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その名前は誰のもの
「もう下がっていいわ」
「承知いたしました。何かありましたらそこのベルでお呼びくださいませ」
「ありがとう」
恭しく頭を下げたユリは、何度か私を振り返りながら渋々退室した。
どうやら話し足りなかったらしい。
夜、まだ静かに過ごした方がいいとの医師の助言に従い、夕食も部屋で済ませた。王太子が夕食も一緒にとか何か言ってくるかと思ったけれど特に何もなく、なんとなく拍子抜けしてる。
一国の王太子なのだから、忙しいのは当然よね。
「疲れた……」
お行儀が悪いけれどベッドにごろりと横になる。
蔦が美しく描かれた見慣れない天蓋をぼんやり見上げ、自分の記憶を引き出そうと思考を巡らせてみる。けれど、何も頭に浮かばない。
どうやら王太子と恋人関係にあるらしい私は、他の候補者たちを差し置いて王太子妃になる可能性が高いということだけは、今日一日過ごしてみて分かった。
それもあるからだろう、私が記憶を失ったのは事故や事件に巻き込まれた可能性が高いと考え、私の周囲の警備や護衛を増やし、王太子は執務と並行して色々と調べているらしかった。
(……無理に決まってるわ)
こんな、何一つ覚えていない私が王太子妃? たしかに淑女教育や令嬢としての振る舞いが身に付いてるなと感じるけれど、王太子妃はきっと街中で知らない男性に足払いなんてしないと思う。
それにあの、名前も分からない王太子と結婚するなんて想像できない。見た目は……とても素敵だと思うけれど。
優しくしてくれるし、笑顔も素敵。時々意地悪で名前も教えてくれないけれど、私のことが……好き、らしい。
(でも覚えていないのよ!)
昼間の、あの美しい令嬢たちに囲まれていた姿を思い出す。洗練された美しい振る舞いで優雅に話す様は、誰が王太子妃になってもおかしくない。
彼女たちの方がよほど、私なんかより王太子妃に向いているのではないかと思う。
「……お断りできないかしら」
こんな私に、王太子妃なんて無理だもの。
「――何を?」
「!?」
耳元で声がしたかと思うとふわりと優しく風が吹き、小さな金色の粒が集まる。瞬きをひとつすると、目の前に王太子がいた。
「……っ!」
叫ばなかった私、えらい!
王太子は仰向けになっている私の上に覆い被さるようにベッドに手をつき、ニッコリと微笑んだ。
どうしてわざわざ魔法を使って現れたの!? 普通にノックして来たらいいのでは!?
「いい夜だね、ルディ。ちゃんと食事はした?」
「どっ、どうしてここに……!」
「あとで思い出させてあげるって言っただろう?」
ふふっと小さく声を出して笑う王太子は、私の頬をすりすりと撫でる。
「それで? 何を断りたいの?」
ああほら、その笑顔の圧が怖いのよ!
「な、なんでもありません!」
「あんなに深い溜め息をついていたのに?」
(どこから聞いていたの!?)
「……教えて」
王太子の低く囁く声が降ってくる。
恥ずかしい、その声にどんな効果があるのか分かっててやっているのかしら!
王太子は顔にかかる私の髪をそっと退けて、するすると髪を梳く。その甘い手つきと雰囲気に胸の音が益々早くなっていく。
「こ、こんな何も分からない私が王太子妃候補など、分不相応だと……!」
ぎゅっと目をつむりそう言うと、王太子の手がピタリと止まった。
「――それは、君がそうしたいと思っているの?」
その言葉に恐る恐る目を開き見上げると、王太子は静かにを私を見下ろしていた。怒っているのでもなく、ただ静かに私を見つめている。
「……わ、分かりません……」
「そうか」
ゆっくりと私の髪先を持ち上げて口元に運び、静かに目を閉じて口付けをした。
「君が望めばその通りになる。誰も君に無理強いはできないよ」
伏せた長い睫毛、白皙の肌、すっと鼻筋の通った美しい王太子。
(――怒るとか、そんな事はできないとか言われると思ったのに)
何故か、静かな王太子の姿に気持ちが落ち込むのを感じた。
そしてすぐその考えに顔が熱くなる。
(それではまるで、私が候補から降りるのを王太子に嫌がられたいみたいじゃない!)
心臓が痛い。顔が熱い。
「ルディ?」
黙った私を心配してか、王太子がまた低い声で囁く。その声は本当にとても心臓に悪い!
「あっ、あのまずはそこをどいて下さい!」
「んー? どうしようかな」
「ど、どうって……」
「考えたんだけどね、そう都合よく記憶を蘇らせるような魔法はないし、君の言うとおりきっかけがあればいいと思うんだ」
「それはどのような……」
驚かせるとかそういうのじゃないわよね? それはなんだか怖いし、でも取り敢えずそろそろ退いてくれないかしら!
王太子は何とか体勢を起こしたい私を見下ろしながら、小さく首を傾げてグッと顔を近付けた。
「!」
ふわりと懐かしい香りが鼻腔を擽る。私、この香り知ってるわ。
「普段通り過ごすのがいいと思うんだ」
「ふ、普段通り……?」
王太子の吐息が唇にかかり、かあっと顔が熱くなる。その距離の近さに昼間の口付けを思い出し、心臓がドキドキと音を立てうるさい。聞かれないか心配で落ち着かない。
「君と出会った幼い頃からずっとしていることをする」
「お、幼い頃から?」
「そう。私が王弟殿下の屋敷で過ごしていた時に、私たちは出会ったんだ。初めて会ったその時からずっと、している事だ」
そう言うと、ふわりと王太子の唇が私の頬に触れた。
「な……っ!」
「覚えてない? 本当に?」
「はっ、初めて会う人とそんなこと!」
「君からしてきたんだよ」
「え、は?」
言いながら王太子は頬に、瞼に口付けを降らせる。柔らかく熱い唇が肌に触れ、逃れようと顔を逸らすと耳朶にも落とされて、恥ずかしくてギュッと目を瞑った。
恥ずかしくてたまらないのに、髪を梳くように私の頭を撫でる王太子のその手つきに懐かしさを感じた。
「私が見せた魔法をとても喜んでくれて、そのお礼にって」
「い、いくつの頃の話ですか!?」
「六歳」
「子供の頃の話!」
「それからいつも、君のお礼が欲しくて沢山魔法を学んだんだ」
「な、なぜ」
「君が好きだからだよ」
そっと低い声で囁かれ、びりびりと背中が痺れる。王太子の甘く熱い息が耳朶にかかり、高い鼻先がすり、と甘えるように首筋をなぞった。
「……っ」
「初めて会った時からずっと好きだった。そう伝えたのに覚えていない?」
「わ、わたし……」
「ルディ……ルドヴィカ」
ちゅ、と唇が首筋に触れる。
まるで恋焦がれる人にかけるような切ない声の響きに胸が苦しくなる。
本当にこの美しい人に愛されて、私も愛していたのだろうか。こんな風に触れ合っていたのだろうか。温かい何かが胸の内に溢れてくるこれは、一体なんだろう。
私の首筋に、甘えるように鼻先を擦りつけてちゅ、ちゅっと何度も口付けを落とされる。その度に、小さな快感の粒が蓄積されて、身体の芯が熱くなっていく。
「思い出して、ルディ」
――思い出したわけではないけれど。ユリから聞いた私の婚約者の名前をそっと呼んでみる。
「……う、ウィリアム……?」
そう呟くと、ぴたりと王太子の動きが止まった。というより、固まった……?
「――――は?」
ものすごく低い声が空気を震わせた。
甘ったるい空気に満ちていた天蓋の下は一気に温度が下がり、王太子の背後になんだか黒いもやが集まりだした気がする。
この部屋ってこんなに薄暗かったかしら。
……あれ、もしかして私、何か間違えた……?
逆光で微笑む王太子の笑顔は、この世のものとは思えない美しさだった。
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