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次の日、麗は仕事が休みだった。
悟を車で送って、家に帰って即学校に電話した。
「はい、鳳来中部小学校でございます」
電話で対応したのは、悟が一年生の時からいる校長の女性だった。
「突然申し訳ありません。六年一組の、熱田悟の母です」
「ああ、はい」
校長はなぜか安堵した様子で声色を変えた。今のご時世モンスターペアレントがいるくらいだから、電話対応は多少気を張るのだろう。
「今、担任の、横山先生はいらっしゃいますでしょうか?」
麗は唐突に尋ねてしまったことをしまった、と思いつつ返答を待った。
「申し訳ありません。横山は本日不在でして。代理の担任に変わりましょうか」
「はい、お願いいたします」
電話が保留になって、音楽が流れ始める。
昨日の悟の服はボロボロだった。
怪我も、擦り傷がいくつかあった。そして新調した水筒はまた妙なところに傷がつき、今度は筆箱まで壊れていた。
普通じゃない。
水筒に関しても、こんな頻度で、あの子が、壊してくるわけない。まして筆箱は、一年生のころから大事に使っているお気に入りだ。それを壊すことは考えにくい。落としたといっても、プラスチックと金属。そんなに簡単に壊れるだろうか?
信じたいけど、何が起こっているか、できるだけ詳しく知りたかった。
「お電話代わりました、本日担任をさせていただく教務主任の鈴木でございます」
「すみません、朝早くに。あの、悟なんですけど、学校で何かありませんでしたか?」
麗は冷静に訊く。
焦って畳みかけて向こうに "面倒くさい"と思わせたら負けだ。その時点で誠実な対応は不可能になる。
「こちらでは、問題を把握できておりません」
麗はそうですか、と言ってから
「様子がおかしいんです。この一週間で水筒を二つも壊してきたんです、それに昨日は怪我もして……」
麗は思わずすべてをぶちまけてしまう。
「では本日、少し注意して息子さんを見させていただきます」
鈴木先生から今言おうとしていた言葉が出て、麗は「お願いします」と言った。
電話を切っても、しばらくは動く気になれなかった。
子どもが変なことを言うのなんて当たり前なのに、何かが異様に引っかかる。ちょっとおかしい。気にしすぎと言われればそれまでだが、こういう母親の勘は当たるものだ。
そう思った矢先、インターフォンも鳴らさずにドアを叩く人影が小窓から見えた。隣の家だった。あの家は空き家だ。変質者じゃ困るなと、ベランダから覗くと、その人物は小堤あさみだった。
「あさみ?」
玄関に出た麗が声をかけると、あさみは赤面して駆け寄ってきた。高校時代から変わらないナルト走りだ。
どうやら彼女は家を間違えていたらしい。
「麗、聞いた?」
息を切らしながら訊いてくるその顔は、さっきの笑みを失っていた。
「なにが?」
悟のこともあって、麗は口調が強くなってしまった。
「朝、都が言ってたんだけどさ、悟くん、こないだ、窓からランドセル捨てられたって」
その瞬間麗の頭は真っ白になった。でもすぐに言うべき言葉が浮かんでくる。
「どういうこと…それ、何それ」
あさみは今まで見たことないくらい切羽詰まった表情で、娘から聞いたという話を事細かに麗にきかせた。
二度目の電話対応をしたのも、校長だった。 さっきあさみが言ってくれた言葉を一言一句そっくりそのまま聞かせてやった。校長は時折息をのんだ。そして一度謝罪し、事実確認のためあさみと都を呼ぶので昼休みに校長室に来るようにと指示した。
長くなることが予想されたので、麗は冷凍チャーハンの昼食を済ませて車に乗った。
生徒が使う門の少し奥に、先生たちが車を停めるスペースがある。そこに停めていいとのことだった。オレンジ色の背の高い小型車は、結構目立った。
「お待ちしておりました。早速ではございますが、こちらに」
校長の西尾結子は校長室に麗を通す。ソファにはもうあさみが座っていた。
ほどなくしてやってきた小堤都は、いい意味であさみの娘らしくなかった。礼儀正しく、髪をハーフアップにした清楚で大人っぽい女の子だ。
一緒に鈴木もやってきて、事実確認が始まった。
「まず都さん」
西尾は垂れた目尻を指で拭いながら言った。五〇代とは思えない、かわいらしい容姿だ。
「クラスで木戸くんと寺領さんと新明さんが中心になって川並くんをいじめていて……」
「えっ?」
麗は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。川並、という知らない名前が出てきたのが意外だったのだ。
「川並明日っていうのよ、こないだ話した転入生」
あさみが麗に耳打ちして、娘に続けて、と合図する。
「……それをみんな、見て笑ってたんです。でも……」
都の声がとまる。身体が震えている。
「無理しなくていいのよ」
あさみは背中をさする。
「先生たち、秘密は守るわ。怖いだろうけど、話せるかしら?」
西尾も都の顔を覗き込む。都は頷いて、口を開いた。
「熱田くんだけは笑ってませんでした」
都はそこで黙り込んだ。怖い、というよりはこれ以上知らない、といった様子だった。麗は身体の力を抜いた。というより抜けた。 西尾が「話してくれてありがとう」と言っている。都はあさみに一度抱きしめられたあとで、教室に戻された。
「熱田悟くんについて、熱田さん」
次に話すのは麗だった。
「はい。まず、先週あたりに水筒を壊してきたんです」
そういって、麗はその実物を見せた。金属でできた魔法瓶は無惨にもへこんでしまっている。これにはさすがの教師陣も驚いていた。
「昨日、怪我をして、服を泥で汚してきたんです」
麗の言ったことを、西尾がバインダーに挟んだ "調査用紙"にメモしていく。
「しかも新調した水筒にも傷がありましたし、大事にしていた筆箱まで壊れたんです」
言い終わったと思ったら、西尾がボールペンのキャップを閉めて、バインダーを見ながら尋ねてきた。
「お電話でおっしゃっていた、 "様子がおかしい"とは何でしょうか?」
麗は迷ったが、秘密は守るとさっき明言した校長だ。
「"生まれかわっても人間にしかなれないのか"と訊いてきたんです。あの子はオカルトも怖いことも苦手なんです!何か言われたとしか思えません!」
思わず口調を強めてしまう。
「鈴木先生、校長先生、本当に何も知らないんですか?」
鈴木は西尾に目配せをしてから言った。
「申し訳ありません。私も、本日きりの担任でして。 お呼びしておいてなんですが、明日、担任に確認をしてまいります」
それから麗は、あさみを車に乗せて帰宅した。雨は相変わらずひどい。ワイパーゴムが劣化しているのか、変な音がした。
一応、教師陣の対応には誠実さや真面目さがあった。
だけどそれで終わりじゃない。この先、一体何があったのかを探っていかなければならない。麗は家に帰って着替えると、スマホを開いた。
グループラインにはひとっつも入っていない。麗はママ友の概念をよく分からずに作っていなかったことを後悔した。
ママ友なしで悟をここまで育てられたのは奇跡かもしれない。
それとも、その子育てが間違って今悟は窮地にあるのか?
考えれば考えるほど、自分まで窮地に陥っていくことがわかった。
「ただいま」
悟の声がして、時計を見ると、一時だった。麗が帰ってから一時間弱だ。麗はなぜこの時間に帰宅したのかと尋ねるより先にスマホを見た。
考え事のせいで学校からの着信に気付けなかった可能性は通知画面を見た瞬間に消えた。少なくとも迎えに来い、という内容の通知はない。ライター活動をするうえで使っているSNSアカウントにダイレクトメールが来ているくらいだ。
「どうしたの、こんなに早くに」
悟は麗の問いに答えることなく、神妙な面持ちで階段を上っていく。
「悟?」
まるで聞いていない。 人間の言葉がわからなくなったかのように。
麗は悟を見た。まじまじと見た。歩き方や雰囲気は変わらない。
表情も暗くない。怪我も朝と同じく、治りかけだ。服がぬれたり汚れたりもしていない。
悟に何が起こっているのだろう。
悟は親から見ても地味でトラブルは起こさないし、害はない。 反応も薄いから嫌がらせも大して面白くないだろうからいじめの標的になることはないだろうと思っていたのだが。
怪我、持ち物の破損、精神的不安定……。
クラスの中で別の子に対するいじめがあり、それに悟が加担していないという状況を見るとないともいえない。
麗はゆっくりと階段を上がった。
その間、どうやって悟から話を引き出そうか考えていた。麗はぜんたい口がいい方ではないので、当たり障りのない言葉選びは苦手分野だ。敬語ならまだしも、息子相手ならもっと難しい。
こういう時、旦那がいればなと思う。
麗の旦那で悟の父親は三年前に失踪している。失踪、というよりは蒸発。所持品全てを残したまま、服だけ着ていなくなったのだ。
彼はサッカー一筋で、成人後もサッカースクールのコーチをしていたが、言葉選びが上手で麗も毎日のようにうまいなあ、と感想を述べていたほど。
きっと彼なら、こういうときも喋りたくなるように仕向けてくれるだろう。
「悟?」
麗は扉を開けずに、声をかけた。
部屋の中から音はしない。車の音がするから、窓を開けているのだろう。
「なにがあった?どうしてこんなに早く帰ってくるの?」
答えはない。
「悟、お母さんね、学校に行ってきたの。先生に、何があったか聞いてきたの」
もしいじめが事実であれば、ここで何らかの反応はするだろうと思っていたが、麗はそれ以上のことに気が付いた。
人けがなさすぎる。
まるで空き家に話しかけている気分だ。この部屋からは、人がいるという気配を感じられない。
「悟?入るよ?」
扉を開けて、麗は部屋に足を踏み入れた。
「悟!」
すぐに部屋を飛び出してしまったのは、悟の姿がないからだ。
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