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密談・拒絶
◇ ◇ ◇
「和泉姫芽様でいらっしゃいますね。少々、お時間をいただけますか」
声をかけてきたのはスーツ姿の見知らぬ男性だった。息を呑んだ姫芽は、それとなく周囲を確認する。夕方の最寄り駅は人が多く、この場にいる限り手荒なことはされないだろう。
姫芽はゆっくりと口を開いた。
「……知らない人にはついていったらいけないと言われていますので」
「申し訳ございません。私、こういった者です」
男性はスーツの内ポケットから革製の名刺入れを取り出し、一枚の名刺を姫芽に手渡した。そこには、『相川ホールディングス 顧問弁護士』と書かれている。
「──……弁護士さん?」
「はい。私、相川ホールディングスの顧問弁護士をしております、湯水と申します」
「相川ホールディングス……」
その名前は、高校生の姫芽でも知っている。銀行や建設会社、大型ショッピングセンターの母体となっている企業だ。そこの顧問弁護士など、少なくとも姫芽のような普通の高校生が関わるような相手ではない。
「人違いじゃありませんか?」
「いいえ、あなたです。櫂人様の件で、弊社の副社長がお呼びでございます」
櫂人の名前が出て、姫芽は目を見張った。さっきまで一緒にいた相手だ。そして、まだ認め切れない恋心を抱く相手でもある。こんな大人からその名前を出され、驚かずにいられるわけもなかった。
動揺した姫芽に、湯水は言葉を続ける。
「櫂人様には内密に、副社長から和泉様に直接お願いしたい案件があるとのことです。どうか、ご同行ください」
大き過ぎる権力を目の前にして、姫芽は頷くことしかできなかった。
乗せられた車の中で、姫芽は湯水に許可を取って母親に帰りが遅くなるとメッセージを送る。
無駄に広い後部座席には姫芽しかいない。
櫂人には内密にと、湯水が言っていた。それはその会社の副社長とやらの指示だろう。素直に従っておいた方が良いに決まっている。
しかし姫芽の脳裏には、櫂人が兄のことを話したときの硬い表情がちらついていた。
もしかして、相川ホールディングスというこの会社が、櫂人の兄に関係あるのだろうか。もしそうなら、櫂人の態度も分からないことはない。
姫芽は櫂人へのメッセージの画面を開き、連絡を入れようとする。
「ご実家への連絡は済みましたか?」
画面上のキーボードに指を滑らせ始めてすぐに、見計らったかのように湯水が問いかけてきた。
「は、はい。今終わりました」
姫芽は画面を消す前に書きかけの文章をそのまま送信し、スマホを鞄に仕舞った。
連れていかれたのは夜でも昼間のように明るい都心部の、見上げるほど高いオフィスビルだった。エレベータに乗り、最上階の一つ前で降りる。いかにも大企業の重役がいますという雰囲気の扉の前で立ち止まった湯水が、中に向かって声をかけた。
「道人様、和泉様をお連れいたしました」
その名前で、姫芽はこの中にいる相手が櫂人の兄だと分かった。
「通せ」
失礼いたします、という言葉に続いて、重厚そうな扉が開けられる。
部屋の奥は一面ガラス張りで、東京の夜景がきらきらと輝いて見える。その前に大きな机があり、パソコンと資料らしき紙の束が置かれていた。プレートに、相川道人、と名前が書かれている。
左右に並べられた書棚が姫芽に圧迫感を与えた。
「──ようこそ、捕らわれのおひめ様」
道人──櫂人の兄はそう言って、櫂人に似た端正な顔に人畜無害そうな笑みを浮かべた。
姫芽はびくりと肩を震わせる。顔は笑っているのに、目が全く笑っていなかった。大人のこんな駆け引き、姫芽はこれまでの短い人生で味わったことがない。
膠着した場を動かしたのは、姫芽と一緒に入室してきた湯水だった。
「道人様、お人が悪いですよ」
「……そうだな。和泉さん、そこにかけてくれ」
湯水が溜息交じりに言うと、道人は頷いて歪んだ笑みを消した。無表情になると、それはそれで怖かった。こんな若さで大企業の役員に名前を連ねているのだから、相当の切れ者なのだろうということは姫芽にも分かる。
櫂人に似ている顔が、今に姫芽には嬉しくない。
だって兄弟だというのに、プレートに書かれた名字が違ったのだ。明らかに何らかの事情がある。
「……失礼します」
今すぐ逃げ出したい気持ちの姫芽はしかし逃げられず、道人に示された応接セットのソファに座った。
正面に道人が座り、姫芽の目を正面から見る。どんな感情の変化も見逃さないという目だ。
「単刀直入に言おう。櫂人と別れなさい」
「え」
「どんな手を使って取り入ったかは知らんが、櫂人は君の手には余る」
そこまで一息に言って、道人は片側だけ口角を上げる。
道人にとって、櫂人が姫芽と恋愛関係にあると不都合があるのだろう。それはなんとなく分かるが、何故今姫芽がこんなことを言われているのか分からない。
だって、姫芽と櫂人は付き合っていないのだから。
困惑に固まってしまった姫芽に、道人が言葉を続ける。
「どうした? ……何故私にそんなことを言われるのか、分からないといった顔だな。まさかこんなことも聞いていないのか」
「いえ、その──」
「良いだろう。説明してやる」
道人がふんと鼻を鳴らす。
姫芽が言葉を挟む間もなく、道人は話を始めてしまった。
「……私の名字が櫂人と違うことには、気付いているようだな」
道人はその言葉から話を始めた。姫芽はただ、黙って聞くことしかできない。櫂人との関係は、誤解されたままだ。
「櫂人と私では、母親が違う。よくある話だ」
櫂人は父親の本妻との間に産まれた子で、道人は愛人との間に産まれた子だという。
本妻と結婚する前から恋人がいた櫂人の父親は、恋人との間に子供を作った。それが道人だ。そして政略結婚をすることになった櫂人の母親は、愛人と隠し子である道人の存在を知った上で嫁ぎ、子を生した。
「ここまでならば、私が実家である相川の家にいる方がおかしいだろう。だが、櫂人の母親は、それから数年後に死んだ」
櫂人の母親は有能な女性で、相川グループの要職に就いていた。そして海外出張に出ているとき、現地で起きた内紛に巻き込まれたのだ。当時、櫂人は五歳だったという。
それから半年も経たないうちに、道人の母親は後妻に入り、それから少しして、櫂人は死んだ母親の実家に引き取られた。後妻からの虐待も疑われたが、真実は道人も知らない。
園村の名前は、櫂人の母親の旧姓だ。園村の家は不動産に強く、相川としては仲を拗らせたくなかった。そして櫂人の母親の両親は、亡き娘の忘れ形見を側に置いておきたかった。
そうして園村の家で生活をしていた櫂人だが、問題となったのはその能力の高さだった。運動、勉強、仕事。何をさせても高い成果を出す櫂人を、いつからか園村の家の叔父達が嫉むようになっていく。
櫂人はそうして、自身の能力の全てを発揮しなくなっていった。何事も、目立ちすぎないように。一番にならないように。
櫂人の祖父が病に倒れてからは、余計に家に居場所がなくなっていく。
「園村の家にいづらくなった櫂人は、高校に上がると共に、余らせているマンションを受け取って一人暮らしを始めた。そうなれば、相川の父も黙ってはいない」
道人は目を伏せ、深く嘆息した。
「私は、相川グループにとって最良の選択には、櫂人が戻ってくることが必須だと考えている。──そして、その未来図に君の居場所はない」
長い話を終えたとばかりに、道人が顔を上げる。その目は、姫芽の瞳を正面からまっすぐにとらえていた。
「悪いことは言わん。櫂人と別れ、身の丈にあった相手と付き合いなさい」
姫芽はその視線から逃れることができない。
ただの女子高生である姫芽には、どうしても受け入れ切ることができない話だった。だって、姫芽にとって櫂人は大切な友人の一人だ。恋心が育ってきている自覚はあるが、それを抜きにしても、黙って聞いていられない。
やり場のない怒りが、ふつふつと湧き上がってくる。
道人の温度のない瞳も、今は怖くなかった。怖さを忘れるくらい、感情が昂っている。
「──……嫌です」
気付けば口に出していた。
「何を言っている」
「嫌です! 私は、園村くんのことを大切な人だと思ってます。こんな……こんな、園村くんの気持ちを無視した話だけ聞かされて、離れるなんて、したくありません!」
姫芽はそう言って胸を張った。
まさか断られるとは思っていなかったのか、道人が目尻を僅かに赤く染めている。
櫂人が辛いと言ったのか。櫂人が、実家に帰りたいと言ったのか。
道人の話は家の事情や会社の都合ばかりで、櫂人のことを話している筈なのに、その存在を感じなかった。それは、櫂人が一人の人間であることを無視しているからではないか。
こめかみの辺りが熱くて、どくどくと鼓動が煩い。姫芽にとって大切な櫂人は、決して他人の都合で型にはめられるような人ではない。
この怒りが姫芽のものでも、セリーナのものでも、どちらでも良かった。
「君に何ができる? 調べさせてもらったが、君は普通の家のお嬢さんだろう」
道人がふんと鼻を鳴らす。
「私にはちょっとした会社の人事くらい、どうとでもできるが」
姫芽はその言葉の意味を悟り、すうっと目を細めた。
「どういう意味ですか」
「さあ、何か言ったかな」
道人はとぼけたように言って、ソファに背を預ける。
「──まあ、君が櫂人を相川の家に戻るように説得してくれるなら、君達の関係を認めてやらなくもない」
姫芽はぐっと歯を食いしばった。
道人は姫芽に対して、櫂人と別れるか、櫂人を相川に戻るように説得するかのどちらかを選ばせようとしている。人質は姫芽の家族だということなのだろう。
「それを決めるのは、私じゃないです」
俯いて、首を左右に降る。強気な態度を崩さないよう気を張りながらも、頭の中ではさまざまな不安が渦巻いていた。
姫芽はまだ、大きな会社のことも、社会のことも知らない、道人が言う通り、『普通のお嬢さん』だ。それでも、だからこそこの提案が間違っていることはよく分かる。
ただの脅しだと、思うことしかできない。
「園村くんが決めることに、私が口を出すわけには──」
姫芽の抗議の声は、勢い良く叩きつけるようにして開けられた扉の音によって遮られた。
「……兄様、何をしていらっしゃるのですか」
荒い息を隠すこともせずに現れた櫂人の姿に、姫芽は零れ落ちそうになった涙をぐっと呑み込んだ。
「いや、少し話をしていただけだ」
道人はそう言って立ち上がった。
姫芽の前が空席となり、さっきまでの圧力が一気に霧散する。姫芽はその隙間にできた僅かな空気の緩みに意識してしっかりと息を吸った。
櫂人は、さっき姫芽と過ごしていたときとは異なり、仕立ての良いジャケットを羽織っていた。それだけで途端に大人びて見えるから不思議だ。見慣れた端正な顔の二つの瞳は、姫芽が見たこともないくらいに厳しい色を宿している。
「彼女に兄様が話すようなことがあるとは思えません。……私に用事がおありなのでしたら、直接お伺いさせていただきますが」
「素直に来るならな」
道人がふんと鼻を鳴らして、見せつけるようにゆっくりと窓際に移動する。そのまま、窓の外の夜景に目を向けた。
櫂人はそれを目で追って、はあと小さく息を吐いた。
「──分かりました」
道人は目線を戻さないまま、続ける。
「物分かりがよくて素晴らしいことだ。……ああ、お嬢さん。今日は失礼した」
「い、いえ」
「私が話したことは、無かったことにして構わない。だが、忘れないでくれ」
道人はそこで言葉を切って、すうっと細めた目を姫芽に向けた。
「櫂人といるということは、そういう決意がいる」
姫芽ははっと息を呑んだ。
視線が絡む。何かを言おうとして開いた口が、はく、と変な音を立てた。
「兄様、一体何の話を──」
櫂人が姫芽を庇うようにして手を差し出す。一瞬その手を取ることに迷いが生じた姫芽は、道人が言っていることの意味に、気付いてしまった。
櫂人といる、ということは、これからも共に過ごすということ。
きっと櫂人が姫芽に抱いている特別な感情にも気付いているのだろう。その感情が前世の主従の誓いからきているとは露程も思わない道人には、櫂人が姫芽を殊の外大切に扱っているように見えるに違いない。
どこにでもいるただの『普通の家のお嬢さん』を、替えのきかない唯一の姫のように扱う櫂人を、道人は理解できない。
「ふん、青臭い。もう帰れ。改めて連絡を入れる。必ず来い」
「はい。失礼いたします」
櫂人がこれ以上話すことはないというように一礼し、姫芽の手を引く。姫芽は慌ててどうにか頭を下げて、その手に導かれるままに足を動かした。
部屋を出て、エレベータに乗って、一階のエントランスへ。櫂人は慣れた様子でさくさくと移動していく。大きなガラス戸を抜けるまで、櫂人は一言も口を開かなかった。
都会とはいえ、大通りから離れた場所にある小さな公園には誰もいなかった。
ビルの明かりと外灯で夜の暗闇がかなり和らげられたその空間は、妙に居心地が良い。ベンチに座る気にもなれず、二人並んで錆が目立つ古いジャングルジムに寄りかかる。
姫芽の手の中には、自動販売機で櫂人が買ってくれたレモンティーのペットボトルがある。それは、冷えてしまった手には熱いほどだ。
「──……ごめん、姫芽ちゃん。巻き込んだ」
櫂人が栓を開けていない缶コーヒーを抱き込むようにして言う。溜息すら吐き出さないその姿は、まるで内側で暴れている感情を表に出さないよう必死で押さえ込んでいるかのようだ。
「園村くんが謝ることじゃないと思う……」
姫芽も俯きがちに言う。
思い出すと、無意識に指が震えた。あんなにも簡単に家族を引き合いに出して脅しをかけてくるような大人に、姫芽は出会ったことがなかった。
そして櫂人の兄を名乗りながらも本人を無視して進められた会話が、悲しいくらいに社会の縮図を示しているようでもあった。
許可なく櫂人の事情を聞いてしまったことへの疚しさと、同情とも言い切れない原因不明の寂しさが、姫芽に外面を取り繕えなくさせる。
それでも、涙は流したくなかった。
「何か辛いこと言われた? 姫芽ちゃんにそんな顔、させたくない」
姫芽が顔を上げると、櫂人が姫芽を気遣うように覗き込んでいた。きっとまだ心の整理がついていないのだろう、その目尻が僅かに震えて見える。
明かりが足りないと、姫芽は思った。
もっと、悲しさとか寂しさとか、そういったものを全て吹き飛ばすくらいの明かりが欲しい。そうしたら、櫂人のこんな顔、見なくて済むのだろうから。
しかし夜はどこまでいっても夜で、瞬きをしても景色は変わらない。
「そんな顔って。……園村くんの方が、酷い顔だよ」
ぎりぎりで取り繕っていた表情が、くしゃりと崩れる。
綻びが生まれてしまえば、壊れていくのは簡単だ。
「本当は、分かってたんだ。……俺の我儘で、姫芽ちゃんが辛い思いをするかもしれないって、分かってた」
櫂人がしゃがみ込んで、缶コーヒーの縁を額に当てる。
「本当に姫芽ちゃんのことを思うなら、守りたいと願うなら。一番近付いたらいけなかったのは……俺なんだ」
姫芽が初めて櫂人と会話をしたとき、櫂人は『従者として、お側で御身を守らせていただきたい』と言っていた。
それが本来であれば最悪手であることなど、知っていた筈なのに。
「園村くん」
名前を呼ぶも、返事がない。
空を見上げたが、中途半端に明るいせいで、星は一つも見えなかった。
「姫芽ちゃん、本当にごめん……」
櫂人が言う。少しでも気を抜いたら震えてしまうかのように、妙に硬質な声だった。
姫芽は櫂人の隣にしゃがみ込む。そっとその顔を覗き込むが、すっかり隠されてしまっていた。
今、なんと声をかけたら良いか、分からなかった。
縋るように両手で握り締めたレモンティーは、いつの間にかぬるくなっている。
小さく丸まっている姿も、見慣れない大人びた格好も、夜の公園も。全てが姫芽の知る櫂人ではないような気がして、嫌だった。焦燥にも似た感情が、姫芽の鼓動を速くする。
「園村くん」
もう一度、名前を呼んだ。
櫂人は今度こそ少し顔を上げる。缶コーヒーと手の隙間から、色のない瞳が覗いた。
姫芽はいつの間にか、地面に膝を突いていた。
ペットボトルが地面に転がる。代わりに握り締めたのは、櫂人の両手だ。
作り物の温かさに縋っていても何も変わらない。
それならば、進むしかないのだ。
例えそれが、茨の道だと分かっていても。
「──園村くん」
櫂人が目を見開く。
姫芽はありったけの勇気を振り絞って、口を開いた。
「私、園村くんが好き」
その感情が誰のものであっても、もうどうでも良かった。
愛しくて、恋しくて、側にいたい。
この衝動が偽物の筈がない。
「セリーナ姫じゃない。前世の園村くんじゃない。──……私が、今、櫂人くんを好きなの」
口にすると、その感情は居場所を見つけたように、すとんと姫芽の心に馴染んだ。
姫芽は、ずっと言いたかったのだ。
櫂人の両手がぴくりと震える。視線が絡まったときには、その睫毛は僅かに濡れていた。僅かな期待と自制心がせめぎ合う黒い瞳が、姫芽にはひどく美しく見えた。
「駄目だよ。──俺の事情に、姫芽ちゃんをこれ以上巻き込みたくない」
櫂人が囁くように言う。それは、懇願のようなものだったのかもしれない。
姫芽は首を左右に振ってそれを受け流す。
両目がじんと小さく痛む。熱い、と思ったときには、もう涙が溢れていた。温度を持ったそれは、冬の夜風に冷やされてすぐに冷たくなってしまう。
涙を拭おうと伸ばされたらしい櫂人の手が、姫芽の頬に触れる直前でぴたりと止まった。
「櫂人くんが、好き。──……だから、巻き込んでいいよ」
ぽたた、と落ちた涙が地面に染みを作る。
気付けば櫂人の両腕が、しっかりと姫芽を捕らえていた。転がり落ちた缶コーヒーが、ペットボトルにぶつかる。
「ごめん。ごめん……」
櫂人の声が夜に融けていく。
姫芽もまた、心の中で何度も謝罪を繰り返していた。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す相手は、姫芽の父親と母親だ。大きな会社が動いているようだった。道人が仄めかしたのは、そういうことだ。
「──それでも、俺は、姫芽ちゃんの特別になりたい」
振り絞るような声が、姫芽の心を締めつけた。
もう逃げられない、という覚悟をもって、姫芽は櫂人を抱き締め返す。
この腕を離したら、きっと櫂人は独りになってしまうと思った。
「姫芽ちゃん。……愛してる」
言葉と共に、キスが落ちてくる。
額に、頬に、瞼に。
目を閉じると、唇に触れた。
「だから、姫芽ちゃんは、俺を許さないで」
「櫂人くん?」
姫芽が不穏な言葉に目を開けると、櫂人は困ったような顔で笑っていた。
許すも何も、姫芽は櫂人に何も怒っていない。首を傾げた姫芽を、櫂人が強く抱き締める。
「ありがとう。……側にいて」
櫂人の身体はすっかり冷えてしまっていた。姫芽はこのままではいけないと、隙間を無くすように身体を添わせる。
ひゅうと風が吹き抜ける。
誰に見られていても、もう、どうでも良いと思った。
どれくらいそうしていただろう。姫芽はスマホの震動音に気付いてはっと身体を離した。
受話ボタンに触れて電話に出る。電話は母親からで、そろそろ帰ってくるようにと帰宅を促すものだった。
ちらりと櫂人に目を向ける。
「──ねえ、お母さん」
櫂人は一人暮らしをしていると言っていた。
今日、この後も家に一人きりだ。そう思うと、何だか胸が痛かった。
「今日さ、園村くんに泊まってもらっても良い?」
電話の向こうで母親が驚いたような声を上げる。それから、少し待つようにと言われて声が途切れた。どうやら、既に帰ってきている姫芽の父親に相談してくれているようだ。
少しして、櫂人が良いと言えば構わない、という返事がきた。
姫芽はスマホのマイクを手で塞ぐ。
「ねえ。今夜は、うちに泊まらない?」
姫芽の言葉に、櫂人が驚く。
「いや、急に迷惑じゃ──」
「大丈夫だって。だから、お願い」
姫芽がお願いだと言うと、櫂人は迷った末に頷いた。いずれにせよ、遅くなってしまったので姫芽を家まで送ってくれるつもりだったようだ。
大通りでタクシーを拾って、姫芽の家まで。
辿り着いたそこで当然のように暖かい家に歓迎され、櫂人は眉を下げて笑っていた。
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