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エピローグ
早咲きの桜が満開で、風が吹く度にひらひらと舞う花弁が着慣れない袴の裾に纏わりつく。
今日は姫芽の大学の卒業式だ。
姫芽は大学の友人達と集まり、思い出とこれからの話に花を咲かせていた。新しい出会いがたくさんあった。別れも、一つ二つではなかった。
高校の卒業式のように泣くことはない。それでも、確かに姫芽は今日をこうして迎えられたことに感動していた。
その左手の薬指には、四年間変わらず銀色の小さな輝きがある。
大学生が身につけるには高価そうに見えるそれに、何度彼氏の存在を質問されただろう。その度、遠距離の『婚約者』がいると説明してきた。
しかし誰も見たことがない婚約者の存在が一部で疑われていることを、姫芽は知っている。それでも、信じてもらえなくても良いと思っていた。
恋人と仲睦まじくしている人の姿を見ると、羨ましい気持ちになる。でも、姫芽は決して不幸ではない。
櫂人も同じ想いであると知っているからだ。
姫芽は企業に就職しなかった。櫂人の側にいたいというのも理由だったが、一番は在学中に始めた仕事をどこまで広げられるか、挑戦したかったからだ。
本が好きだった姫芽は、今は翻訳の仕事を受けている。『どこにいてもできる仕事』だということは、姫芽のこれからにとって強みになるだろう。
櫂人は少し前、もう少しで仕事の都合がつき、一度日本に帰ると言っていた。そのもう少しがいつになるのか、姫芽は聞いていない。
少し寂しく感じていたとき、卒業式が終わって少しずつ落ち着いてきた騒めきが、急に大きくなった。
「ねえ、なんか門のところにすごいイケメンがいるんだって」
「卒業式のゲスト女優だったじゃん」
「そうじゃなくて、多分一般人っぽい? 見たことないもん」
「あの人知ってる! こないだ、『次世代の百人』に載ってた──」
聞こえてきた噂話に、姫芽ははっと顔を上げた。
側にいた美紗が、驚いたように姫芽を見ている。
「ねえ、園村くんって」
「もう少しで一時帰国できるとは、言ってたんだけど……」
姫芽は美紗と顔を見合わせて、慌てて駆け出した。
編み上げブーツの踵が地面を鳴らす。
期待と不安がぐるぐると回っている。
「はあ……はあっ」
荒い息を吐き出し、乱れた髪を整える。
正門前には人集りができていた。
中心は門の横に植えられた桜の木だ。その柔らかな色の下、紺色のスーツを着た男性がちらりと見えた。
強い風に黒髪が揺れる。
それがざわりと吹き抜けた後、桜吹雪が二人だけの世界に舞い散っていた。
「──姫芽ちゃん」
その声を電波を隔てずに聞くのは、何年ぶりだろう。
こんなに柔らかく、暖かで、愛しい響きだっただろうか。
人混みが割れる。
姫芽は迷わず、その中心に向かって飛び込んだ。
「櫂人くん……!!」
しっかりとした胸が、勢い良く抱きついた姫芽を受け止めてくれる。
その温度が、これが夢ではないと確かに姫芽に伝えていた。
「良かった。会えた」
見上げる姫芽の視界は滲み始めている。
一番言いたい言葉が、口から出てこない。
「どうして」
「今日が卒業式だって聞いてたから、できれば直接祝いたかったんだ。でも、約束できる状況じゃなくて」
「うん……うん」
頷くだけの姫芽に、櫂人が苦笑する。
「……迷惑だった?」
「そんなことない!」
大きく首を左右に振ると、櫂人は嬉しそうに姫芽の頭を撫でた。
それから、また乱れてしまっていたらしい姫芽の髪を手櫛でさらりと整えてくれる。その力加減が高校の頃のものと変わっていなくて、姫芽はやっと現実を現実として受け入れることができた。
鼓動ばかりが速くなり、嬉しい気持ちがあっという間に姫芽の心を埋め尽くしていく。
「──……おかえりなさい」
やっと言えた言葉に、櫂人が姫芽を強く抱き締めた。姫芽もそれに応えて、思いきり両腕を櫂人の背に回す。
変わらない香りに安心して、肩の力が抜けていく。
「ただいま、姫芽ちゃん」
甘い声が落ちてきて顔を上げると、額にそっと唇が触れる。
恥ずかしくて目を伏せると、今度は瞼にキスが落ちてきた。
勇気を出してもう一度顔を上げる。
目が合い、どちらからともなく微笑んだ。
「これからは、ずっと一緒にいられるから」
櫂人が言う。
「絶対、離さないでね」
姫芽が頷く。
「「──愛してる」」
そっと瞼を伏せて、唇同士を触れ合わせる。
まるでずっと前からそうであることが自然のことのように、同じ温度だった。
◇ ◇ ◇
カインがセリーナを探して辿り着いたのは、シュナー帝国の片田舎だった。
ぽっかりと開いた場所に、いくつかの家が建っている。
その中に一軒だけ、まだ新しい家があった。家の周りには丁寧に手入れされた菜園があった。見る限り、商売をしているというよりは自分が食べるための規模だ。
扉を叩いて、声をかける。
「──人を探しているんだが、少し良いだろうか」
家の中から、がたんがたんと大きな音がした。
何かあったかと驚いて固まったカインの前で、そろそろと扉が少しだけ開く。
その隙間から、声だけが覗いた。
「誰か探しているんですか?」
少年のように低めの声だった。
「ええ。このあたりに、短いプラチナブロンドの髪に、ルビーの瞳を持つ女性はいないでしょうか」
「その人、お兄さんの何?」
声は用心深くカインに問い返す。
カインは相手を少年だと思い、少し肩の力を抜いた。留守番をしている子供かもしれない。突然の来客なら、驚いて当然だろう。
カインはあえて柔らかい声で返す。
「──……お兄さんの大切な人なんだ。だから、会ったら、好きだから結婚してくださいって言いたくて」
「けっこん──!?」
裏返った声に、カインははっとする。
少年とはとても言えない、可愛らしい声だったのだ。
扉の隙間で、ふわりと柔らかなものが舞って太陽の光を反射した。
勢い良く扉を開く。
「……セリーナ様。久し振りに会って、最初にするのが悪戯とはどういうことですか」
「……カインこそ、私の髪が短かったのなんて随分前だわ」
互いに悪態を吐いて、それからどちらからともなく笑う。
カインは長い旅の間にすっかりよれてしまった旅装だった。
セリーナも、簡素な村娘らしい地味で動きやすそうなワンピースを着ている。
「結婚しましょう」
「ええ。いいわ」
長い時間が経った。
それでもつい昨日まで一緒にいたかのように、自然だった。
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***********
「それから二人は、ずっと幸せにくらしましたとさ」
「えー、もう終わりー?」
「ふふ。──ちゃんはもう寝る時間でしょう?」
「ママのお話、もっと聞きたいのにー」
「また明日ね。おやすみ、──ちゃん」
「はーい、ママ。おやすみなさい」
部屋の明かりが消され、しばらくして静かな寝息が聞こえてくる。
飛び出た小さな手を布団に入れると、母親は寝室を出ていった。
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