9月29日(金)

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9月29日(金)

 この場所から初めて観る日の入りは、思った以上に雄大だ。  夕焼けと夜空の間にできる一瞬のマジックアワーは、月見の前夜祭と言ってもいい。もっと早く知っておけば良かったと今更後ながら悔している。……美月はこの景色、知ってるのかな。  あの日から、一度だけ連絡が来た。今年の春、丁度大学入試の合否が発表され始めた頃。 『もしもし……?』 『あー、夜空くん?元気?』 『みッ、美月!?』 『ふふっ。久しぶり……でもないか。大学受かった?』 『一応受かったけど……そんなことより体調は!?大丈夫なのか!?』 『一応って何よ一応って。私はねー……約束通り、連絡してみた感じ』 『約束?何かしたっけ?』 『えーひどい忘れたの?連絡しろって言ったの夜空くんなんだけど』 『え、ちちょっと待ってくれ……それって——』 『でも良かった、元気そうで。私も夜空くんの声聴いて、なんだか元気出てきた』 『電話なんていつしてくれても良かったんだよ!それよりまさか——』 『ふふ。楽しみは極力取っておかなきゃ。……じゃ、そういうことだから。またね』 『ちょっ、美月——!』  あれが最後。今でもあの時の美月の声は耳元に残っている。美月の「またね」を信じて、俺は待ち続けた。あれはきっと別れの挨拶じゃない。あれが最後でたまるもんか。  まだ去年のネタバラシもしてないし、話したいことは山ほどある。何より、美月の答えをまだ聞いてない。  幻想の中で生き続けた方がいいのか、現実にしていいのか。  他人の内心は分からない。ましてや、死と向き合っている美月の気持ちは尚更。俺にできることはなんでもしたい、そんな想いも相手にとっては迷惑なものかもしれないんだ。美月が幻想のままを望むなら、それでいい。一年に一度、月夜の遭遇という名の幻想でいい。それでいいから、せめてこの世界には生き続けてくれ。頼むから、あれが最期だと思わせないでくれ……。  一筋の光が地平線の向こうへ消えていくと、夜の幕がゆっくりと降りてくる。俺はその世界を、ただじっと眺めていた。いつ来ても変わらない木製のベンチの左側に座って。  ここに居ると、時間の流れが分からなくなる。ど田舎な麓の街も、その先のビル群も、夜になれば赤い光が点滅しているだけ。唯一変わっていくのは、この世界を創る、白色の月。月の軌跡だけが、時間が経過しているという事実だけを教えてくれる。俺がここに来てから、何分……いや、何時間経ったのだろうか。買ってきたポテトとバーガーは、こんなに冷え切ったらもう食べられたものじゃない。  恐らく、日付も変わっていることだろう。それでも、美月は姿を現さなかった。  もし来れない理由があるなら、連絡があるはず。その連絡すらないということは——。    いや、分かっているさ。そんなこと。  俺がずっと目を逸らしていただけ。  俺なら同じ事をしたと思う。相手にとって、一番傷が浅く済む選択。  だからこそ、今俺はここで、涙を流さない程度には平生を保てているんだ。  美月には……感謝すべきなんだ。    ただ、今だけは、幻想の中に居させてほしい。今だけは、ここで月を眺めていたい。何も考えずに。 「……バカ野郎」  蒼白の世界で、月に向かって、呟く。  皮肉なもので、今日はびっくりする程の快晴。過去一番の映える月を、独りで見せるなんて、あんまりだと思うんだが。 「誰がだってー?」  風に混じる音が鼓膜を揺らした瞬間、夜空を泳ぐ海月は勢いよく爆ぜた。  夜の海が視界から溢れ、肌を泳ぐ。 「ふふっ。遅くなってごめんね」  ゆっくりと右側に座る女子が、月よりも明るい表情で俺に囁く。  ……さっきのは撤回だ。今日こそ、雨で良かった。 「出るの遅くなったのに、じっと座って待ってた君の後ろ姿見た途端、涙……止まんなくなってさ……」 「……で、自分だけ絞り出して来たって?ずりーよそれ。もう一回後ろで待機しててよ」 「ダメダメ。私今すごくお腹空いてるから。一緒に食べるでしょ?」  やっぱりもう一度馬鹿野郎と言いたい。それを買ってきたの、俺だっつーの。 「……そうだな。とりあえず喉乾いた」 「はいどーぞ。中身はきっと、コーラだよ」  一口飲む度に、頬を伝う水滴が増えているように感じる。この氷で薄まった味が、既に思い出の味へと変わっていたからだろう。 「あのさ……」  感情がぐちゃぐちゃで、何から話していいのか分からない。一生懸命言葉を捻ろうとするんだけど、涙がそれを邪魔する。  でも、それをある意味否定するように、彼女は俺に答えた。 「良ければ、もう一度始めから、やり直さない?」 「えっ?」 「今度は……幻想じゃなく、現実で」  幻想的に光るその表情と、眼の中に映る月に俺は見惚れた。  もう一度、やり直そう。これが現実であることを祈って。 「そうだな……そうしよう」 「じゃあまずは——」 「名前。俺は桜井夜空。君は?」 「……ふふっ。私はね——」  気の抜けた微炭酸が、始まりを告げた。  
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