粘り強く、勝ちを取りに行け

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 鍋の中では玉ねぎやにんじんの端切れがら溶け出た赤みがかったスープがくつくつと煮えており、甘さと香ばしさを重ねた匂いが調理実習室に広がる。  あとは弱火でじっくりと味を染み出させていけばいい。鍋から顔を上げると、調理部の後輩の水島優里亜が興味深そうに鍋と俺を交互に見ていた。 「水島、後片付けはやっとくから帰っていいぞ」 「と言いながら、部長、何作ってるんです?」 「今日の料理で余った野菜でブイヨンスープ作っとこうと思って。そのまま明日使えるからな」   水島は悩むような困ったような顔を浮かべて首をかしげる。一学年下の水島は表情がコロコロとよく変わる女子だった。裏表がないというか考えていることがすぐ顔に出るので、女子が多い調理部の中で男の俺としても気が置けない相手だ。  けれども、今は水島が何を考えているかよくわからない。どこか少しだけ不満気に小さく唇を尖らせている。 「や、ブイヨンスープ作ってるのは私だって調理部の端くれだからわかるんですけどね。明日は野球部の全校応援だから部活は休みですよ」 「あー、そうだっけ」  適当に誤魔化してみるけど、水島の言ってたことは当然俺も知っている。明日は甲子園の県予選の決勝で、昼過ぎから県営球場で全校応援となっていた。  甲子園の常連校でもないうちの高校は、野球部に限らずソワソワとした気配があちらこちらで漂っている。 「そうだっけって、部長は本当にその手のイベントに興味ないですねえ」  水島は俺の嘘に気づかなかったようで、呆れがちに息をつく。 「まあ、俺には遠い世界だからなあ」    夕暮れに染まる窓の外に目を向ける。野球部に限らず多くの運動部が夏を、青春を謳歌するように汗を流していた。  そういう汗とか涙というのは窓一枚隔てた向こう側の世界の話で、俺にはどれも無縁な話だった。 「ふうん。ところで」  水島が調理実習室内の大型の冷蔵庫に目を向ける。その視線が少しだけ怪しく光って見えた気がした。 「冷蔵庫に下ごしらえ済みの材料が入ってたのはなんですか?」  別に後ろ暗いところは何もないのに、水島の言葉にぎくりとする。というか、疑いの色のこもった声がなんだか怖い。 「部長になってからはなかなか自分の為に集中して料理作れててなかったからさ、部活終わってから時々練習と研究してんだよ」 「え、それ食べたいです」 「まだ食わせられるレベルじゃないから練習すんの。さ、帰れ帰れ」  食ーべーたーいー!と声をあげ続ける水島の背中を殆ど押し出すようにして調理実習室の外へとつまみ出す。そのままぴしゃりとドアを閉めて、その足で冷蔵庫から部活前に仕込んでおいた材料をとりだしてみる。仕込みといっても玉ねぎ、ピーマン、にんじんをみじん切りにして、ささみをタレに漬けていただけだけど。  カーン、と窓の外の遠い世界から響いてきた小気味のいい音がやけに耳に残った。 *  玉ねぎに強火で火を通すと香ばしい匂いがぐんと広がる。少し焦げてもいいので、途中で水を差しながら飴色よりもしっかりと炒める。実はこの行程が最初にして料理の味を決める一番大事な部分だと思う。  玉ねぎにしっかり過ぎるくらいに火が通ったところでにんじんとピーマンを加えていく。その間も外からはバットがボールを叩く音が響いていた。運動についてはてんで詳しくないけど、決勝戦の前日までよくやるものだと素直に感心してしまう。  野菜に火が通ったら続いて鶏ひき肉。普段は牛と豚の合いびき肉を使うところだけど、今日はあえて鶏肉で。最初は塊のまま火を通して焼き目をつけて、それから野菜と合わせるようにほぐしてかき混ぜていく。  そんな間にも甲高いバットの音とおおーっという歓声。  ああやって青春をそれぞれのスポーツに燃やせるやつらっていうのは、いったいどんなきっかけがあって、その先に何を見据えているのだろう。そこまでの熱を燃やし続けられる原動力はなんなのだろう。  自分のことを振り返ってみると、料理を始めたきっかけは両親が仕事で忙しくて自分で作る必要に迫られたからだったし、将来料理の仕事がしたいかというとそれはよくわからない。普通に受験して大学行って、料理と何も関係ない仕事をしている気もする。  閑話休題。鶏肉にも火が通ったところで弱火にしてトマトペーストとソースにおろしたショウガとニンニクを加えて一煮たち。  そこに家から持ってきたコリアンダーやチリペッパーといったスパイスと、隣の鍋からブイヨンスープを加えて沸騰したら弱火にして水気が飛ぶまで煮込んでいく。  将来何になりたいかはわからないけど、今の俺にはこれしかできないから。  余ったブイヨンスープを明後日の部活用に器へと取り分けると、空いたコンロでさっきまでの部活で使っていた揚げ油を温め直す。温まるのを待つ間に、漬け込んでいたささみにサッとパン粉の衣を纏わせていく。  油が温まったところで、ささみを油の中へと投入。カラカラという食欲をそそる音が一人の実習室によく響く。ここまで来れば後は煮込み終わるのと揚げ終わるのを待つだけだ。  時々鍋の様子を見ながら、部活で使ってた分と合わせて片づけを進めていく。部屋の中に美味しい香りが広がる中、窓の外を目を向けると流石に日もほとんど暮れて暗くなり、さっきまでずっと聞こえていた青春の声も聞こえなくなっていた。 *  鍋を弱火でじっくり煮込んだ結果、完全に日も落ちた頃に料理が完成した。  鶏ひき肉のキーマカレーにささみカツを添えて。変則的なカツカレーだ。  そして、料理の完成を待ち構えていたかのように調理実習室のドアが開き、室内に制汗剤の匂いが仄かに混ざる。 「なんか、鬼のように美味しそうな匂いがするんだけど! ああ、もう、お腹へった!」  調理実習室に入ってきたのは予想通り野球部の徳山祥吾で、カレーの匂いに誘われるようにフラフラと近づいてくる。野球部の大きなカバンが右に左に揺れて何だか危なっかしい。 「今準備してやるから、そこ座っとけ」  徳山は一つ頷くと定位置となった席に座る。鍋をじっと見つめる様子は「待て」をしている大型犬のようにも見えて、思わず吹き出しそうになってしまう。    こんな風に徳山が調理実習室に現れるようになったのは、ちょうど一年ほど前、俺が調理部の部長になった頃だった。部長になると調理中も自分の料理だけでなく周囲に目を配ることが多くなって、部の活動が終わった後に一人で練習している時に急に現れた野球部の大男には随分驚かされた。  所在なさ気な大男に何しに来たのか聞いてみると、何のことはなく――いや、そんなやつ初めて見たけどさ――練習が終わって空腹状態の時に調理実習室から漂ってきた香りにフラフラと誘われて来たとのことだった。  その時は簡単な和定食みたいなのを作っていて、「お腹減った」という表情が前面に出ていた徳山にそれを半分分けてやったら、それからも時々顔を出すようになった。  いや、餌付けじゃねえんだからと思ったけど、毎回料理を旨そうに平らげていく徳山に悪い気はしなかった。  少しだけ1年前を思い出していると、じっと「待て」をしている徳山の視線を感じた。  野球部で4番をはっている大柄な体を調理実習室の小さな椅子に収めているアンバランスさに見慣れたおかしみを感じつつ、二人分よそったキーマカツカレーを徳山が座る実習台へと運ぶ。 「カレー、珍しいね。いつも和食なのに」 「別に家では普通に作ってるし、今日はそんな気分だっただけだ」  そんな言葉を交わして、両手を合わせていただきます。  スプーンで早速カレーを頬張った徳山は一言「旨っ」と漏らすと、そこからは無言でカレーを食べ進めていく。豪快な食べっぷりは、やっぱり見ていて気持ちがいい。  その様子を見ながら自分でもカレーを食べてみると、確かに旨い。鶏肉を使った分あっさり目の味わいではあったけど、ブイヨンスープやしっかり炒めた玉ねぎのコクが染みていて決して物足りなくない。そこに少しパンチがあるタレで味付けたささみカツがいいバランスで効いてきて、我ながら成功の部類だと思う。 「よし、これで明日も頑張れるや」  ようやく一息ついた徳山の皿からは半分以上カレーが消えていた。  徳山は毎日調理実習室に来るわけじゃないけど、必ず顔を出すタイミングがあった。それは試合の前日。理由を聞くと、ここで飯を食った翌日は調子がいいからということだった。  別に俺の料理はアスリート用に気をつかったものでもないし、そんな効果が出るのは不思議だったけど、まあ、調子がいいというのならそれを邪魔するつもりもない。 「野球部って、決勝の前日までがっつり練習するんだな」 「本当は軽い調整のはずだったんだけどね、みんな熱が入ってて」  その熱は窓の外からしっかりと聞こえていた。俺とは縁のない世界の熱量。目の前で無邪気にカレーを頬張る徳山からもその熱は確かに伝わってきて、憧れと嫉妬がいりまじったような感情が胸の中をぐるぐるとする。 「ね、下松君。明日の決勝、応援しててよ。カレーの効き目、見せるから」 「そんな危ねえクスリみたいに言われてもな」  何も入ってないと言っているのに、なぜだか徳山は自信満々だった。  それは嬉しいんだけど、徳山の言葉に頷くことは出来なくて、知らず知らずと息が零れる。 「それに、俺は全校応援には行けないよ」  昔から、体が弱かった。あまり原因はよくわからないのだけど、とにかく体質らしく、夏の炎天下では30分と持たないし、体を激しく動かそうものなら10分経たずに気分が悪くなってしまう。  だから、明日の全校応援もスタンドで徳山たちの姿を見ることはできない。調理実習部の窓の外から見える光景は、手を伸ばせば届きそうなほど近くにあって、けれど遮られて決して届かないものだった。 「大丈夫」  だけど、徳山は一切気を悪くした様子もなく、ささみカツを乗せたスプーンをくわえて微笑んだ。 「別にスタンドからじゃなくても、中継でもいいし。中継じゃなくても試合の時間、ちょっとでも頑張れって思ってくれたらなって。それだけ」 「そんなのでいいのか?」 「そう。100%、僕のワガママだけどね。その場にいなくたって応援してもらえてるって思えたら、カレーの恩返しもかねてしっかり打てると思うから」  スプーンを置いた徳山が素振りをしてみせる。おちゃらけた感じでの素振りなのに、一瞬目がキッと鋭くなって。  確かにそこにあるボールをスタンドまで放り込むような豪快な一振りだった。思わず見入ってしまって、小さく息をつく。 「お前、そういう言葉は好きな女にでも言ってやれよ」  こんなフワフワした雰囲気の徳山だけど、一学年下のマネジャーと何やらいい感じらしい。マネジャーと同じクラスだという水島の噂話が部活中に聞こえてきただけだから、どこまで本当かは知らないけれど。 「んー。うちの野球部恋愛禁止だし、そういうのは大学に行ってからかなあ」  徳山はのほほんとした感じで、俺の言葉を肯定も否定もしなかった。 「大学の野球部は恋愛禁止じゃないといいな――って」  別にこれまで徳山と進路の話なんてしたことなかったけど、それは思っていたものと違っていた。県大会の決勝を前にして、最近ローカルニュースではよく徳山の姿を見かけた。目の前でニコニコとカレーを食べている野球少年は、うちの県内ではかなり注目されている選手らしい。 「お前、大学進むの? プロじゃなくて?」  本気で聞いたのに、徳山は一瞬キョトンとしてからケラケラと笑いだす。 「少なくとも来年からプロってのはないかなあ」 「甲子園行ってもか?」 「うん。甲子園にいった選手が皆プロになるなら、都道府県に1つはプロ野球チームが必要になっちゃうよ」  今まで自分が手を伸ばせないものには殆ど興味が湧かなくて、プロ野球選手もサッカーのトップスターも全く知らなかった。まあ、そう言われればそうか。3年間努力を積み上げて県の代表として全国で戦って。それでもその先が保証されない厳しい世界。 「それでも、大学に行っても野球は続けるのか?」 「うん。そのつもり」 「どうしてそんなに頑張れるんだよ。大学卒業した時にプロになれるかもわからないんだろ?」 「好きだから」  徳山は迷いなく答える。その視線も声もどこまでも真っすぐだった。 「好きだからずっと続けてきたし、プロになれなくたってこれからも続けていくんだと思う。下松君にとっての料理もそうじゃないの?」 「好き、だから……」  ああ、そうか。徳山の言葉ですとんと落ちた。きっかけが必要に迫られてとはいえ、俺はどうやら料理のことが好きだったらしい。  夕暮れの窓の外は俺とは無縁の別世界だと思っていたけど、何も変わらない。ただ好きなことに全力で打ち込んでいて、それがスポーツなのか料理なのかってくらいの違いしかなかったんだ。  刺激的な料理を口に放り込まれたようにぼーっとしてしまって、気がつくと目の前の徳山はニコニコと俺を見ていた。何となく、徳山がここに訪れるようになったわけも、俺がそれを嫌じゃない理由もわかった気がする。向き合うものが違っても、ただ好きなものに打ち込む相手と向かい合って飯を食うというのが、波長が合って気持ちよかったのかもしれない。 「ごちそうさま。うん、食べ終わるのもったいないくらいおいしかったなあ……。でも、下松君がカレーを作るのも珍しかったけど、キーマカレーに鶏肉って珍しいね。それにキーマカレーにカツが乗ってるのも」  笑顔のまま徳山が首をかしげた。俺も自分の分のカレーを食べ終えてスプーンを置く。  思った以上に美味しかった。これなら、“願掛け”といわずに時々作ってみてもいいかもしれない。 「えっと、さ。カツと鶏肉で、勝ちを取りに行く。徳山、明日、頑張れよ」  大真面目に言ったつもりなのに、徳山はプッと口元を抑えて、結局我慢できずに豪快に笑い出した。 「ごめん。いや、下松君もそんな語呂合わせみたいなのやるんだなあって和んだら、つい。あれ、じゃあ、普通のカレーじゃなくてキーマカレーだったのは」 「ひき肉はこねるとよく“粘る”から。新聞とか読んでたら、うちの高校は粘り勝ちってのよく見たし」  徳山は一瞬ハッとしたように笑いやんで目元を潤ませたように見えたけど、すぐにまた堪えきれないといった感じで笑いだしてしまう。  きっと今日は徳山が来るだろうと思って色々考えてきたのだけど、その様子だと俺は相当恥ずかしいことをしていたのかもしれない。 「吐け。そんなに笑うなら食ったの全部吐け」 「やだよ、もったいない」  ようやく徳山の笑いは収まってきたけど、笑いすぎたせいなのか目元を拭っていた。  前言撤回。もう二度とここでカレーは作らない。 「ごめんごめん。なんか変なツボに入ったけど、美味しかったし願もこもってるし、これは明日、勝つしかないね」 「負けたら本当に吐かせるからな」  徳山は微笑みながら「大丈夫」と自信満々に答える。その様子に毒気を抜かれてしまって、まあ、本当に勝ってくれればなんでもいいやと思う。その時は甲子園に行く前に、前言撤回を撤回してもう一回くらい作ってやるのもやぶさかではない。 「ね、下松君。僕はプロに行けるかはわからないけど、下松君はプロになりなよ」 「俺が? なんで」 「これだけ誰かのことを考えておいしいもの作れるんだからさ。きっとたくさんの人を幸せにできる」  だから、そういうのは好きな女にでも言ってろって。  ため息をつきながら、俺の料理を食べたいと言いながら帰っていった水島のことを少し思い出す。あいつもいい顔で料理食べるんだよな。久しぶりにちゃんと何か振る舞ってみるのもいいかもしれない。  そんなことを思って、さっきまで全く気付いてなかったけど、俺も料理が好きだったんだなあと改めて感じた。少なくとも、目の前でニコニコとしている徳山が野球にかける思いに負けないくらいは。 「なら、お前が俺をプロにしてみろよ」  再び首を傾げた徳山に、俺はニッと口元を上げてみる。  これは、明日、スタンドから応援できない俺からの精いっぱいのエールだ。  カレーに添える福神漬けくらいのちょっとしたエール。 「まずお前がプロになって、管理栄養士でも何でも俺を雇えば晴れて俺もプロの仲間入りだ。できるだろ?」  発破をかけるつもりだったのに、徳山は大まじめにその太い腕を組んで悩み始める。  おいおい、こういうときは気楽に乗っとけよ。そうじゃないと、また俺が恥ずかしいだろ。 「下松君って、好きな球団ある?」 「……特にねえよ」  プロに行けるかわからないとか言ってた割に、ノリノリだった。  まあいいや。とにかく今大事なのは、明日徳山が盛大に打って試合に勝って、できればその先甲子園でもバリバリに活躍することだ。  その姿を直接見ることはできないけど、多分それは間違いなくこれまで以上に俺を料理と向き合わせてくれる。そんな気がする。 「ああそうだ、下松君」 「ん?」 「ごちそうさまでした」  徳山が改めてそう言って、丁寧に両手を合わせる。  ああ、そうだ。こうやって誰かがおいしそうに料理を食べて、最後にその言葉を聞くたびに、俺はこの世界にのめり込んでいたんだ。  いつも豪快に飯を食って最後に必ずその言葉と共に笑う徳山に対して飯を食わせるのが嫌になるはずもなかった。 「その言葉は、明日試合が終わった時に――ああ、いや」  我ながら不器用に、徳山に向かって右手の拳を突き出してみる。 「やっぱさ、また『腹減った』って言いながら来てくれ。甲子園に向けてまた何かうまいもの作ってやるよ」  徳山は豪快に笑みを浮かべてみせると、俺の二倍はありそうな拳を重ねてきた。 ――九回裏 1対0 2アウト ランナー1塁  先制されながらも粘りの試合を続けてきた我らが高校も追いつくことができないまま迎えてしまった最終回。  そんなギリギリの状況で甲高いバットの音と共に徳山が打った球がスタンドに飛び込む光景が、見えた気がした。
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