決心・未来

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決心・未来

   ◇ ◇ ◇  あの日、櫂人は姫芽の両親に謝罪をしていた。  姫芽はその謝罪の内容を、聞いていない。 「あけましておめでとう、姫芽ちゃん」 「おめでとう、櫂人くん」  まだ呼び慣れない名前が恥ずかしくて、姫芽は熱をもつ頬をマフラーの中にそっと隠す。櫂人が嬉しそうに笑って、手を差し出した。 「並ぼ。俺、屋台も楽しみにしてるから」 「そうだね」  長くなり始めた参拝の列に、神社の規模をひしひしと感じる。  学校から比較的近くの場所を選んだが、人気の場所だったらしい。よく見ると、同じ高校の生徒らしき人もたくさんいる。櫂人だと気付いて、遠目に窺っている人もいた。 「どうしたの?」 「いや。……目立っちゃうかなと思って」  姫芽は櫂人に向き合うように立って、周囲から顔が見えないようにする。櫂人がきょろきょろと周囲を見て、それから諦めたように首を振った。 「気にしなくて良いよ。……隠さなくて良いから」  櫂人が姫芽と繋いでいる手を持ち上げる。どうするのかと首を傾げた姫芽の目の前で、櫂人はその手の甲にキスをした。  姫芽は赤くなる顔を隠す余裕もないまま、勢いよく櫂人を見上げる。 「櫂人くん!?」 「ああ、勿論、姫芽ちゃんが嫌がることはしないから。安心してね」  櫂人はそう言って、楽しそうに笑う。姫芽もそれにつられてつい笑顔になった。  あの日以降、姫芽に道人からの接触はない。櫂人が改めて話をすると言っていたが、会ってどんな話をしたのか、聞く勇気は出ないままだ。 「大丈夫。もうワンピース汚すようなことはさせないよ」 「やっぱり知って気付いて──」  櫂人が姫芽の抗議に曖昧に笑う。  いつの間にか列が進んでいて、姫芽は慌てて鞄から財布を取り出した。賽銭をいくらにするか悩んで、小銭入れの中にあった一番高価な硬貨を選ぶ。  勿体ない、と思った。  大人にとってはたいした金額ではないのかもしれないが、バイトをしていない小遣い制の高校生である姫芽にとっては大金だ。  しかし姫芽がこれだけの覚悟をしているのだから、神様だって、願い事の一つや二つ、大盤振る舞いで聞いて欲しい。  鈴を鳴らして、礼を二回。手を二回打ち鳴らして、目を閉じる。  ──どうか、櫂人くんに辛いことが起こりませんように。  ──櫂人くんが笑っていられますように。  ──それから、  姫芽は隣で手を合わせている櫂人を盗み見る。綺麗に揃えられて合わさっている手の片方は、さっきまでずっと姫芽の手を握っていた。  ──これからも、ずっと櫂人くんと一緒にいられますように。  目を開けて、一礼する。  顔を上げると、姫芽より先に顔を上げていた櫂人が、当然のように姫芽の手を掴んで引いた。  人混みから連れ出されて、少し空気もすっきりしたような気がする。 「櫂人くん?」 「姫芽ちゃん、一生懸命お願いしてたけど、何願ってたの?」 「何で?」  姫芽は僅かに気まずい思いを隠して答える。  言ってもいいのだけれど、何だか恥ずかしかった。まさか、目一杯のお願い事の全てが櫂人のことだったなんて、本人に言いたくはない。  櫂人は姫芽の質問にきょとんとして、それからふっと柔らかく微笑んだ。 「姫芽ちゃんの願いを叶えるのは、俺の仕事だから」  姫芽はどきりと跳ねた心臓を誤魔化すように苦笑する。  櫂人は初めて会ったときから、ずっと同じようなことを言っているのだ。姫芽だって、今更その度に狼狽えるようなことはしない。 「そ、れは、また、従者だからとか……そういうのでしょ」 「違うよ、姫芽ちゃんの彼氏だから。彼女のお願いだから叶えてあげたいんだ」  姫芽は今度こそ、高鳴る鼓動を誤魔化すことはできなかった。  櫂人の口からはっきりと姫芽のことを彼女だと言われたのだ。想いを伝え合ったのは年末のことで、あの日姫芽の家に泊まった櫂人はそのことには触れずに帰っていった。  だから、こうして改めて言われると、本当に彼女になったのだという満足感にも似た感情が胸を占めていく。 「それで、何をして欲しいの?」  櫂人が優しく、しかし逃がさないというように聞くから、姫芽は誤魔化すのを止めた。 「櫂人くんが……笑っててくれますように、って。あと」  本人に向かって言うのはやはり恥ずかしい。  気付けば社の裏手にある小さな公園の隅にいた。どうやってここまで来たのか、姫芽は覚えていない。  いつの間にか周りに人は誰もいなかった。屋台が出ているのとは反対方向だからだろうか。  しかし誰もいないなら、素直になることへの抵抗も少し減る。姫芽がどんなに顔を赤くしていても、他人に見られることはないのだ。  思い切って勇気を出して、姫芽は櫂人を見上げる。 「ずっと一緒にいれますようにって……あれ。櫂人くん?」  櫂人は姫芽と繋いでいない方の手で、顔を隠していた。  指の隙間から、赤くなった頬と耳が覗いている。もしかして、照れているのだろうか。 「──今のは、姫芽ちゃんが悪い」 「え?」  首を傾げた姫芽は、すぐに櫂人の腕の中に閉じ込められる。質の良さそうなウールのコートに、姫芽の顔がぽふりと沈んだ。 「反則だよ、可愛すぎ」  櫂人が姫芽の頬に手を添える。  そっと導かれるままに顔を上げると、櫂人の顔がすぐ近くにあった。こんなときどうしたら良いのか、もう姫芽は知っていた。  そっと目を伏せると、櫂人の目も伏せられる。  閉じて真っ暗になった視界と、唇に感じる柔らかな熱。  穏やかな口付けに、姫芽の心の中にもほわりと明かりが灯る。  拘束が緩んで、自然と手を繋いで歩き出した。 「──屋台、行こうか。何食べる?」 「えっとね。私、綿飴好きなんだけど──」  自然と話し出した櫂人に、姫芽も調子を合わせる。  煩すぎる心臓の音が、耳元で鳴っていた。 「姫芽ちゃん、久し振り!」 「美紗ちゃん。あけましておめでとう!」  新学期が始まり、またいつも通りの毎日が戻ってくる。  高校二年生の姫芽達にとっては、貴重な三か月だ。進級すれば受験生、受験勉強をしなければならない。遊んでいられるのももうしばらくの間だろう。  賑やかないつものクラスが今日はなんとなく落ち着かないのは、新学期初日だからというだけではないだろう。それは、皆の手にある一枚の紙が原因だ。 「──それにしても、これの提出期限が今日だとか、ちょっとした嫌がらせでしょ」 「なんか、一気に現実に引っ張られるよね……」  美紗がこれと言ったのは進路調査票だ。  B6サイズの紙に、いかにも表計算ソフトで作られただろう五つの空欄。そこに、希望進路、と書かれて番号が振られている。  空欄だったそれを、姫芽は冬休みの間に両親と話して埋めてきていた。実家から通える距離の大学の文系学部が、偏差値順に並んでいる。  桐蓮高校はそれなりに偏差値が高い学校だ。姫芽の成績でも頑張れば有名私大までは狙えるだろうと思って書いたが、見直すと少し後悔してきた。本当に大丈夫だろうか。  本好きな母親の影響で幼い頃から本をよく読んでいた姫芽は、文系の科目の方が得意だ。だから、本好きの延長でできれば日本文学科に進学したいと思っていた。その候補に英米文学科が入ってきたのは、櫂人の影響だ。  冬休みの始めに迷わずに書いた進路調査票は、一昨日消して書き直した。シャープペンで書いていて良かったと思った。 「あ、でも、第一志望私と同じ大学じゃん」  言われてみると、美紗は同じ大学の教育学部を志望していた。 「え? あ、本当だ! ……私が受かれば、だけど」 「言わないで……私にもダメージが」  苦笑した美紗が、姫芽の進路調査票を見て首を傾げる。 「あれ、姫芽ちゃんって英文志望だっけ」 「うーん。いろんな人と話せた方が良いかと思って──」  姫芽が話し出したところで、始業のチャイムが鳴る。号令の後すぐに、担任の指示で進路調査票が回収されていった。  姫芽は櫂人と初詣に行った後でも、道人に言われたことを忘れられずにいた。  ──『櫂人といるということは、そういう決意がいる』  そして姫芽は、道人との話に出てきた会社をスマホで調べたのだ。  ふわっとしたイメージだった大企業というものを、初めて実感した。  相川ホールディングス──櫂人の実の父親の会社と、そのグループ企業。そして、園村カンパニー──櫂人の母親の実家の会社と、そのグループ企業。相川の方が企業規模が大きいものの、そのどちらも世界中に事業所と子会社、工場を持っている。  まだ十七歳である櫂人が、その企業を相手に行動しているのだ。姫芽はその事実に気付いて、どうしようもないくらい動揺した。  櫂人とずっと一緒にいたい、という恋人ならば当然に抱く願いを叶えるために、姫芽は今のままではいられないと思った。なんとなく進学して、なんとなく就職して、いつか幸せな結婚をする、なんてふんわりとした『普通』の通りに生きていたら、姫芽は櫂人の隣に立てない。  気付いた姫芽は、自分の適性と、将来の姿を真剣に考えた。  櫂人の隣に立つのに不足でない程度の大学と、自分が興味を持てる学部、そして将来活かせる学科。書き直した進路調査票を母親に見せると、母親は苦笑して『頑張りなさい』と言った。  きっと何かを察してくれたのだろう。 「来週から、放課後に個人面談をします。予定表は後で配るから、明後日までに確認するように。進路がはっきりしてない人は、話聞くから考えておきなさい。それじゃ、体育館に移動してー」  先生の言葉と共に、皆が立ち上がって移動を始める。姫芽もその列に混ざって廊下に出た。 「おはよ、姫芽ちゃん」 「櫂人くん……おはよう」  同じように教室から出てきた櫂人が、当然のように姫芽に声をかける。 「市村さんもおはよう」 「おはよう、園村くん」  姫芽の隣にいた美紗にも声をかけて、櫂人はすぐ男子グループに合流していった。  隣を歩く美紗からの視線を感じた姫芽は、ちらりと美紗に目を向ける。その目は、じとっと姫芽を見ていた。 「──……え、っと。美紗ちゃん?」 「ねえ、姫芽ちゃんって、園村くんのこと下の名前で呼んでたっけ」 「あ」  姫芽は気付いて、はっと顔を手で覆った。頬が赤くなっていることを自覚して、恥ずかしくなる。  冬休みの間、何度も電話をしたから、すっかり馴染んでしまっていた。  美紗が姫芽の反応を見て、さっきまでとは打って変わってきらきらとした目を向けてくる。 「冬休みに色々あって、お付き合いすることになったの……」 「っきゃー!!」  美紗が口を覆って叫び声を上げる。騒がしい廊下でもその声は一際目立って、何人かが振り向いた。 「美紗ちゃんっ!」  慌てて姫芽が美紗を窘めると、美紗はぺろりと舌を出してごめんと言った。 「うわ、おめでとう! ねえ、後で話聞かせて。っていうか、今日一緒に帰ろ。寄り道しようよ」 「……うん、ありがとう」  姫芽は照れながらも、おめでとうと言ってもらえたことに安堵した。  冬休み、誰にも言われなかった言葉だ。話していないから当然なのだが、大人の世界の現実ばかりが押し寄せてくるようで、心苦しかったのだ。 「あーあ。早く始業式終わらないかなー」  美紗がそう言って、体育館への渡り廊下を歩く。  姫芽も頷いて、小さく笑った。 「うーん。和泉さんは、進学希望で良いのね?」  机を合わせた簡易の面談会場で、姫芽は担任の先生と向かい合って座っている。  自分の将来のことを考えると、どきどきする。ましてそれを大人に話すということは、友達に話すのとは違う緊張が伴う。 「はい」 「それで、志望大学が──」  先生は姫芽が書いた進路調査票を見て、一瞬、言葉を切った。  姫芽はその一瞬に深い意味を感じて、机の下で拳を握る。今の自分には背伸びをした進路だと、理解していた。 「……難しいでしょうか?」  問いかけると、先生は首を左右に振った。 「──今はまだ二年の冬だから、難しいとは思わないわ。でも、頑張らないといけないのは分かっているわよね」 「はい」 「それが分かっているのなら、大丈夫。今からでもできる努力をしていきましょう」  それから先生は、英米文学科を志望した理由を聞いてきた。美紗に話したのと同じ理由を説明した姫芽は、美紗には言わなかった言葉を足す。 「……世界で通用する人に、なりたいんです」  櫂人と並ぶために、姫芽にとって最低限必要なことだった。  姫芽が真剣な顔をしていたためか、それとも現時点ではそこまで深い指導をする必要がないためか、先生はそれ以上追求しなかった。  個人面談を終えた姫芽は、荷物を持って教室を出た。廊下には椅子が並んでいて、三人ほどが待てるようになっている。その中に、櫂人がいた。 「姫芽ちゃん」  立ち上がった櫂人が、姫芽に声をかけた。  姫芽は予想外に顔を見られて嬉しくて、思わず笑顔になる。面談中の生徒の邪魔にならないように、小さい声で返事をした。 「櫂人くん。これから面談?」 「うん。姫芽ちゃんはもう帰るの?」 「特に予定はないから、そのつもり……あ。そうだ」  姫芽は櫂人が座っていた椅子を見た。三つ並んだ椅子の真ん中に座っていたようで、そこだけが空いている。つまり、櫂人は次の次に面談をするのだろう。  多分、一時間はかからない筈だ。 「櫂人くんさえ良ければ、一緒に帰らない?」  姫芽がそう提案すると、櫂人は驚いたように目を僅かに見開いて、それから嬉しそうに笑った。 「良いけど、待たせちゃうと思うよ」 「大丈夫。私、図書室にいるから」 「じゃあ、終わったら迎えに行く。折角だから少し話して帰ろう」 「うん!」  姫芽は櫂人に手を振って、行き先を昇降口から図書室に変えた。  いつも読まない本を手に取ってみようと思った。それが、自分を違うところへ連れていってくれるかもしれないから。  この先の人生の描き直しを決めたばかりの姫芽には、全てのことが不安で、同時に新しい刺激だった。 「あ、姫芽ちゃん」  姫芽が小声で名前を呼ばれて顔を上げると、歩がひらひらと手を振っていた。 「飯島くん。どうしたの?」 「どうしたって、本を読みに来たんだよ。ここ、図書室だしねー」  言葉の通りに手に本を持っている歩は、姫芽の向かい側の席に腰を下ろした。そして本を読み始める素振りをしたと思ったら、次の瞬間、ぐっと身体を前のめりにして距離を詰めてくる。  話したいことがあるのだと察した姫芽は、読みかけの本を机に置いた。 「櫂人と付き合うことになったって聞いたよ。おめでとう」 「あ、うん……」  姫芽が言い淀むと、歩は首を傾げた。何故躊躇するのか分からないという顔だ。 「どうしたの?」 「なんか、直接言われると恥ずかしくて」  素直に言って、熱くなっている頬に気付いた。  歩は姫芽の反応を見て心から面白いというふうに笑って、つい大きくなってしまった声を抑えるように手で口を押さえた。 「そんなに笑わなくても」  姫芽が頬を膨らませて抗議の声を上げると、歩は両手を合わせて謝罪の形を作る。しかしその表情から、全く申し訳ないなどと思っていないことが分かる。 「ごめんごめん。道人様に攫われたって聞いたから、もっと落ち込んでるかと思ってたよ。元気そうで良かった」 「飯島くんは、知って──」  歩は姫芽の言葉を遮って、本を机に当ててとんと音を立てた。 「うん。中学の頃の櫂人は今より目立ってたし、俺、こう見えてあいつの親友だからさ!」 「そっか、そうだよね」  姫芽は頷いて読みかけの本に栞紐を挟んだ。これ以上読み続けられる気がしなかった。それは歩が話しかけてきたからでもあり、同時に櫂人のことを考えてしまったからでもある。  可能性に溢れた未来にはたくさんの希望があり、同時に多すぎる不安が常にある。一つひとつの選択が間違っているのではないかという不安は、姫芽の心の重石になっていた。  大丈夫だという確証は無く、これで足りているのかも分からない。 「櫂人くんの隣にいるって、決めたの。だから──飯島くんには、これからも私達の味方でいてほしい」  姫芽と櫂人には、味方が少ない。  相手は世界規模の大企業だ。何も持たない姫芽が戦える相手ではないだろう。  それなら、仲間を増やすしかない。小さな一歩が、大きな変化をもたらすことだってあると信じて。 「もっちろん。俺は櫂人も姫芽ちゃんも、大好きだからね」  からりと笑ってそう言った歩に、姫芽は多少なり救われた気持ちになった。  姫芽と歩が話をしていると、面談を終えた櫂人が図書室にやってきた。櫂人は入り口から室内を見渡して姫芽を見つけると、早足で近付いてくる。  途中で向かいに座る歩を見つけて、珍しいものを見たというように眉を上げた。 「姫芽ちゃん、お待たせ──って、歩?」 「お、櫂人。お疲れ」  歩がひょいと軽く手を挙げてひらひらと振って応える。それからすぐに荷物を纏めて立ち上がった。  放っておいたらそのまま帰ってしまいそうな歩を、櫂人が引き止める。 「歩が図書室にいるって珍しいな」 「あーうん。ちょっと姫芽ちゃんと話したいことがあったから」 「話したいことって──」  櫂人の言葉を遮って、歩が櫂人の肩に手を置く。  突然の行動に、櫂人が首を傾げた。 「姫芽ちゃん、大事にしろよ」  真面目な顔で言った歩に、櫂人が頷く。 「……言われなくても」 「はは、だよな! それじゃ、俺は帰るわ」  櫂人の返事を聞いた歩は、嬉しそうに笑って姫芽と櫂人に手を振った。  姫芽はそんな歩に慌てて声をかける。 「え、一緒に帰らないの?」  てっきり、櫂人を待っているものだと勝手に思っていた。  しかし歩は首を振りそれを否定する。図書室にかかっている時計で時間を確認して、目尻を緩めた。その表情に、姫芽は驚きが隠せない。  いつも笑っている歩でも珍しい、柔らかく優しい表情だったからだ。 「今日、美紗ちゃんと約束してるんだよねー。部活終わるの待ってたの!」  姫芽も時計を見たが、確かにそろそろ部活動が終わる時間だった。  さっさと図書室を出て行く歩の背中を見送って、櫂人と姫芽は同時に溜息を吐いた。 「いつの間に……」  本当に、いつの間にそんなに仲良くなったのだろう。美紗が姫芽に何も言ってきていないということは、まだ付き合ってはいないのだろうけれど、あの様子では今日明日にでもくっついてしまいそうだ。  というより、もしかしたら今日これから告白するのかもしれない。  姫芽はその想像にうっかり頬を赤く染め、それを隠すように慌てて荷物を纏めた。  櫂人が姫芽の様子を見て、小さく笑う。 「改めて……お待たせ。歩に変なこと言われなかった?」 「変なことって。大丈夫だよ、あんまり待ってなかったから」  櫂人が姫芽の鞄を持って、反対の側の手を差し出してきた。ありがとうと小さな声で礼を言って、手を重ねる。きゅっと握られた手が、自分の居場所はここだと主張しているような気がした。  校門を出て、駅への道を歩く。 「少し寄り道していこう」 「うん」  提案に姫芽が頷くと、櫂人はいつもの道とは違う通りに足を向けた。  まだ学校周辺の道は通学路以外ほとんど知らない姫芽は、初めての道についきょろきょろと周囲を見渡してしまう。  櫂人がそんな姫芽を見て、思わずといったように笑った。 「──ここ。あんまり目立たないから、よく来るんだ」  そこは、高校生には少し背伸びした雰囲気の喫茶店だった。  レンガの外壁。窓にはレースのカーテンがかかっていて、中の様子はよく見えない。それが学生が入りづらい理由だろう。  その類に漏れない姫芽は、緊張しながら入り口の扉をくぐった。  からん、と軽やかに鈴が鳴る。  暖かい店内に、思わずほうと肩の力を抜いた。  店内は落ち着いた雰囲気だった。姫芽がよく行くような系列店ではないそこは、オフホワイトの壁紙に、焦げ茶の床とテーブル、そして柔らかそうな布張りの椅子が等間隔に置かれている。 「いらっしゃいませ──って、櫂人くんか」  シャツにスラックス、エプロンを合わせたシンプルな服装をした初老の男性が、人好きのする笑顔で挨拶をする。  櫂人はそれに会釈で返した。 「こんにちは、店長さん。奥の席、空いてる?」 「空いてるよ。お連れさんもいらっしゃい。ゆっくりしていってね」 「あ、ありがとうございます」  姫芽もぺこりと頭を下げて、櫂人の後について店の奥にいく。  カウンターの横を抜けると、入り口からは見えないテーブル席が二組あった。隣の席との間には観葉植物が置かれ、わざと覗かなければ見えないようになっている。今は姫芽達以外に客がいないから、いずれにせよ誰にも見られることはないだろう。  櫂人がコーヒーを二つ注文する。姫芽の分はミルクと砂糖を頼んでいるのは、前に姫芽の家に来たときに姫芽の飲み方を見ていたからだろう。 「櫂人くんは、ここ、よく来るの?」 「うん。バイトの前に資料纏めたりするのに使ってる」  櫂人が当然のようにそう言った。  カウンターから、コーヒー豆を挽く音が聞こえてくる。落ち着いたピアノ曲が流れている店内に、その音は不思議とよく馴染んでいた。 「……その、櫂人くんのバイト、って」  姫芽は、これまで聞けずにいたことをやっと聞いた。櫂人が話したくなさそうだったので、避けていたのだ。  しかし、道人の話を考えると、自ずと答えが見えてくる。 「父親の会社の仕事、手伝ってるんだ。あと、一応息子だから、社交の場に呼ばれることもあるかな」 「そうだよね。なんか、納得した」  時折見せる、大人びた仕草。高校生らしくない気遣いと敬語。そして、妙に着慣れた様子だったビジネスジャケット。  それらを身につけた場所が『会社』であり『社交』であるのなら、納得だ。  余計に、櫂人との間の違いが大きくなった気はするけれど。 「だから姫芽ちゃんに貰ったボールペン、いつも使ってる」  櫂人はそう言って、嬉しそうに口角を上げた。  コーヒーが運ばれてくる。湯気と共に、ふわりと甘さのある香ばしい香りが鼻についた。 「ありがとう。そう言ってもらえて良かった」  姫芽はコーヒーに砂糖とミルクを入れて一口飲んだ。照れ臭さを隠すためだったが、予想よりずっと美味しかったそれをしっかりと味わってしまう。  櫂人がそんな姫芽を見て頬を緩める。それから、僅かに視線を下に落とした。 「──姫芽ちゃんも、今日、個人面談だったよね」 「うん。私は進学だから、頑張らなきゃ」  頷いてそう答えた姫芽は、今日の面談を思い出していた。  先生は無理とは言わなかったが、感情までは隠せていなかった。つまり、相当努力しなければ難しいのだ。  そんなこと、他の誰より姫芽が一番分かっている。  先生が厳しい言葉を言わなかったのも、滑り止めに選んだ大学が適切だったからに過ぎないだろう。  しかしそれを知らない櫂人は、自然と次の質問をする。 「この辺りの大学?」 「うん。その、……慶院大学の、英米文学科が第一志望なんだけど」  どうしても自信のない言い方になってしまう。 「あれ、姫芽ちゃんって」  しかし櫂人はそこには特に触れず、専攻に疑問を持ったようだ。これまで、姫芽が英語を特に好きとも嫌いとも言ったことがなかったからだろう。  姫芽は思い切って、櫂人の瞳を正面から覗き込む。櫂人がコーヒーカップをソーサーに置いた。 「うん。あのね、私……これまで、特にやりたいことがあったわけじゃなかったの。なんとなく大学行こうって思って、なんとなく本が好きだから、日文かなって感じで。あんまり無理したくないから、丁度良いくらいの偏差値のところって」  櫂人が姫芽の話を真摯に聞いてくれている。それが、姫芽の恐怖心を和らげた。  自分の考えていることを、未来のことを、誰かに話すのは勇気がいることだ。それが大切な人なら、尚更である。 「でも、それじゃ駄目だなって思ったんだ」  このままの姫芽ではいられない。  姫芽の原動力は、その追い立てられるような焦燥にも似た感覚だった。  櫂人が息を呑んだのが分かる。 「どうして?」 「それは」  純粋な問いに言葉が詰まった。  しかし櫂人はまるで縋るような目で姫芽の瞳を覗き返してくる。 「……お願い、聞かせてくれる?」  逃げることも誤魔化すことも、できなかった。 「──櫂人くんと、一緒にいたいから。そのためには、認められるようにならないといけないでしょ。私にできることなんて……そんなにないけど、それでも、一人で世界で立っていられるような人にならないと、櫂人くんの隣にいられないと思って」 「姫芽ちゃん」 「勿論、無茶なのは分かってるんだ。まだ何になれるのかも分かってないし、なりたい職業とかも、分かんないまま。だけど」  今のままの姫芽が、未来の櫂人の隣に胸を張って立てるかと言われたら、答えは否だ。  だから、今の姫芽にできることは、ただ一つだけ。 「覚悟だけなら、したよ」  それだけは、自信を持って言える。  櫂人は花も綻ぶような笑顔を浮かべて、次の瞬間にはすうっと姫芽から目を逸らした。その仕草が、まるで何かを堪えているように見えて、姫芽の胸がきゅうっと締め付けられる。 「俺の事情に巻き込んで、ごめん」  櫂人の後悔は、それだった。  本来ならばまだ関わらなくて良い世界と関わり、高校生には重い覚悟をさせている。その自覚があるのだろう。  しかし姫芽は、もう迷うことをやめていた。どれだけ迷ったところで、自分にできることも、世界も、大して変わらないのだ。 「もう、思いっきり巻き込んで良いよ。重いかも、しれないけど」  姫芽は苦笑して手をひらひらと振った。 「いや、重いのはきっと、俺の方だ」 「櫂人くん?」  姫芽は飲もうとしたコーヒーを、口につける前に戻した。両手をテーブルの影で組み合わせる。  櫂人は真剣な瞳を姫芽に向けている。  その黒の深さに、直感的に聞きたくないと思ってしまった。  しかし、今更逃げることはできない。 「──……俺、卒業したら、アメリカに行く」  その声は、僅かに震えていた。 「え……」 「条件を出されたんだ、兄様に。それで、俺はどうしてもその条件を呑まないといけない」  姫芽ははっと目を見張った。姫芽が道人に呼び出されたときの、脅しの言葉。あれは姫芽に向けられてのものでいて、同時に櫂人にとっても強い拘束力がある言葉だったのではないか。 「私のせいで、」 「違う。俺のためだよ。このまま日本にいても、俺にできることは限られてる。なら、外側から攻めていかないと……何も変えられないから」  櫂人はそう言って、顎を引いた。そんな顔をすると、本当に大人になってしまったかのように見える。  大人になってしまったように見えて、悲しくなる。 「必ず姫芽ちゃんの側に帰ってくる。だから、自分勝手なのは分かってるけど……待っていてほしい」  櫂人が頭を下げる。  姫芽にはそんなこと、しなくても良いのに。  それでもそうしてしまう櫂人が、姫芽は好きだった。  姫芽は、姫芽にできることをするだけだ。 「──待ってる」  振り絞った言葉は、どこか虚しい。泣かないようにと取り繕った笑みは、歪んでいるだろう。  それでも必死で笑うと、櫂人の手がぽんと姫芽の頭に乗った。  囁くように告げられたありがとうの言葉を、姫芽はきっと、ずっと忘れない。
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