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嘘吐き・友情
◇ ◇ ◇
そして、土日を挟んで登校した月曜日。
姫芽は、相変わらず誰にも話しかけられないまま、朝のショートホームルームを待っていた。クラスメイト達は、もう姫芽が一人でいることに慣れてしまっていて、誰も近付いてこない。姫芽も割り切って、適当に親から借りて持ってきた小説を広げている。
そんな、ある意味では平和な朝は、あっという間に崩れた。
廊下から、少しずつ賑やかな人の声が近付いてくる。もしかしたらそうかもしれないと姫芽が予想した通り、その騒めきはこの教室へとやってきた。ちらりと視線を上げてみると、先週ぶりの櫂人が丁度教室に入ってきたところだった。
何人かが姫芽の方を窺っているのが分かり、姫芽は慌てて下を向いて本に視線を移す。できれば、あまりかかわり合いになりたくないのだが。
姫芽の頭の中に、先週の『友達』という言葉がちらついた。
「おはよう、姫芽ちゃん」
声は、すぐ近くからかけられた。顔を上げると、姫芽の机を挟んで向かい側に櫂人が立っている。櫂人の周りを囲んでいた人達が、僅かに離れたところからこちらの様子を窺っているのが分かった。
「……そ、園村くん」
姫芽は注目されるのに慣れていない。それでもこうして直接来られてしまっては、相手をしないわけにはいかなかった。なにせ、櫂人は明らかに皆の人気者だ。すげなくしてしまったら、噂に尾ひれがついて拡散されること間違いない。
「おはよう。体調は大丈夫?」
姫芽が自然に挨拶を返す。櫂人は姫芽の言葉にうっと息を呑んで耳を赤くし、それからちらりと周囲を意識した。
「心配してくれてありがとう。もう大丈夫。──友人として心配してくれるなんて、姫芽ちゃんは優しいなあ!」
櫂人は、教室にいる皆に届くほど不自然に大きな声で言った。姫芽は驚いて、思わず声を上げる。
「ちょっ……!? 何言って──」
「大丈夫だから」
櫂人が先程とは打って変わって落ち着いた声で言った。姫芽は櫂人の言う通りに、反論の言葉を呑み込む。
すると、さっき教室に櫂人と一緒に入ってきた男子生徒が会話に入ってきた。姫芽は今日まで一度も会話をしたことがない男子だ。
「なになに、二人って友達だったのか? いつの間に」
「いや、昔、一緒にいたことがあって」
なんて返したら良いか分からない姫芽の代わりに、櫂人がすらすらと返す。するとそれが聞こえたのか、別の女子も会話に入ってきた。
「幼馴染ってこと? 園村くんと幼馴染とか羨ましい〜」
これは、余計なことを聞かれてぼろを出すような状況ではないか。姫芽がちらりと櫂人に目を向ける。
櫂人は、姫芽にだけ分かるように視線で頷いて、続ける。
「恥ずかしいから、あんまり聞かないで。結構ろくでもない子供だったからさ」
「可愛いー」「きゃあ!」
女子達がまるでアイドルに向けるような黄色い声を上げる。
別の男子が、軽く笑って言葉を挟んだ。
「いやー、様なんて言うから、どんな関係かと思ったよ」
そうだった。思い返してみると、姫芽がこうして皆に避けられるようになったのは、櫂人の『ひめ様』発言がそもそもなのだ。そこを言い訳できないと、苦しい。
だが、櫂人はそれが当然だというように苦笑する。
「子供の遊びだよ。ひめ、って言ったら、『様』だろうって」
「確かに!」
「櫂人、お前そういうこと言うんだな」
「昔のことだから、頼むわ」
もしかして、櫂人は俳優でもやっているのだろうか。顔も良いし、やっていても違和感がない。こんなに流れるように嘘を吐くなんて、姫芽にはとてもできない。
それに、なんとなく見た目から真面目で固い印象があった(姫芽の場合は更に櫂人の前世? の記憶が前面に出ている分より堅苦しい印象になっている)が、どうやら学校では付き合いやすい人柄として振る舞っているようだ。
色々な意味で、あまり信用できない気がする。
予鈴が鳴り、皆が自分の席に戻っていく。
ほっと息を吐いて安心した姫芽に、擦れ違いざまに櫂人が耳打ちする。
「……姫芽ちゃん。これで、少しは居心地が改善すると良いのですが」
ばっと振り返ったときには、もう櫂人は自分の席に座ろうとしていた。姫芽は不審に見られないように、慌てて姿勢を戻す。
耳元で囁かれた言葉の敬語より、その意図的に低くされた声のほうが印象に残った。内容なんてすっかりどうでも良いと思ってしまうほど、その声は姫芽の痺れた耳から離れてくれなかった。
午前の授業が終わり、皆が席を立っていく。食堂に向かう者、仲が良い者同士で机を合わせる者、弁当を持ってどこかに向かう者。皆がそれぞれに動き出した。
姫芽もその人混みに紛れていつものように教室を抜け出そうと思ったとき、前の席の女子生徒が突然振り返った。
「和泉さん!」
名前を呼ばれ、姫芽は椅子に座り直す。これまでに話したことがない女子だった。話したことがないというのは、直接櫂人とのことを聞きにこなかった、という意味だ。
「ええと、あなたは……」
「私、市村美紗。これまで声かけなくてごめんね」
姫芽が名前を覚えていなかったことを謝罪すると、美紗はそんなことどうでも良いというように首を振った。それから、机に置いていた弁当をずいと姫芽の目の前に突きつけてくる。
姫芽は思わず僅かにのけ反った。
美紗は、少し照れたように笑っている。高い位置でポニーテールにしている髪が、美紗の動きに合わせてぴょこんと揺れる。どこか小動物のリスを思わせる見た目だ。
「できれば、い……一緒にお昼、食べない!?」
その言葉に、転校してから初めて、姫芽は心からの笑顔で頷いたのだった。
場所を中庭に移し、姫芽は美紗と昼食を食べることにした。ちなみに手作りの弁当を持ってきている美紗に対して、姫芽は今日も購買のパンである。
食事をしながらの会話とは、なかなか弾むものだ。食べ終わる頃にはすっかり仲良くなっていた。昨日まで会話をしていなかったとは思えないほどだ。
二人は美紗が持ってきたクッキーをつまみながら、お喋りを続けていた。
「でも、私とお昼一緒で良かったの? 美紗ちゃん、一緒に食べる人いたんじゃ……」
姫芽はペットボトルのお茶を飲みながら美紗に問いかけた。この昼休みで、姫芽と美紗はお互いちゃん付けで呼び合うようになっている。
美紗は笑って首を左右に振った。
「良いの。私、いつもは部活の子達と部室で食べてるんだけど、皆来たりこなかったりするんだ」
「それなら良かった」
ちなみに、美紗の部活は家庭科部らしい。元々別々だった手芸部と料理部が一緒になった部活だそうだ。何年か前に、部員が確保できずに同好会にされそうだった手芸部を、料理ばかりで部費が足りなくなっていた料理部が取り込んだのだと美紗がさっき話していた。
今では手芸も料理もできる部活として人気で、部員増加に伴い部費も潤沢になっているらしい。
「あ、姫芽ちゃん。さっきクラスの人達と話してないって言ってたけど、もしかして文化祭のこと聞いてない?」
姫芽は美紗に言われて、その行事の存在を思い出した。
「文化祭……そういえば、予定表にあったような」
「今週末だよ!?」
美紗が目を丸くして驚いている。姫芽は困ったように苦笑して、肩の辺りの髪をゆるゆると指先で玩んだ。
「授業は聞いてるけど、休み時間はここにいたし……校内も見て回ってなかったから」
高校生にとっては重要なイベントの一つだと思っていたが、転校したばかりでそれどころではなかった。
「そ、そんな顔しないで。うん、あのーそうだ! うちのクラスってなにやるの?」
「英国風喫茶だよ。保健所に届け出もしてるから、結構本格的なのできるって」
美紗はそれから、出し物は夏休み前に決めていたことや、衣装は家庭科部の採寸にあわせて作ることになっていることなどを教えてくれた。部活動等で終日クラスに顔を出せない人以外は、接客と裏方でシフトが組まれるということだ。
「すごいね」
姫芽が前いた高校は、ペットボトルのお茶をそのまま出したり、仕入れたアイスを売ったりするだけだった。調理にあたることを全て省いていたのだ。
「すごいねって、姫芽ちゃんもやるんだからね? 今週は午後が全部文化祭準備になるんだから!」
美紗が勢い込んで言う。姫芽は僅かに俯いた。
「でも私、まだクラスに馴染めてないし……」
「そんなの、文化祭準備皆でやってたらすぐだよ!」
楽しそうだと、思う。でもやはり、突然の転校生としてはなかなか受け入れられないだろうと、消極的な気持ちが強くなってしまう。ここ一週間の独りで過ごした時間が、余計にその気持ちを後押ししてしまっていた。
今の姫芽は面倒臭い。姫芽はそう自覚しながら、どうにか笑顔を浮かべようと顔を上げた。そのとき、がさがさと誰かが近付いてくる音がした。
「……あ、やっぱりいた!」
がさり、と近くの草が掻き分けられる。そこから、見たことがある顔が覗いていた。
爽やかな笑顔に、遊ばせた茶髪。誰が見ても軽そうだと思うだろう外見の歩は、制服に草を付けてへらりと笑っていた。
姫芽はじとりとその顔を見る。
「飯島くん、何してるの?」
「何って、姫芽ちゃんの顔見にー。あれ、美紗ちゃん?」
「ひゃっ、飯島くん……!」
美紗が頬を染めて、突然現れた歩から目を離せずにいる。
「ひゃって何? かーわいー」
歩はそんな美紗との距離を縮めて、美紗が持っていたクッキーをぱくりと食べてしまう。美紗はそんな歩に更に顔を赤くしてしまう。よく見ると、瞳が潤んできているような気もする。
姫芽が歩を止めようと口を開きかけたとき、歩のシャツが後ろに向かって引っ張られた。しゃがんでいた歩はそのままがくんと尻餅をついてしまう。
「お、わ!?」
「……歩、止めとけ」
歩を止めてくれたのは櫂人だったようだ。一緒に来ていたのならもっと早く止めてあげて欲しいと思ったが、口にはしない。
美紗がくるりと背を向けて、深呼吸を始める。
歩が座り直して、櫂人に文句を言っている、櫂人もその横に座って、呆れたような口調で言い返していた。
「園村くん。もしかして、何か用事あった?」
「──……いや。その……」
姫芽が問いかけると、櫂人は若干居心地悪そうに視線を彷徨わせた。歩がそんな櫂人の肩をべしべし叩く。
「櫂人ってば、教室で姫芽ちゃんに話しかけたら困らせるだろうって。友達といるとこ邪魔したら一緒だよねー」
「……別に、良いよ」
どうやら櫂人は、姫芽が教室を出るのを追ってきてくれたようだ。行動自体はどうあれ、教室で櫂人と話をするとなると目立って仕方ない。
それなら、まだ美紗と話しているときの方がましである。姫芽にはどこが良いのか分からないが、美紗はどうやら歩のことを(恋愛的な意味で)意識しているように見える。そう考えると、四人で話すのも悪くないかもしれない。
「やたっ。それで、文化祭の話?」
歩が前のめりで尋ねてくる。姫芽はその勢いにおされながらも頷いた。
「う、うん。聞いてたんだ」
「聞こえたのー」
歩が悪気無く言う。姫芽は仕方がないと諦めて、それから歩のクラスは何をやるのかと聞いてみた。
「俺のところはお化け屋敷だよ」
お化け屋敷も、文化祭といえば定番の出し物だ。装飾を作ったり仮装をしたりと、非日常感があるからだろうか。
姫芽はお化け屋敷なども苦手ではないので、純粋に興味がある。
「飯島くんもやるの?」
「もっちろん。俺、こわーいドラキュラやるからさ。姫芽ちゃんと美紗ちゃんも来てよ」
姫芽は、やはり歩はそういう仮装をするのかと思った。だって、ミイラ男のような格好をするようなキャラには見えない。とはいえきっとこの性格ならばクラスでは人気もあるのだろう。と考えると、ドラキュラは非常に合っている気がする。
「い、行く。行きます!!」
姫芽が返事をするより早く、美紗がまだ赤い頬で頷いた。
三人の会話が一段落したところで、それまで黙って何かを思案していたらしい櫂人が不意に口を開いた。
「──姫芽ちゃんは、クラスに早く馴染みたいの?」
かと思えば、質問するまでもないことを真面目な顔で聞いてくる。馴染みたくない筈がないだろう。
今の姫芽にとって、文化祭は最高のチャンスだ。一緒に行事の準備をして、距離を縮めるのだ。
最初こそ後ろ向きに考えてしまったが、もう姫芽は前を向いていた。いつまでもうじうじしている性格でもない。切り替えが早いのは、姫芽の特技(自称)だ。
「当たり前でしょ。スタートで失敗しちゃったし」
姫芽の言葉を聞いて、櫂人はふわりと笑った。正面から目が合って、うっかり姫芽の鼓動が高鳴る。こんなとき、イケメンは不公平である。
「それなら。俺に任せてくれて良いよ。願いを叶えるのも、従者のつとめ……い、いや。友達だから!!」
途端に残念になってしまった。
姫芽は苦笑して、それでも小さく、ありがとう、と言った。櫂人のお陰で、今日の朝は乗り切ることができたのだ。その点については、とても感謝している。
ただ、すらすらと作り話が出てくるなあ、とは思ったが。
「私もいるから、大丈夫。一緒に楽しもうね」
「ありがとう、美紗ちゃん……!」
美紗が姫芽に笑いかけてくれる。それだけで、姫芽はもう大丈夫なような気がした。
さて、始まった文化祭準備はといえば。
初日こそ姫芽は遠巻きにされていたものの、櫂人がそれとなく引き込んでくれたことをきっかけに、すっかりクラスに馴染めていた。春からずっと同じクラスだったかのような溶け込み具合である。
姫芽もそれ自体は何の問題もない。むしろ非常にありがたいのだが。
「ひめ様ー、これ、そっちにお願い!」
装飾を完成させた女子が、手が空いていた姫芽を呼ぶ。
「はーい!」
姫芽はすぐにその小道具を受け取った。かと思えば、別の女子から声がかかる。
「あ、ひめ様。メニューのレイアウト一緒にやらない?」
「良いよ、待ってて。これ置いてくるから」
姫芽は小道具を指示された棚に移動し、メニューのレイアウトを作っているグループに加わった。
そう、問題はこれだ。
自己紹介のときに櫂人が倒れたのがあまりに衝撃だったのか、『ひめ様』呼びが定着してしまったのだ。仲良くしてくれるなら構わないが、姫芽自身は様付けで呼ばれるような人間ではないし、呼ばれたこともない。
櫂人の作り話が原因だったが、結果として希望は叶っているのだから、文句は言えないだろう。
水曜日になって、文化祭委員の男子が姫芽に話しかけてきた。
「ひめ様、接客と裏方どっちやる?」
この男子生徒、なんとこれが姫芽との初めての会話だ。当然のようにひめ様と呼ばれているが、姫芽はもう気にしなくなっている。
繰り返すが、姫芽は切り替えが早いのが特技(自称)なのだ。
「料理とか自信ないから、接客かな。平気?」
「全然平気! むしろ接客嫌がる子もいるから助かるよ」
「嫌がるって、何で」
男子の言葉に、姫芽は不穏なものを感じた。嫌がる子が多いということは、何か理由があるのではないか。
しかし姫芽の不安は杞憂だったようだ。男子は首を振って否定する。
「衣装が似合わないーとか、接客嫌いーとか。それで……」
「衣装……」
「あ! 大丈夫! メイド服だけど、ミニじゃないから。うちは正統派の英国風喫茶なの! 三年のメイド喫茶になんて負けないんだから。それじゃあ、後で布と作り方が書いてある紙渡すから。よろしくー」
男子はそう言って。すぐにその場から逃げるように離れていった。
それなら、と思ったときには、姫芽は接客で確定ということになっていた。別に文句を言うつもりはなかったのだから、逃げなくても良いではないか。
そんな教室の入り口に、別のクラスの歩がやってきていた。側に櫂人がいて、作業の手を止めて立ち話をしている。
「姫芽ちゃん、すっかり人気者じゃん」
歩が安心したように言う。
櫂人はちらりとそんな歩を見て、小さく嘆息した。
「ああ、そうだな」
歩は櫂人の言い方に引っ掛かりを覚えたようで、首を傾げる。
「何、なんか不機嫌そう? どうしたよ」
櫂人がちらりと姫芽を見る。その視線には、何か深い感情が潜んでいるように見える。
「──……俺は、ヒメ様って呼べないのに……!」
「そっちの嫉妬かよ!」
櫂人の目には、確かに嫉妬の感情が浮かんでいる。
歩はそんな櫂人に脱力し、壁に背中を預けてうな垂れた。
ぎりぎりに渡された衣装を姫芽が完成させられたのは、間違いなく美紗のお陰だ。家庭科部の出し物は展示だけだからと、作るのを手伝ってくれたのだ。他の子達は夏休みの内に作っていたらしい。
ちなみに今は、使われていない家庭科準備室でミシンを借りて、ようやく衣装が完成したところだ。ちなみに、しっかりクラシカルなメイド服である。黒いシンプルなワンピースに装飾を付けるだけでなかったら、手伝ってもらっても間に合わなかったかもしれない。
姫芽はほうっと息を吐いて衣装を畳んで袋に入れた。それから、隣で片付けまで手伝ってくれている美紗に向かってぱんと勢いよく手を合わせる。
「美紗ちゃん、本当にありがとう!」
額が机にぶつかる直前まで、思いっきり頭を下げる。
美紗がひらひらと手を振った。
「いやいや。私は趣味でもあるから大丈夫だよ」
「でも、美紗ちゃんがいなかったら間に合わなかったよ……」
普段から裁縫に慣れていない姫芽が、完成させられる筈がない。人によっては母親に頼んだりもしていたようだが、姫芽の母親は仕事をしていて、とても頼める状況ではなかった。
美紗が姫芽の言葉ににっこりと笑った。
「当日は一緒に頑張ろうね」
「うん!」
お喋りをしながら片付けをしていると、時間はあっという間に過ぎる。気付けば外は茜色に染まっていて、窓から西日が差し込んでいた。
そのとき、がらがらと音がして、準備室の扉が開いた。背中を向けていた姫芽より早く、美紗がその来訪者に気付く。
「──あれ、園村くん?」
はっと振り返ると、そこにはこの一週間で見慣れた櫂人の顔があった。クラスの方に顔を出していたようだったが、何かあったのだろうか。
姫芽が首を傾げると、櫂人は時計を指さす。
「二人ともお疲れ様。姫芽ちゃん、もう完全下校の時間になるから知らせに来たよ」
その指を追いかけて姫芽が準備室に備え付けのクラシカルなデザインの時計を見ると、完全下校の時間まであと十分を切っていた。
「あれ、もうそんな時間っ?」
「あっという間だったねー」
姫芽と美紗は、知らせてくれたことに礼を言い、片付けが終わった準備室から出る。
クラスの準備は殆ど終わっていて、後は明日の朝、仕込みをするだけになっていると櫂人が教えてくれた。
結局、姫芽は途中だけしか関われなかった。
こんなことになるなら、裏方で紅茶や菓子等を用意する方が良かったかもしれない。いや、それも失敗したらとんでもない迷惑になってしまうから、避けた方が無難だろうか。教室に荷物をとりに向かう道すがら、姫芽はそんな取り留めのないことを考えていた。
鞄を取って、教室を確認する。発泡スチロールと段ボールで作ったレンガの壁は、なんとなく重厚な雰囲気が出ているような気がする。美術部と漫画研究部の生徒が協力して装飾した黒板には、喫茶店のメニューが書かれていた。
教室は端の方が仕切られていて、その向こうには紅茶と食事を用意するための厨房が用意されている。
こうして完成した装飾を見ると、余計に明日が楽しみになってくる。姫芽はわくわくする気持ちのまま、弾む足取りで廊下を歩いていた。
各教室前には、看板や受付の机が並んでいる。どれも色とりどりで、普段の学校とはまるで雰囲気が違った。特別教室は部活の出し物に使われるらしく、化学部の実験教室や、写真部のコスプレ写真館等、面白そうなものがたくさんあった。
野球部は、校庭で気球を上げるらしい。廊下の窓から見える校庭に、目印の白線が引かれている。
「そういえば、園村くんは部活って何か入ってるの?」
姫芽は、ぶらぶらと鞄を揺らしながら少し後ろを歩く櫂人に問いかけた。文化祭の準備で関わるうち、最初のぎくしゃくとした感じはなくなってきている。姫芽がちらりと振り返って視線を向けると、櫂人と目が合った。
「俺は帰宅部だよ」
櫂人が、さらりと表情を変えずに答える。
「そうなんだ。運動とか得意そうだから、ちょっと思っただけ」
「いや、……ええと、バイトが忙しいから」
適当に返した姫芽の言葉に、何故か急に櫂人の歯切れが悪くなる。姫芽はなんとなくそれ以上追求してはいけない気がして、前を向いた。
すると、姫芽と櫂人の会話を引き継ぐようにして、美紗が口を開く。
「そうなんだ。園村くんのバイトって──」
丁度そのとき、三人は昇降口に着いた。自然と会話は途切れ、美紗が自分の靴箱を開けに行く。それを目で追っていた姫芽がふと向かい側の自分の靴箱を見ると、櫂人が勝手に開けて姫芽のローファーを取り出し、几帳面に並べていた。
姫芽は驚いて、慌てて櫂人に駆け寄る。
「待って、園村くん。なんで私の靴並べてるの!?」
「どうぞ、姫芽ちゃん」
しかし櫂人は何でもないというように手で靴を指し示し、姫芽に履くように促している。
「どうぞじゃなくって」
「ほらー、早く帰れー」
更に言葉を重ねようとした姫芽を、通りかかった先生の声が遮る。勢いを削がれた姫芽は、仕方なく出されたローファーを履いた。
少し屈んで踵に引っかけ、とんとんと床に打ち付ける。
「じゃあ、姫芽ちゃんまた明日ねー!」
「また明日ー!」
校門前にバスが見えて、それに乗って通学している美紗は、急いで帰りの挨拶をして、走っていってしまった。姫芽は小さくなっていく背中に手を振って、上履きをしまおうと振り返る。
と、そんなことをしている内に、姫芽の上履きが無くなっていた。はっと顔を上げると、櫂人が上履きを勝手に靴箱に戻している。
「ちょっと、園村くん!?」
流石に、ついさっきまで履いていた上履きを異性に触られるのには抵抗がある。姫芽がはっきりと文句を言う前に、さっさと自分の靴を履いた櫂人が姫芽の鞄を取り上げてしまう。
「行こう、姫芽ちゃん」
「ちょっと、誰かに見られたら……!」
姫芽は、歩き出した櫂人の背を追いかけた。隣まで追いついたところで、誰もいないから大丈夫、と櫂人が小声で言ってくる。
確かに今この場所には、姫芽と櫂人以外に誰もいない。しかしだからといって、何も持たずに歩くのは落ち着かない。しかも出会ってまだ少ししか経っていない相手だ。
「いや、自分で持つから」
姫芽は櫂人から自分の鞄を奪って、歩く速度を上げた。
こういうとき、櫂人は従者らしいことをしようとするのだ。姫芽は決してお姫様ではないのだ。魂が同じなんてよく分からないことを、信じるつもりもない。それなのに、櫂人は本気なのだ。
今度は櫂人が姫芽の後を追ってくる。
いつの間にか姫芽の口角が上がっていた。しかしそれを指摘する者は誰もいない。
姫芽自身も気付かないまま、二人の心の距離が少しずつ近付いていた。
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