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オナカ、スイタ
正気を失ったマキが襲い掛かってきた。それをぎりぎりで身をかわし、布団から逃げるように這い出した。その後を彼女が四つん這いで追いかけてくる。
捕まってはなるものかと右足で思い切り彼女の顔を駆りつけた。その衝撃が強かったのか、一瞬意識が飛んだようだ。
その隙を僕は見逃さなかった。咄嗟に浴衣の帯を解くとマキを後ろ手に縛り上げ、さらに彼女が身につけていた帯も解いて足を縛った。
すぐに目を覚ました彼女は僕に飛びかかろうとした。身体の自由が奪われていることにも気をかけず、ただひたすら僕に向かって芋虫のように這い寄ってくる。
たまらず僕は座敷机の上に避難し、彼女の様子を眺めた。手足を縛られた状態ではマキも上がってくることはできず、うらめしそうに机の端をかじっている。
やがて動きを止めた彼女は僕に視線を向けると、彼女のものとは思えない声で言った。
「オナカ、スイタ」
さて、どうしたものか。僕は机の上に胡坐をかき、彼女の言動を思い起こした。
この温泉旅行に誘ったのは僕だ。それに対してマキは乗り気ではなかった。過去の元彼たちが皆、初めてのお泊りをした後に彼女と連絡を絶ったから、と言うのが理由だった。
それでも僕が諦めずに説得したことで、こうして初めてのお泊りとなったのだ。
だがこれで分かった。深夜になると彼女は豹変する。夜中にお土産用に買ったお菓子や飲み物をがむしゃらに頬張るその食欲。それでは飽き足らず、今こうして僕まで喰らおうとする姿には戦慄を覚えた。現に両手はまだわなわなと震えている。
マキの元彼たちは消息を絶ったと言うが、恐らく彼女自身が喰ってしまったのだろう。僕はたまたま夜中に目を覚ましたから助かったに過ぎないのだ。
畳の上ではマキがずっと「オナカスイタ、オナカスイタ」と繰り返している。
どこか哀れにも思えてくるが、このまま朝まで待つしかない。日中は彼女も正常なのだ。この状態を説明し、医者に見てもらうのが正解だろう。そうなると、証拠の動画を撮っておくべきかも……。
と、考えたところでマキの様子に異変が生じた。全身が痙攣を起こしている。
手足を自由にしてやったほうがいいのかどうか迷ううち、彼女の喉元が異様に膨らんでいることに気づいた。ふくらみはどんどん大きくなり、首の太さは頭部以上にまでふくらんでいた。
マキの口からどろどろした唾液のようなものがあふれ出ると同時に、苦しげなうめき声がもれ始める。
太くなっていた首はそのままに、今度は下顎から頬にかけてもふくらみ、頭部の痙攣がよりいっそう激しくなった。そして、顎が外れたのかと思うほどに大きく開かれた口から何かが出てきた。
いつの間にか自分の呼吸が速くなってることに気づく。逃げ出したい衝動と、怖いもの見たさの好奇心が絡み合い、僕は身動きが取れなくなっていた。
それはぬめぬめと真っ黒に光る物体だった。生き物なのかもわからない。見ようによっては手足のない大山椒魚のようにも見える。そいつが身体をくねらせながらマキの口から這い出てくる。すでに50センチほど姿を現しているにもかかわらず、まだ彼女の喉は太いままびくびくと動いていた。
マキの口とつながったまま畳の上でのたうっていたそいつは、やがて鎌首をもたげるように先端を持ち上げた。そのままぐるりと360度回転し、僕の方でぴたりと止まる。顔がないにもかかわらず、視線が合ったような気がした。
その直後。目の前が真っ暗になった。一瞬息がつまり、少しの眩暈のあと視界は元に戻る。マキのほうを見るとあの物体が消えていた。
え?あいつはどこだ?
そう思うと同時に、とてつもない衝動が腹の底から湧いてくるのを感じた。
「ああ……。オナカスイタ……」
つぶやいた後、僕は無意識のうちにマキの身体にむしゃぶりついていた。
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