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後でちゃんと
女性はユリという名の、私と共に領地からやって来た侍女だった。
幼い頃からずっと私付きの侍女をしているらしい。
私の記憶がないと知った彼女は一度白目をむいて気を失ったけれど、すぐに立ち直り色んな事を話し出した。
「とにかく、これからやって来る旦那様と奥様の心の臓が止まらないよう、何かひとつでも思い出しましょう!」
――ということらしい。
家族のこと、領地のこと、幼い頃のことや私がどんな人間か。ユリはとにかく知っていること全てを話し尽くそうとしゃべる、しゃべる。まったく言葉を挟む余地がない。
そうしている間にお茶が目の前に置かれ、話に耳を傾けながらカップを手に取ると、いい香りが鼻孔を擽った。
これは私の好きな紅茶ね、きっと。
「――どうです、ここまでで何か思い出しましたか?」
鼻息を荒くしたユリが目を輝かせて私を見つめるのを、やんわり笑顔でかわす。我ながら凄い、淑女教育がちゃんと身に沁みついている。
「あなたがとてもおしゃべりでお茶を淹れる名人だということは分かったわ」
「思い出されたのですね! お嬢様!」
ユリは「ああ神よ感謝します!」と天を仰ぐと、またおいおいと涙を流し、ポケットから取り出したハンカチで目許を拭う。
思い出したわけではないけれど。そういうことにしておこう。
「家族のことは分かったのだけれど、その、まだ分からないことがあるの」
「なんておいたわしい! 私で分かることなら何でもお聞きください!」
「殿下のことなんだけれど……」
「殿下?」
ユリは目を丸くして私を見た。涙を自在に操る技がすごい。
「王太子殿下の名前よ。その、どうしても思い出せなくて、でもそれじゃあ失礼に当たるでしょう?」
「まあ! そうでしたわ、王太子殿下のことを忘れていましたわ!」
忘れられるなんてそれも可愛そうね……?
また昨日の王太子の顔と柔らかな唇が急に蘇り、かあっと顔が熱くなる。
ユリはコホンとひとつ咳払いをすると、背筋を伸ばし仰々しい様子でその名を口にした。
「この国の次期国王、王太子殿下のお名前は、ウィリアム王太子殿下であらせられます」
「……ウィリアム様……」
その名を口の中で呟いてみる。
――やっぱり、何の感慨も湧かない。
(こんなにきれいさっぱり忘れるものなのかしら。名前を聞いて何か少しでも心を動かされるとか、そういうことはないの?)
ユリは私のカップに紅茶を注ぎながらまた話しを始める。
「けれど私は納得がいきませんわ! 慣例とは言え、こうして王都までやって来た結果がこの仕打ちだなんて、私はどうしても許せません!」
「ユリ、落ち着いて」
部屋に二人とは言え、ここは王城。タウンハウスにいる訳ではないのだ。不敬なことを軽々しく口にするものではない。
「……タウンハウス……」
そうだ、タウンハウスがあるのだから、ここにいる必要はないのでは?
記憶を失う前の私は確かに王城に滞在していたとユリも言っていた。その理由は分からないらしいけれど、今の私が王城にいる必要はない。外に出た方が何かと動きやすいだろうし、きっかけが見つかるかもしれない。
「殿下に伝言をお願い」
私は扉の向こうに立つ騎士に、王太子への言伝を頼んだ。
*
「駄目だよ」
伝言を頼んですぐ、部屋を訪れた王太子に笑顔で却下された。圧が凄い。
「な、何故ですか?」
負けじとぐっと王太子を睨むと、何故か嬉しそうにふわりと笑う。その笑顔にどきりと小さく胸が鳴った。
どうしていつもこの人は私がムッとすると嬉しそうにするのかしら!
「君の身に起こったことが何も解明していない。何者かに狙われている可能性があるのに、国で一番安全なここから出す訳がないだろう」
「ここが必ずしも安全とは限りません」
「私がそばにいる限り安全だよ」
誰かに狙われているとして、王城に出入りできる人間ではないとは限らない。私を王太子妃候補から外すためだとしたら、ここにいても狙われる可能性は大いにある。
「大体そんなことを言って、本当は自分で調べたいと思っているだろう?」
「そ、そんなことは……」
「あるでしょ」
(何かしらそのなんでも分かってる感じは!)
「分かるよ、すぐ顔に出るんだから」
王太子はふっと笑うと私の頬をするりと指の背で撫でた。ぶわりと顔が熱くなる。
他に人がいるのだから軽々しく触れないで欲しい……!
「私の気持ちも分かってほしい。君が消えたと知ってこの三日、私がどれほど心を乱したか分かる?」
「それは……」
(確かに、申し訳ない……わよね)
王太子と私は想い合う恋人同士だったらしいから、いなくなったと知れば確かに心配すると思う。
……待って、私たちが恋人同士ってことは、他の王太子妃候補はいるけれど既に私との結婚が決まっているということ?
どうしよう、何も覚えてないのに私、王太子妃になるの?
黙り込んだ私を見下ろしながら、王太子はするすると何度か私の頬を撫でると小さく息を吐きだして、親指で私の唇をふにっと押した。
急に意識が引き戻され、目の前に立つ背の高い王太子を見上げる。
「あ、あの……?」
「そうは言っても、あまり閉じ込めるのもよくないだろうな。君のことだ、逆に私のもとから去ってしまいそうだ」
ふにふにと柔らかさを確かめるように唇を何度も押す王太子。
や、やめてやめて! 壁際に立つユリや他の護衛騎士たちもいるというのに!
振り払いたい気持ちを堪えて渾身の力で王太子を睨むと、私の無言の訴えに気が付いたのか、王太子はふっと口元を緩めた。
「……タウンハウスを訪れるのは許可しよう」
「本当ですか⁉︎」
「ただし、私も行く」
「え?」
「今日は庭までで我慢して欲しい。君が出歩いてもいいように護衛と結界を強化しよう。タウンハウスへは明日の朝出かけようね」
「で、殿下自ら外出なさらなくても……!」
「殿下?」
――あ、しまった。
慌てて視線をそらすと、長い指が私の顎を捕えて視線を合わされる。黒髪の向こうに光る青い瞳が強く私を見つめた。
(どうしてせっかく名前を教えてもらったのに言わないの! 私ったら!)
パクパクと口を開け閉めしていると、王太子は瞳を細めた。
「ふうん……」
そっと顔を近付けた王太子は私にしか聞こえない声音でそっと囁く。
「……あとで、ちゃんと思い出させてあげるからね、ルディ」
「⁉︎」
不穏な響きに思わず肩を竦めると、かがんでいた姿勢をすっと戻しニコリと笑顔を見せた。
なんだか分かった気がする。
この笑顔は私の淑女教育と同じ、身に染み付いた笑顔なんだわ。この人はきっと、少し意地悪な顔が本来の顔なんじゃないかしら!
「朝食を一人にしてしまい申し訳なかった。君に声を掛けた男たちを昨夜見つけてね、話を聞いていたんだ」
「ど、どうでしたか?」
「何の手がかりもなかったよ。だが君に対して働いた無礼はきっちりとお返しさせてもらったから、心配いらないよ」
(それはどういう意味かしら……)
それ以上は聞かないほうがいいと判断した私は、身に沁みついている淑女教育を総動員してにこりと笑顔を浮かべた。
やめよう、余計なことを言うのは。
「昼食は一緒に取ろう。君の好きなものを用意させるから、楽しみにしていて」
王太子はニッコリと美しく笑うと、もう一度私の頬をするりと撫で、すぐにまた執務へ戻って行った。
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