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先回りの優しさ
王太子が去り、特にすることもなく手持ち無沙汰でゴロゴロしていると、見兼ねたユリが気晴らしに庭に出てはどうかと提案してくれた。
「でも、雪が積もっているでしょう?」
「温室があるのですよ」
「温室!?」
その言葉に思わず両手を合わせると、ユリは心得たように私の外套を用意してくれた。
「ここで閉じ籠るのもらしくありませんわ。少し歩いてみましょう」
ユリは扉の向こうにいる護衛騎士に声を掛け、私たちは庭へと向かうことにした。
騎士に案内され訪れた庭は、とても見事だった。
雪で覆われているけれど、歩けるよう道が作られ足元には雪で作った灯篭がある。聞くと、夜にはキャンドルが灯されオレンジ色で溢れかえるのだという。
「それはぜひ後で見に来たいわ」
「滞在中、お嬢様は何度もここを殿下と訪れていたのですよ」
「……何度も?」
覚えていない、王太子と私の思い出。それを人に聞かされるのはなんだかくすぐったくて、少し寂しい。
私が好きであっただろう景色も、一緒に見た思い出も思い出すことができない。その歯痒さは、時間が経つにつれじわじわと私の心を侵食するようだった。
「お嬢様見てください、大きな温室です!」
ユリが示す方向へ視線を移すと、庭の片隅に大きな温室が建っていた。
ガラスで出来た大きな温室に足を踏み入れると、そこはまるで夏のように暖かく、美しく鮮やかな花々が咲き乱れ蝶が舞っている。水が滾々と湧き出る池も誂えられ、水辺に咲く花や水草が青々と茂っていた。
「素晴らしいわ! なんて綺麗なのかしら」
後ろをついてくるユリも珍しそうに周囲を見渡しながら、楽しそうに歩いている。
「殿下より、図書館にもご案内するよう仰せつかっております」
一通り見て回ると、後ろをついて来ていた護衛騎士が声を掛けて来た。
「図書館があるの?」
「はい。きっと喜ぶだろうと、殿下が」
なんだか全て先回りされている気がする。でも当然だわ、私が覚えていないことを王太子は分かっているのだから。
私の好きなもの、好きなこと。何に興味があるのかどうしたら喜ぶのか、きっと分かっている。
(……なんだかずるいわ)
勝ち負けではないけれど! 全てお見通しなのがなんだか、ちょっとだけ悔しいと思うのは仕方ないと思う。
あれこれ考えても結局、何も覚えていない私に代替案が思い浮かぶはずがなく、大人しく近くにあるという図書館へ向かうことにした。
*
庭をぐるりと囲む回廊を歩いていると、至る所に護衛騎士が立っていた。周囲をよく見ると、回廊を囲むように金色の結界が張られている。外部からの侵入を防いでいるものだろう。
「きれいな結界だわ」
ぽつりとそう言うと、ユリが背後から呆れたような声を上げた。
「お嬢様ったら、記憶を失っていてもやっぱり魔法に興味が行くのですね」
「え?」
回廊を歩きながらユリを振り返ると、小さく肩を竦めて懐かしそうに瞳を細めた。
「小さい頃から魔術書が大好きで、結界や魔法陣を見つけては触ったり確かめたりせずにはいられませんでしたわ」
「そうなの? 確かにすごく興味深いけど……」
「お手は触れないほうがいいですよ。それは雷が走りますから」
「雷」
(それは見てみたい。走るって、どんな風に?)
護衛騎士が指をさした柱をよく見ると、そこには複雑な術式の魔法陣が描かれていた。
「殿下の魔法陣です。特に結界と他の魔法を組み合わせるのが得意な方で、この城の防御に関しては全て担われています」
「凄いわ……こんなに小さく組めるなんて」
近付いてよく観察すると、ユリがため息をついた。
「他のことは覚えていないのに、どうして好きなことは覚えているのでしょうねぇ」
「ふふっ、本当ね」
確かに何も覚えていないけれど、魔法や魔法陣に心がワクワクすることに気が付いた。
それらは私の好きなものだと感じる。そこに理由は必要ない。ただそう思うだけ。
楽しくなり回廊の柱ひとつひとつを確かめるように歩いていると、中庭を挟んだ向こう側に華やかな一団の姿が見えた。
「あれは……」
色とりどりのドレスを身に纏った貴族令嬢たち。その中心にいるのは、王太子だ。
令嬢たちに囲まれた王太子は笑顔を浮かべ何事か話している。
「まあ、あれは地方から集まった王太子妃候補の方々ですね」
足を止めその様子をじっと見つめていると、ユリが背後から声を掛けて来た。
「殿下もご公務とは言え、ああしてご令嬢方のお相手をなさって大変ですわね」
「……大変なのかしら」
にこやかに笑顔で話す王太子の横顔からは、そんな風には感じられない。取り囲む令嬢方は頬を染め、嬉しそうに王太子に何やら話しかけ、可愛らしくはにかんでいる。
「地方からやって来たご令嬢方が、連日ああして王城のご見学をされているらしいですよ」
「見学?」
「タウンハウスやホテルに滞在されているので、こうした機会がなければ王城内を歩くことは叶わないんです」
「私は滞在しているのに」
「お嬢様は特別なんですよ」
その言葉に思わずユリを振り返ると、なんだか優しそうに目を細めて私を見ていた。慰められているような響きをその言葉に感じ、かあっと顔が熱くなる。
「よ、よくそんなこと知っているわね」
慌てて前に向き直ると、ユリがまた早口で話し出す。
「王太子妃候補の方々は私たち平民の注目の的ですから! 一挙手一投足、身に着けるアクセサリーやドレスも新聞に掲載されるのですよ。お嬢様のお姿も載っておられましたが、一番美しかったですわ!」
「待って、そんなに新聞に載るの? なんだか不用心じゃない?」
それは狙って下さいと言っているようなものではないだろうか。不思議に思って聞くと、護衛騎士が苦笑しながら頷いた。
「王太子妃が選ばれるのは頻繁にあることではありませんから、市井の者たちも興味があるのです。新聞もこぞって候補の方々に取材を申し込んだり掲載したりするので、候補の方々には必ず王室の護衛が付くようにしています」
「そうなの……」
もう一度庭の向こうに視線を向けると、こちらを見ている王太子と目が合った。私をまっすぐ見つめるその瞳は、やがて柔らかく細められ微笑んだ。
それにどう答えていいか分からずにいると、王太子を取り囲むご令嬢方がチラチラと私に視線を向けてくる。
その視線がちくちくと刺さる気がして、私は小さく頭を下げ、足早にその場を離れた。
背中にいつまでも、王太子の視線が向けられているような気がした。
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