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【第一章】望月薫という男
早坂保は、営業先から直帰する予定だったが、忘れ物を取りにオフィスに戻った。
終業時間を過ぎていたので、誰もいないと思っていたが、薄明かりが漏れている。
そっと陰から覗くと、早坂の上司の古谷と先輩の望月薫がキスをしていた。
何度も唇を重ねた、濃厚なキスだった。
早坂は一瞬見入ってしまったが、すぐにハッとしてオフィスを出た。
車に戻り、呼吸を整える。
目を疑うとはこのことだ。
古谷は45歳の課長で既婚。
総合職の単身赴任で、この支店に来た。
望月は27歳。
早坂の5歳下だが、昨年転職してきた自分にとっては先輩になる。
望月は独身だが、男が恋愛対象とは思わなかった。
不倫だけでも驚いたのに、まして男同士なんて。
どちらも自分の常識の範囲を超えていて、頭がうまく働かない。
一体どういうことなのか気にはなるが、まずここを離れたかった。
帰る二人とうっかり会いたくない。
早坂は車を発進させた。
♢♢♢
翌日、直行で遠方の顧客の元へ行くつもりだったが、昨日持ち帰れなかった資料が必要だったので、早朝にオフィスに寄った。
望月はすでに出勤していて、経済ニュースを見ていた。
望月は普段きちんとスーツを来ているが、今は誰もいないと油断してか、ネクタイもシャツの首元のボタンも外していた。
「おはようございます……」
挨拶するものの、望月を直視できない。
望月はテレビから視線を外し、早坂を見た。
「おはようございます。今日、直行じゃなかったですか?」
望月は管理職ではないが、他の営業職員の動向も把握し、さりげなく管理職をサポートしていた。
「ええ、ちょっと、忘れ物をしてしまって……」
自分のデスクから資料を取ろうとしたとき、望月の華奢な首筋にキスマークがついているのが見えた。
目の前の仕事モードの望月の表情に、キスの最中の艶かしい望月が重なる。
「今日、雨みたいですから、気をつけてくださいね」
日頃、専門用語と数字がすらすら出てくるその唇は、昨日は男の唇を喜ばせ、今日は後輩を思いやる言葉をかける。
「はい、行ってきます」とだけ返事をして、そそくさとオフィスを後にした。
♢♢♢
望月は証券営業のトップセールスマンだ。
税理士資格も持っていて、他の営業マンにはできないアプローチができる。
愛想は少ないが、その頭脳と整った顔立ちもあって、顧客からは信頼が厚かった。
早坂はもともと銀行員だったが、昨年転職してきた。
転職したときはすでに31歳で、決断は少し遅かったかもしれないが今の仕事は面白く、後悔はなかった。
望月は、一年間早坂の指導係だった。
望月に教わったとおりに営業をすると、すぐに結果が出た。
この業界は営業成績が全て。
望月が指導係じゃなかったら、今頃もう会社をクビになってただろう。
若いながらに力がある望月を尊敬していた。
だからこそ、昨日の一件はショックだった。
誰が誰と付き合おうが勝手だが、望月には黒い噂もあった。
望月が上司に取り入って、優良客を融通してもらっているのではないか、という話だ。
聞いたときは信じてなかったが、昨日のことがあったので、あり得ない話じゃないと思った。
あんなキス、初めてには見えない。
もう体の関係もあるんだろう。
その日はオフィスに戻らず直帰にした。
変なタイミングで帰社して、また気まずいものを見てはたまらないからだ。
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