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【カインとセリーナ5】
◇ ◇ ◇
セリーナの旅立ちの日、王城の正門前には見送りの民衆が押し寄せていた。彼等の顔にはやっと実感した平和と王女の婚姻という慶事に対する喜びが浮かんでいる。
一方、王城の敷地内でも奥の奥、王族の居住地付近に用意された馬車の側では、涙を堪える王妃と、毅然とした態度で送りだそうとする国王を中心として、とても結婚相手に見せられない光景が広がっていた。
専属の従者や侍女を連れてくるなという指示に従い、カインもこの場でセリーナとはお別れである。
「セリーナ、元気でやりなさい」
「はい、お父様。今日まで育てていただき、ありがとうございました」
「セリーナ……! 何かあれば、いつでも手紙を出すのですよ」
「はい、お母様」
抱き合う三人から一歩離れたところに、セリーナの兄である王太子がいる。王太子は何かを諦めたような悲しげな目をしていた。やはり、セリーナを人質のように差し出すことについて、彼なりに思うところがあるのだろう。
セリーナと王太子は仲の良い兄弟だから、余計に自分を責めてしまっているのかもしれない。
カインがどこか冷静な目で見つめていると、それに気付いた王太子がカインの元へと歩み寄ってきた。
「カイン。今日までセリーナの我儘に付き合ってくれたこと、心から感謝する」
「勿体ないお言葉です。私にとっても、幸福な日々でした」
王太子の言葉に、カインは偽りのない心で答える。
子供の頃から、いつも周囲に負けないようにと剣の腕を磨いていた。自分以外の誰かを守るために強くなりたいと思えたのは、そしてそれを原動力として今日まで努力してこられたのは、間違いなくセリーナのお陰だ。
あの日、セリーナがカインを望んだそのとき、カインは生きる意味を見つけたのだ。
「そう言ってもらえるとありがたいが……お前は、随分とセリーナに振り回されていただろう」
「そうですね。ですが、楽しかったのです。あの毎日が……本当に、楽しかったのです」
「お前、……もしかしてセリーナのことを」
カインは首を振ってそれ以上の言葉を拒絶した。
本来、王太子に対してこのような態度を取るのは不敬に当たる。しかし王太子は、カインを咎めることはしなかった。溜息を吐いただけで、カインの肩を労うようにぽんと軽く叩く。
カインが唇を噛むと、王太子は眉間に皺を寄せ、続けて何かを言おうと口を開きかけた。ちょうどそのとき、国王と王妃との会話が終わり、涙に濡れている侍女達との別れも済んだらしいカリーナが、カインを呼ぶ。
「カイン、いらっしゃい」
カインは王太子に一礼し、足早にセリーナの側に寄った。
「セリーナ様」
セリーナは満足げに頷いて、口を開く。
「今日までありがとう。今この場で、あなたを私の従者から解任します」
「それは──」
驚きに目を見開いたカインに、セリーナが甘い微笑みを浮かべる。
「ありがとう。カインに会えて本当に良かった。あなたがいたから、私はこうして嫁いでいく覚悟ができるの。あなたが、この国で生きていてくれると思えば……私はそれだけで、幸せよ」
「勿体ない……お言葉、です」
「だから、カイン。これからは自由に生きて。今日まで縛ってしまって、ごめんなさい」
セリーナの言葉は真摯で優しい。だからカインは、首を左右に振って、涙を堪えて笑みを返す。
「いえ……いいえ、セリーナ様。私は、あなたにお仕えできて、幸せでした」
そして、そっと距離を詰める。
「──お慕いして、おりました」
「ふふ、両想いだわ」
耳元で互いに交わした言葉は、きっと他の誰にも聞かれないだろう。もし聞こえていたといても、何の問題もない。何故なら、今日を最後に二人は別れるのだから。
セリーナが微笑みを消して、姿勢を正す。これはセリーナがカインに何らかの命を下すときの癖だ。カインもこれまでの習慣で、自然と腰を折っていた。
「最後の命令よ。……私を忘れて、幸せになりなさい」
「──……っ!」
カインは息を呑んだ。
衝撃だった。
それは騎士の夢を諦めろと言われた幼い日よりもずっと大きな衝撃で、カインは呼吸の仕方すら忘れてしまった。
「姫様、お時間です」
「ええ、今行くわ。それでは皆様、今日まで本当にありがとうございました。どうか、お元気で」
固まったままのカインを残して、セリーナが優雅に最後の挨拶をする。その姿を、カインはただじっと見つめていた。いつの間にか、頬が濡れている。
馬車に乗り込んだセリーナと最後に目が合い、視線が絡む。涙を堪えるようにぐしゃりと歪んだ表情で、セリーナは全てを振り切るように扉を閉めた。
「出して」
「かしこまりました」
御者が馬の手綱を引く。軽やかな足音が、豪華な馬車を引いていく。
その姿が見えなくなった頃、風に乗って民衆達の明るい祝福の声が聞こえてきた。馬車が丁度王城の敷地を出たのだろう。
俯いた視界で、地面が雨に濡れていく。
大切なセリーナに、言いたくもない言葉を言わせてしまった。何があっても泣かないと決めていたのにこのざまだ。
「──……申し訳ございません。御前を失礼させていただいてもよろしいでしょうか」
カインが絞り出した言葉に、国王が頷く。
「ああ、構わん。……気持ちが落ち着いたら、私のところに来なさい」
「ご配慮痛み入ります。失礼いたします」
数歩進むと、自然と駆け足になる。これ以上この場にいたくなかった。セリーナが側にいない未来など、考えたくはなかった。
セリーナと自分が結婚するなどというような、大それたことを望んでいたわけではない。ただ、この先セリーナが誰と一緒になっても、自分だけは一番側でセリーナの味方でいたいと、そう、思っていたのだ。
雨が降る。
カインの涙を全て流してしまうような雨が降る。
外を歩いていた人々は、突然の豪雨に慌てて近くの建物に駆け込んでいった。
仰向いて、嗚咽とも悲鳴ともつかない声を上げる。
これからどうしたら良いのか、まるで分からなかった。
カインはそれから数日後、国王の呼び出しに応えて王城に出仕し、今後は王太子の側に仕えるようにと打診された。
いつか帰国したセリーナの顔が見られる場所にいたくて、カインはその打診を受けた。忘れるつもりなど、みじんもなかった。
だから、三年後、カインは王太子と共に最初にそれを目撃する。
ゲルハルト──国王となったセリーナの夫から、王家宛に親書として届けられた小包だ。
箱を開けた瞬間に目を引いたのは、豊かなプラチナブロンドだ。かつて何度もカインが触れた、緩やかに波打つ髪。見間違う筈がない。
中央を深紅のリボンで結わえられているそれは、べったりと血に濡れ固まっていた。
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