我はないのですか?」 「これと言った外傷は見当たりません」 「では魔法……?」 「それも考えられますが、行方不明になってから時間が経ちすぎており、その、ここでは確認が難しく」 「すぐに宮廷魔術師を手配しろ」  王太子は俯いたまま低く声を発した。入口側に立っていた騎士がバタバタと外へ駆けていくのが聞こえる。 「怪我などは本当にしていないんだな」 「はい。栄養状態にも問題はありません」 「三日もの間、一体どこにいたんだ……」  王太子は片手で口許を覆い、ぐっと眉間に皺をよせ考えている。   「……あの、私が王太子妃候補だと」 「思い出した!?」  私の言葉にガバッと顔を上げた王太子がぐっと身体を前に乗り出す。  近い、近いのよさっきから……!   「さ、先ほど新聞で見ました」 「……そう」    そしてすぐにまた肩をがっくりと落とした。 「あの、私の家族は……」 「君のご家族には連絡している。領地から出たばかりだろうから、こちらに来るにはまだしばらくかかると思う」 「ありがとうございます」 「ヘルマン伯爵家は、代々王弟殿下が管理する領地管理を任されている、由緒正しい家柄です」 「それで王太子妃候補なんですね」    従者がくいっと眼鏡を押し上げながら私の家族について補足するのを、他人事のように聞く。だって覚えていないんだもの。  項垂れていた王太子が顔を上げた。意外にも、上目遣いで私を見つめるその眼差しは強い。さっきまで目を潤ませていた人とは思えない。 「慣例だよ。多くの貴族令嬢を候補として立て、その中から妃を選出するという(てい)を取っているだけだ」  王太子はそう言うと立ち上がり、ベッドの縁に腰掛け私の手を取った。すり、と指で手の甲を撫でられて、その感触に恥ずかしさが込み上げる。顔が熱い。  なな何かしらこの距離感。 「本当に覚えていないんだね……私が君を選んだこと。幼い頃の約束も」 「約束?」  今の自分も分からないのだ、昔の約束なんて覚えているはずがない。選んだ? 選んだって何だろう。  黙る私をじっと見つめながら、王太子は側に立つ医師に声を掛けた。 「移動しても問題はないか」 「はい」 「では帰ろうか」  王太子はそう言うと従者に大至急馬車を用意するように伝え、私の手を取ったまま立ち上がった。見上げる王太子はニッコリと美しい笑顔を見せる。え、なんだか怖い。  大人しく殿下について外に出る。辺りを見渡すと、私が運び込まれていたのは街の診療所のようだった。  目の前には横付けされた豪奢な馬車と多くの騎士の姿。唖然としていると笑顔の王太子に押し込まれるように馬車に乗せられる。 「私も馬車で移動する。馬を頼んだ」  騎士に指示をしながら乗り込んでくる王太子をちらりと見上げる。なんだか落ち着かない。  だって、王太子でしょう? 幼い頃から知り合いらしいけれど、覚えていないのだからどんな風に接するといいのか分からない。いくらなんでも友人みたいにってことはないと思うけれど。   「どこへ行くのですか?」    向かいの席に腰を下ろした王太子に質問をすると、王太子は少しだけ首を傾げて微笑んだ。 「君が王都にいる間、滞在していた場所だよ」 「タウンハウスですか?」 「行けば思い出すかも」  同じく馬車に乗り込んできた従者が、王太子の隣に腰を下ろした。よかった、二人きりではないみたい。  王太子のひとつ頷く仕草を見て、従者は壁を叩き、馬車を出発させた。
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