卒業・約束

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卒業・約束

   ◇ ◇ ◇  卒業式の間中、姫芽はずっと涙を堪えていた。  転校したばかりの頃は、この学校がこんなに大切な場所になるとは思っていなかった。卒業まで一年半しかない、もう高校生活の半分が終わっている。しかも三年の一年間は受験生だ。  そう思っていたのに、大切な人と、かけがえのない友達と出会った。  なんとなく普通に、としか考えていなかった未来は、大きく変わった。 「──卒業生答辞、園村櫂人」 「はい」  まだ空気が冷たい体育館に、良く通る声が響く。  一人分の足音が、静かな体育館でいやに目立っていた。  二年の学年末試験で、櫂人は歩を抜き、学年一位をとった。しかも、全教科満点かそれに近い点数でだ。学外での試験も当然のようにとんでもない好成績を収めていた。  そして、『バイト』の日数が増えた。急に呼び出されることもあり、出席日数に問題がない範囲で早退していくこともあった。  ぴたりと止まった櫂人の足音が、まるでひとつの区切りを強調しているように響く。 「暖かな風に春の訪れを感じるこの日、私達卒業生のためにこのような素晴らしい式を挙行していただき──」  櫂人は出会った頃よりも背が伸びたように見える。すっきりと制服を着て、堂々と話す姿は、誰が見ても理想の卒業生だ。  在校生ばかりでなく、保護者達までうっとりと聞き入っている。 「──今日、私達はこの桐蓮高校を卒業します。これから先、大人になっていく中で、何度もこの場所で過ごした時間を思い出すでしょう。しかし振り返るばかりではありません。大切な人と過ごした大切な時間は、未来を描く道標となると信じています」  櫂人の言葉が、姫芽に届く。  姫芽は涙を堪えた。俯きたくはなかった。  これが最後になるのだ。瞬きの時間すら惜しい。 「──卒業生代表、園村櫂人」  櫂人の礼に合わせ、三年生皆で頭を下げる。大きな拍手と、間を埋めるように聞こえてくるすすり泣く声が、櫂人の存在から皆の注意をそらす。  顔を上げた姫芽と、席に戻る櫂人の視線が絡んだ。瞬間、櫂人の顔が一瞬くしゃりと歪んだことに気付いた者は、きっと姫芽しかいないだろう。  姫芽は美紗と抱き合って卒業を喜び、教室で、校庭で、あちこちで写真を撮った。  二人ともこれからも同じ大学に通うとはいえ、こうして制服で高校に集まることはもうないだろう。そう思うと、今が大切な時間なのだと再認識する。  少し離れたところで、同じクラスの男子が集まって騒いでいた。あちらも同じように別れを惜しんでいるのだ。  すると、そこに在校生らしい女子生徒が近付いていった。校庭で卒業生を見送っているうちの一人だろう。女子はいかにも勇気を振り絞ってというように櫂人に声をかけた。 「告白じゃない?」 「……だね」  美紗の言葉に、姫芽は頷く。  この校庭でも、明らかに櫂人を気にしている女子が何人もいる。この様子では、櫂人が今日何人に告白されるか分からない。そして櫂人は優しいから、丁寧に対応するのだろう。  姫芽は、心の隅の方に感じた針で刺したような痛みに気付かないふりをする。今日は卒業式で、三年生は今日会えるのが最後になる人も多い。  姫芽はあえて櫂人の方を見ないようにして、美紗に違う話題をふった。見ていないから大丈夫だと、暗に櫂人に伝えるつもりだった。 「──ちょっと、姫芽ちゃん。あれ」 「え、櫂人くん?」  美紗の視線を追いかけると、櫂人が姫芽に向かって歩いてきていた。さっきまで話していた男子達と、話しかけてきた女の子を、背後に置いてきている。 「姫芽ちゃん」  名前をはっきりと呼ばれてしまうと、向き合わないわけにいかない。姫芽は俯きがちに櫂人の方に身体を向けた。目が合ったら、自分でも恥ずかしい醜い感情が見透かされそうで怖かった。 「手、出してくれる?」  素直に姫芽が右手を出すと、櫂人はその場でぶちっと制服の第二ボタンを千切った。  驚いている姫芽に構わず、櫂人が姫芽の右手を両手で包むようにしてそのボタンを渡してくる。 「……これ」 「姫芽ちゃんが持ってて。教室で待ってて。今日は一緒に帰ろう」  はっと顔を上げると、いつもの姫芽に向けられているのと同じ優しい瞳がそこにあった。涙を呑み込んで、頷く。  櫂人は姫芽の返事に安心したように頷いて、すぐに元いた場所に戻っていった。それから、待たせていた女子生徒と共に体育倉庫裏へと歩いていく。  姫芽と櫂人が付き合っていることは、もうすっかり知れ渡っている。姫芽に嫌がらせをしてきた人もいたが、櫂人があえて人前で姫芽を好きだと口にすることで、それもあっという間に落ち着いた。  それでも今日告白するのは、きっとけじめなのだろう。 「はー、モテる男は違うわ」  美紗が言ったその言葉に、姫芽もつい同意した。 「姫芽ちゃん、待たせてごめん」 「さっきまで美紗ちゃんもいたから大丈夫だよ」  姫芽は自分が使っていた机に浅く腰掛けて、ゆらゆらと足を動かした。  いつの間にか太陽が傾き始めている。  3-Bの教室には、もう姫芽しかいなかった。さっきまで美紗がいたのだが、歩が迎えにきて、先に帰っていった。  今日は夕方からクラス会がある。卒業祝いで、カラオケボックスを予約してあるのだ。美紗と姫芽は参加する予定なので、挨拶も『後でね』だった。 「なら良かった」  近付いてくる櫂人の制服は、ボタンが全て無くなっていた。姫芽はそれを指さして苦笑する。 「お疲れ様。モテる男は違うね」 「何それ」 「美紗ちゃんが言ってたの」  姫芽が言うと、櫂人が吹き出して笑った。姫芽もそれにつられて笑い声を上げる。  静かな教室が、心地良かった。  櫂人が姫芽の正面に立つ。 「──姫芽ちゃん」 「うん」  姫芽はゆらゆらと揺らしていた足を止めて、櫂人を見上げた。  櫂人の瞳の中には、不安げな表情の姫芽が映っている。  今日、櫂人はクラス会に参加しない。  今日の夜には、日本を出る予定になっているのだ。  本当は、卒業式を待たずにアメリカに来るようにと言われていたらしい。それを今日まで延ばしたのは、櫂人の我儘だと言っていた。姫芽達と一緒に卒業するためだ。 「待っててくれる?」 「……待ってて良いなら、いくらでも待ってるよ」  姫芽は手の中の第二ボタンをそっと握り締めた。  その中身を知っている櫂人が、姫芽の右手の甲をそっと撫でる。 「待ってて。絶対、帰ってくるから。俺が欲しいのは姫芽ちゃんで、帰ってくる場所は姫芽ちゃんのところだから」  姫芽は熱くなってきた頬を感じながらしっかりと頷いて、右手をそっと胸元に当てる。ボタンひとつに掛けるような願いではないと分かっていても、願わずにはいられなかった。  姫芽はこれまでに何度も、いろんなものに櫂人と一緒にいたいと願掛けをしている。この第二ボタンも、そのひとつだ。 「姫芽ちゃん、手出して」  櫂人に言われて、姫芽はボタンを乗せた右手を差し出した。しかし櫂人は首を振って、それから姫芽の左手を取る。 「そっちじゃなくて、こっち」  櫂人の右手が、姫芽の左手をそっと捧げ持つ。そこに、初めて会ったときのように口付けを落とされた。触れた冷たさは、まるで櫂人の緊張をそのまま姫芽に伝えてくるかのようだ。 それから、櫂人が姫芽の指をそっと一本を選んだ。  姫芽ははっとして、櫂人が左手の五本の中から選んだ指を見る。  姫芽から見て右から四番目。その指に、銀色に輝く小さな指輪がそっと嵌められていく。小さな透明な石が、きらりと光った。  今の姫芽には不釣り合いなほど繊細な美しさを持った指輪だ。 「これ……」 「愛してる。──今は、こんなものでしか繋げないけど」  櫂人がそう言って、改めてそっと微笑む。  その目が確かに姫芽を求めていることに気付く。身体中の血液が一気に沸騰したような気がした。 「今すぐはできないけど、それでも……俺と、結婚して欲しい」  堪えていた涙を、我慢する余裕もなかった。今日一日堪えていたものが次々に流れていく。櫂人の指先がそれをそっと掬い上げた。 「姫芽ちゃん、返事は?」 「はい。……私を、櫂人くんのお嫁さんにしてください……!」  また涙を掬った櫂人が、くしゃりと顔を歪ませた。それは卒業式のときに一瞬だけ見た表情と同じものだった。  いとしくて、かなしくて。  どうしようもなく、恋をしている一人の男の顔だ。 「はは、良かった。断られたらどうしようかと思ってた」  姫芽は手で涙を思いっきり拭って、勢い良く左右に首を振る。 「そんなこと……! だって、こんなに好きなのに」 「だけど俺、姫芽ちゃんに楽しいこと何もしてあげられてない」 「そんなことない。私は、櫂人くんに、たくさん……たくさん」  この校舎で過ごした一年半、櫂人と過ごした時間はそれだけだ。  三年になってからは姫芽は受験勉強で、櫂人も仕事とアメリカ行きの支度で、互いに忙しくなってしまった。デートをした回数も、数えるほどしかない。すれ違って喧嘩をしたこともあった。  それでも、幸せだったと、心から言える。 「ずっと一緒にいたい……!!」  次の瞬間、姫芽は櫂人の腕の中にいた。  ボタンのない櫂人の制服は上着の前が開いていて、薄いシャツ越しの体温が直接伝わってくる。櫂人の速い鼓動がいつもよりもよく聞こえた。それが姫芽のものと混ざり合って、どちらの鼓動か分からなくなっていく。  ずっとこうしていたい。  姫芽の願いを知ってか知らでか、櫂人が抱き締める腕の力を強めた。痛いくらいに閉じ込められた姫芽は、必死に両手を櫂人の背中に回して、想いを返す。 「──……ありがとう。ずっと一緒にいられるように、頑張る」  櫂人はそう言って、姫芽を抱き締める腕を緩めた。  その日櫂人は、姫芽の家の前まで送ってくれた。その間、二人はずっと取り留めのない、どうでもいい話しかしなかった。まるで明日も今日と同じ日が続いているかのような穏やかさで、時間が過ぎていく。  姫芽の家の前で、櫂人が姫芽に触れるだけのキスをした。 「約束するから」  遠くなっていく背中が見えなくなるまで、姫芽はその場で手を振り続けた。  曲がり角の先で櫂人が泣いていたことを、姫芽は知らない。    ◇ ◇ ◇  櫂人は目を覚まして、しばらく枕から頭を上げられなかった。  夢の中で見たのは、自分の前世だった。櫂人が渡米してから前世の夢を見る回数が減っていたため、油断した。  頬が涙で濡れている。側にいない温もりを探すのは何度目だろう。  もう、数えることも止めてしまった。 「どうせなら、姫芽ちゃんの夢が見たかった……」  櫂人はそう呟いて、ようやく涙を拭って起き上がった。  前世を思い出した最初の頃こそカインの意思に引っ張られていたが、ひと月もすれば元からあった櫂人自身の人格と上手く馴染んでいた。姫芽がセリーナに見えてしまうという状態も、それと同時に落ち着いていた。  それでも姫芽の側にいたのは、櫂人自身の意思だった。守りたいなどと言って、本当はカインではなく櫂人が、セリーナではない姫芽の側にいたかったのだ。  寝起きに探した温もりは、セリーナのものだった。あの無意識の行動は、前世の夢を見た影響だろう。それが変な罪悪感となって、櫂人の心を重くする。  姫芽とは、卒業式の日に会ったのが最後だった。櫂人は父親の指示で卒業後すぐにアメリカに渡り、生活と言語に慣れるために仕事を手伝うことになっていたのだ。それに、やらなければならないことをするには、時間がいくらあっても足りない。  姫芽とは今も、最低週に一回はWeb通話をしている。  日本に帰れないまま、もうすぐ4年が経つ。姫芽の顔は画面越しに何度も見ているが、やはり直接会いたい。 「──支度するか」  櫂人は簡単に着替えを済ませて、寝室を出た。  今日は夕方から道人と会う予定になっている。それで最後だ。それまでにもう一度資料をさらっておきたかった。  手早く朝食を済ませた櫂人は、簡単に身支度を整える。窓際の机に移動してパソコンを立ち上げると、企画書のファイルを開いた。  負けるつもりはない。  これで終わりにして、日本に帰るのだ。  今から五年前、高校二年の冬休みに、櫂人は道人に呼び出された。  道人は、櫂人を相川グループの後継にするべきだとずっと主張していた。それは自分が愛人の子であるにも拘らず本妻の子である櫂人の兄であることへの引け目であり、同時に櫂人の能力を相川グループのために活かしてほしいという願いでもある。  櫂人の母親の実家である園村家は不動産に強い名家だ。こちらも過去に櫂人に後継を望む声も出たが、今は櫂人の叔父が後を継ぎたいと言って必死で勉強していることを受け、もう櫂人に何かを言ってくる者はいなくなっている。  道人の目的は簡単で、姫芽の安全と姫芽の両親の仕事を楯に取って、櫂人に自分が後継になると納得させることだった。  しかし、櫂人は会社は愛がある者が継ぐべきだと信じていた。どんなに能力が高くても、それだけで務まるようなものではないだろう。  そもそも父親が、道人が後継で構わないと言っている。  そして櫂人は、道人とあることを条件に取引をした。その条件を櫂人が達成すれば、道人が相川グループを継ぎ、今後の櫂人の人生には口出しをしないというものだ。  そのために、今日まで櫂人は必死で走ってきた。  約束の場所は会員制レストランの個室だ。予約されていたその場所に先についた櫂人は、手前の席に腰掛けて道人が来るのを待った。 「櫂人、待たせたか」  道人がやって来たのは、それから十分程経った頃だった。着ているシャツとジャケットの皺の印象から、仕事終わりであろうことが窺える。 「兄様。いえ、構いません」  櫂人は道人が向かいの席に座るのを待って、用意していた資料をまとめたタブレットを取り出した。そこに午前のうちに確認していた資料を映し出す。 「こちら、お約束のものです。確認してください」  道人は櫂人のタブレットを受け取って、資料に目を通し始めた。  道人が櫂人に課した『条件』は、相川グループの海外の子会社数社の調査と立て直しだった。勿論、まだ学生で会社の社員でもない櫂人に打てる手は限られる。しかも期限は四年間。  櫂人に委ねられた子会社は、どれもこのままの状態であれば相川グループが手を切るか倒産させるつもりであろうことがわかる業績だった。しかも道人と櫂人の賭けを知った父親が、渡米中は会社の手伝いもするようにと命じたのだ。 「……櫂人は、そんなに家を継ぎたくないのか」  道人がぽつりと呟いた。  もういいというように、タブレットがテーブルに雑に置かれる。道人は疲れを隠そうともしなかった。  櫂人は道人の条件を呑んでから数か月間、どうにか日本から対応することを考えた。しかし社員もほぼ現地人で構成された会社をどうにかするには、日本では難しかったのである。 「──兄様は、俺を買い被りすぎです」  櫂人はそれからすぐにアメリカに行くことを考えた。  高校を卒業してから渡米するとして大学に入学できるのは九月だ。どうにかして三年で大学を卒業すれば、姫芽が大学を卒業するまでの四年間で、大卒の学歴と条件達成のための自由な一年が手に入る。  同時に、今後の生活の基盤を整えることもできるだろう。  櫂人は大学で知り合った数人と共に、早々に自身の会社を立ち上げた。相川グループにも、園村の家にも頼らずに生きていくと表明するためのパフォーマンスの一つである。  その会社も今ではすっかり軌道に乗って、櫂人はやりがいを感じていた。道人に会う前に連絡をした父親からも、好きにしろという言葉を貰っている。  そもそも最初から、父親は道人を後継にするつもりだったのだろう。櫂人に会社の手伝いをするように命じたのも、櫂人は一人でやっていくようにという意思表示だ。実務を経験して、自分の会社に活かすようにという、らしくもない親心だったのだろう。  だから今日この場を設けたのは、ただ櫂人と道人との間にある蟠りを解決するためなのだ。 「──……実際のところ、父様は兄様と継母様にしか興味はありません。俺を気にかけているのは、兄様だけですよ」 「そんなことはない! 父様だって、きっと──」  しかし道人は認めようとはしない。  櫂人は小さく溜息を吐いた。思い出したくもない、普段は考えないようにしている過去を、引っ張り出す。 「兄様は、俺に怯えることなどないのですよ」 「──……っ」  道人が息を呑んだ。  道人は櫂人に引け目を感じている。  本来正妻の子であった櫂人より愛人の子である道人の方が年齢が上だ。  道人は両親と過ごした思い出があるが、櫂人にはない。  しかし櫂人はそれだけではないことを知っている。  櫂人の母親が事故で命を落とし、道人とその母親が家に来ても、始めの頃は櫂人の生活に大きな変化はなかった。  学校に行き、家庭教師と学び、習い事に行く。自由な時間には友人を招いて身体を動かしたり、読書をすることも多かった。  変わったのは、半年が経った頃だろうか。  道人の母親は櫂人の母親とは違い、仕事をしていなかった。すると当然家にいる時間が増え、義理の息子である櫂人の様子もよく見える。  道人は優秀な子供だったが、櫂人はそれと比べても飛び抜けていた。言葉遣いと振る舞いはとても子供とは思えないほどしっかりとして、友人との関係も良好、家庭教師達はこぞって櫂人を褒める。  当時の櫂人は、良い子でいるために必死だっただけだ。実母が死に、父親は仕事と新しい家族のことばかりで櫂人を省みない。古参の使用人が面倒を見てくれていたが、親の愛に飢えていた。  良い子でいれば、父親も、継母も、櫂人を見てくれるに違いないと信じていたのだ。  しかし子供の櫂人がした努力は全て裏目に出る。道人の母親が二人の子供を比較し心を病んでいくまで、たいした時間はかからなかった。 「だが、櫂人は母に──」 「兄様」  櫂人は道人の言葉を途中で切った。  それ以上、言う必要はない。 「何も、ありませんでした。その『記録』は兄様も確認されているでしょう」  櫂人は道人の母親から虐待を受けていた。  当然その事実は隠蔽され、櫂人が園村の家に引き取られることになった怪我の記録も書き換えられた。  しかし道人は、当時の大人によって隠されたその事実の存在を疑い、櫂人によって暴露されることを恐れている。  普通に考えたら、父親が生きているにも拘らず子供が亡き母親の実家に引き取られるには、相応の理由が必要だと知っているのだ。 「だがあれは」  道人がそれ以上言葉にならないといったように、櫂人を見る。  櫂人はもう、どうでも良かった。  道人は父親と母親に愛されている。  そして、道人は二人を、そしてあの大きな会社を愛している。  櫂人が持っているものと求めているものは、道人とは違う。それだけなのだ。 「──『記録』されているものが『全て』です。俺は……いえ。私は、それ以上のことを詮索されたくありませんし、今後一切口にするつもりもありません」  櫂人はそう言って、口を噤んだ。  道人はただ一言、そうか、と呟いて、それ以上何も言ってこなかった。  これで話は終わりだというように、櫂人は荷物を纏めて立ち上がる。このままここで食事をする気にはなれなかった。 「──櫂人」  扉の前で呼び止められて振り返ると、道人はまっすぐに櫂人を見つめていた。 「条件達成、おめでとう」  その表情にはまだ蟠りはあったが、それでも言葉と共に向けられたのは笑顔だった。
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