文化祭・距離

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文化祭・距離

   ◇ ◇ ◇  桐蓮高校の文化祭は、大盛況だった。生徒達の家族は勿論、近隣住民や、他校の生徒。それから来年受験を検討している中学生、高校の卒業生。文化祭では全国常連の運動部が練習試合をするらしく、その関係者も多い。  つまり、姫芽が前にいた高校の文化祭とは比べ物にならないほど、多くの人がいた。  二年B組の英国風喫茶も人気のようで、開店からずっと教室の前には列ができている。途中から入り口に整列のための人員が割かれていた。  指示が的確だと感心していたが、どうやら、クラスの文化祭委員は喫茶店でバイトをしているらしい。その喫茶店はふわふわのパンケーキが評判の人気店だという。  とにかく、姫芽は文化祭とはとても思えない『喫茶店』で、ぐるぐると走り回っていた。 「五番テーブル、よろしく!」 「はい!」  かけられた声に、教室の端に立って控えていた姫芽は、仕切りの向こうにある厨房からポットとカップを受け取り、クッキーの皿と一緒にトレイに乗せた。五番テーブルに行き、紅茶を注ぐ。そっとクッキーを勧めて、また壁際に戻った。  そのとき、姫芽の目の前を執事服風の衣装を着た櫂人が横切っていく。白いシャツに、チャコールグレーのベストと黒いスラックス。黒いネクタイをしているその姿は、まるで何かの物語から出てきたようによく似合っている。というか、似合い過ぎている。 「お待たせいたしました。お嬢様方、失礼いたします」  紅茶を注いだカップを、すうっと女性客の前に差し出す。接客用の微笑みを浮かべた櫂人に、客が思わずというように見入っていた。  他のテーブルの客までもが櫂人をちらちらと見ている。やはり、皆気になるらしい。 「あの。い、一緒に写真とか……」 「申し訳ございません。当店では店員の撮影はお断りしておりますので」 「そうですか」 「ですが、よろしければお二人でお撮りいたしますよ」 「ありがとうございます!」  断り方まで完璧で、姫芽は舌を巻いた。これは敵わない。決して戦っているわけではないが、なんとなく負けた気になるのは何故だろう。  女性客達は嬉しそうにスマホを櫂人に渡し、ピースサインを作って笑っていた。  提供を終えた櫂人が、壁際の姫芽の隣に戻ってくる。と、その瞬間、文化祭委員の男子が櫂人に声をかけた。 「あー。櫂人、お前がいると回転落ちる。ちょっと客寄せに校内回ってきて」  姫芽は、確かに、と思った。  開店から今までに、一体何回櫂人が連絡先を聞かれたり、写真を頼まれたり、この後の予定を聞かれているところを見ただろう。都度櫂人はとても高校生とは思えない会話スキルで断っていたが、それでも、見物人の紅茶がなかなか減らないのは間違いない。  どんなに頑張っても、教室が広くなることはない。七つしかないテーブル席では限界がある。  櫂人は頷いて、僅かにネクタイを緩めた。 「分かった。接客減るけど平気?」 「俺も衣装持ってるから。次のプラカードは……あ、ひめ様か」 「何?」  教室内に目を向けながら話を聞いていた姫芽は、名前を呼ばれて頷いた。ちらりと時計を見ると、もうすぐ十一時になる。姫芽は十一時から十二時までプラカード担当で、その後休憩に入ることになっていた。 「プラカード、交代の時間だから。ちょっと櫂人と校内回ってきて」 「はーい」  同行者が増えてしまったが、姫芽にとって櫂人はもう慣れた相手なので問題ない。姫芽は帰ってきた前の担当者からプラカードを受け取り、衣装のまま教室を出た。  隣に櫂人がいるせいで、擦れ違う人がときどき振り返っていく。  櫂人が姫芽が持っていたプラカードをひょいと奪い取って、肩に担いだ。 「持つよ」 「ありがとう」  姫芽は素直に礼を言った。背が高い櫂人が持つ方が、きっと目立つだろう。  不意に櫂人が立ち止まって、姫芽を見た。正確には、姫芽の頭から爪先までを観察するような視線を向けた。  姫芽は居心地が悪くて、僅かに俯く。 「──……園村くん?」  立ち止まった二人を追い越して、擦れ違って、人が通り抜けていく。  二人の間だけ、時間が止まったようだった。 「姫芽ちゃん、衣装似合ってる」  櫂人はそれだけ言って、また歩き出した。  姫芽は慌ててその背中を追う。もしかして、見るためだけに立ち止まったのだろうか。 「それは、園村くんの方が! さっきだって、写真頼まれてたし」  姫芽が、照れ隠し半分抗議半分に声を上げた。  明らかに、櫂人の方が似合っているのだ。化粧もしていないのにコスプレが似合う容姿とは、どういうことか。  しかし櫂人は姫芽の真意に気付かない。 「うーん。こういう服は、結構落ち着くみたい……というか、前世の俺は喜んでる」 「そう」  櫂人が言うには、前世は王女の従者だったのだ。それは、こういう服も着るのかもしれない。もしかしてさっきまでの給仕がように手慣れて見えたのは、よく小説に出てくる『前世チート』とかいうやつだろうか。  まあ、本当に異世界転生をしていれば、の話だが。 「でもやはり、ひめ様が使用人のような服装をなさるのは──」 「園村、くん?」  姫芽は、櫂人の口調が固いものになったことに気付いて、じとりと軽く睨んでみせる。  櫂人が慌てたように手を振った。同時に、段ボールと発泡スチロールでできたプラカードがゆらゆらと左右に振れる。 「いや、何でもない。姫芽ちゃん、中庭のステージの方に行ってみよう」  櫂人が誤魔化すように、窓から外を指さした。  中庭ではカラオケ大会が行われていて、人が集まっていた。  姫芽は頷いて、櫂人の少し後ろをついていく。正直、校内の構造をまだ完全には覚えていないのだ。迷い無く歩いていく櫂人の後をついていく方が、都合が良い。  なんとなく、櫂人にそのことを知られたくはなかった。  昼が近付いて、校内の客が増えているようだ。廊下を歩く人も、さっきよりも多い。  プラカードを担いで歩いている櫂人はやはり目立つようだ。当然のことだが、他のクラスにも櫂人を気にしている生徒は多い。  通行人と櫂人に話しかけようと寄ってくる女子生徒で、姫芽と櫂人の間がどんどん離れていく。人混みの中から、ぴょこんとプラカードだけが飛び出して見えていた。  がやがやと煩い人混みが、姫芽を卑屈にしていく。  姫芽と櫂人の間にあるものは、本当に友情なのだろうか。櫂人が姫芽に近付いてきたのは、姫芽がセリーナとかいう王女の生まれ変わりだと櫂人が思っているからだ。もしも姫芽がただの姫芽なら、きっと櫂人が今こうして姫芽といることはないだろう。  さっき姫芽と櫂人に客寄せのために校内を回るようにと言った文化祭委員も、櫂人と姫芽の仲が良く見えていたから、二人で組ませたのだろう。相手によっては、櫂人が無駄に疲れると分かっての配慮だ。  セリーナ姫って、どんな人だったの?  そんな疑問が、姫芽の心にこびりついて消えないままでいる。  このままでは、はぐれてしまうだろう。  櫂人は良い人だ。いつの間にか姫芽は姫芽として、櫂人の友人として、ちゃんと側にいたいと思うようになっていた。  顔を上げて人混みを掻き分けようと気合いを入れた姫芽の右手を、いつの間にかすぐ側に戻ってきていた櫂人の手が、掬い上げるようにして掴んだ。  大きな手の感触に、は、と顔を上げる。 「はぐれるから、掴んでて」  櫂人はそれだけ言って、歩き出した。ずんずんと前に進んでいく。姫芽はもうほとんど駆け足でそれについて行った。  さっきとは逆の意味で、周囲の景色が流れていく。 「あの、この手は」  姫芽が必死で声を上げる。  擦れ違う生徒達が、驚いたように姫芽と櫂人を、その間にある繋いだ手を、見ている。  櫂人は歩調を緩めないまま、姫芽に答えた。 「エスコート……じゃなくて、ほら、友達だから」  友達だから。  姫芽と櫂人の間にあるものはそれだけではないのに、エスコート、と言った言葉も聞こえていたのに。 「はぁ……分かった」  姫芽は、仕方がないという風を装って溜息交じりに言った。  少し人が減ったところで、櫂人が歩調を元に戻した。  繋いだ手が熱い。握り返してしまった手は、離せなかった。 「……ありがとう」  姫芽が小さく小さく呟く。  櫂人が、勢いよく振り返った。 「ありがとうって言った!?」  その目が、まるで主人に褒められた大型犬のように輝いていて、姫芽はついつい笑いが漏れる。こんなに皆を引きつける見た目の人が、自分に対してちゃんと向き合ってくれているということが、嬉しかった。  櫂人はそんな姫芽を見て、僅かに首を傾げる。  そんな態度に、姫芽はどうしようもなく安心した。 「何も? 早く行こうよ」  姫芽は自分の中の説明できない感情を見ない振りで、櫂人の手を引いた。櫂人が苦笑して、プラカードを振って、姫芽が向かおうとした方向とは逆の方向を示す。 「姫芽ちゃん、そっちじゃなくてこっち」 「あ」 「俺の後をついてきてください」  櫂人が、姫芽の少し前を行く。  どうしてか分からないけれど、姫芽は、この背中についていけば大丈夫だと、確かに感じていた。  中庭は、たくさんの人で賑わっていた。  カラオケ大会のステージを囲むように、陶芸部や美術部、個人で登録した生徒等が露店を出しているようだ。食器や小物、アクセサリー等を販売している。文化祭の出店基準として、利益率は学校からしっかりと決められている。その分、可愛らしいアクセサリーもかなりお手ごろ価格だった。  姫芽は、その光景に目を見張った。こんなの、前の高校では考えられないことだ。 「うわぁ、すごい!」  ついつい目が輝いてしまう。丁度良いことに、ポケットの中には財布も入っている。貴重品は持っていって、と言ってくれた文化祭委員の男子に感謝だ。  櫂人が姫芽の表情を見て、ふっと目を細めた。 「折角だし、何か買おうか」  それは、とても魅力的な誘いだった。  嬉しい、と思って顔を上げて、櫂人が持っているプラカードに本来の目的を思い出す。 「でも、宣伝……」 「大丈夫、プラカード持ってれば」  櫂人はそう言って姫芽に気になる店を聞く。姫芽が手前の店を指さすと、櫂人は当然のように手を引いた。  店の前でしゃがんだところで、櫂人が姫芽の手を離す。  ずっと繋いでいたから、離れることに違和感があった。  友達だから手を繋ぐなんて、高校生にもなっておかしなことだとは分かっている。櫂人は目立つから、明日になったら誰かに何かを言われるかもしれない。それでも構わないと、何故か今の姫芽は思っていた。  並んでいるのは、レジンで作られたアクセサリーだ。透明なレジンの中に、花や金属のパーツが入れられている。正直同じ高校生が作ったとは思えないほど本格的な仕上がりだった。 「いらっしゃいませー、って、うわ、園村くんじゃん」  店番をしている女子生徒が、櫂人を見て驚いたように僅かに身を引いた。 「少し見せてもらうね」 「あ、どうぞどうぞ! っていうか、その格好……」  女子生徒が、執事風の服を着た櫂人に目を止める。櫂人がにこりと接客用の笑みを羽化げた。 「英国風喫茶やってるから。後で是非来てね」 「行きます……!!」  櫂人に言われて、店員の女子生徒は嬉しそうに何度も頷いていた。これは、確かに客引きに違いない。  露店を見るのはとても楽しかった。カラオケ大会も、時々とんでもなく上手い人がいたり、先生がバンドを組んで披露していたりと、なかなか見ごたえがある。  あっという間に時間は過ぎ、気付けばもうすぐ一時間が経とうとしていた。櫂人がステージ横の時計に目を向ける。 「あ、そろそろ時間かな」  姫芽も櫂人の視線を追って、時計を見た。十二時まで、もう十分を切っている。姫芽は買ったアクセサリーをポケットの中に入れて頷いた。  校舎内はさっきよりも少しだけ空いていた。きっと、昼食のために近くのレストランに行ったり、食事ができる店に入ったりしているのだろう。  今度は櫂人との間に距離ができることはない。姫芽の両手は、自由なままだ。 「姫芽ちゃんはこの後休憩だよね」 「うん。美紗ちゃんと回るつもり」 「それ、俺も一緒で良い? 歩のとこ行くんでしょ。俺、あいつと回る予定だし」  櫂人が自然に聞いてくる。  姫芽は一瞬断ろうか悩んだ。今は当番だから、二人で歩いていても誰にも何も言われない。しかし、櫂人の自由時間を一緒に過ごすとなると、少し、いやかなり気になる。だって姫芽が転校して最初に友達が作れなかったのは、きっとこの櫂人のせいなのだ。  それでも姫芽は、もうしばらく櫂人といたいと思ってしまった。  結果、とても曖昧な返事になる。 「私は良いけど……美紗ちゃんに聞いてみる」  逃げだと分かっていても、今の姫芽はそう言うことしかできなかった。  教室は、丁度混み始めてきた頃のようだ。交代でシフトに入っている人数も、朝よりも多い。プラカードを置いて戻った姫芽が、待っていてくれた美紗に櫂人も一緒で良いかと聞くと、美紗は二つ返事で頷いた。 「──だって、園村くん連れてたら、飯島くんに近付きやすいし……!」  姫芽は目的に忠実な美紗に、素直に感動した。そして念の為に、すっかり櫂人の特性を忘れているらしい美紗に一言添える。 「美紗ちゃんが良いなら、構わないけど。頑張ろうね」 「え?」  美紗が首を傾げる。姫芽は、ちょいちょい、と教室の前の廊下の壁に寄りかかっている櫂人を指さした。  櫂人の周囲には、同じクラスや同学年だけではない女子がこれでもかと集まっている。櫂人はそれを誰も傷つけない困ったような笑顔で断っていた。 「ごめん、先約があるから」  断られた女子達は、その羨ましい先約が気になっているのか、少し離れたところで櫂人の様子を窺っている。  美紗が小さな声でひえ、と言った。 「え……やっぱりお断りさせ」 「歩のとこだよね」  姫芽達の会話を聞いていたのかいないのか、すぐ側に櫂人がいた。いつの間に移動してきたのだろう。そして、美紗の乙女心にぐさりと刺さる一言を選ぶ。  美紗の頬は分かりやすく赤く染まった。 「お願いいたします、園村様!」  美紗が両手を握り、気合いを入れて言う。そのあまりに勢いの強い仕草に、姫芽と櫂人は小さく吹き出して笑った。  歩のクラスは三つ隣だ。合流してから昼食にしようと決め、姫芽達は二年E組の教室に向かった。  E組の教室前は、おどろおどろしい装飾が施されていた。どうやら、西洋の廃屋がモデルになっているらしい。黒い模造紙に赤いペンキが垂れるように塗られているだけで、もう、見た目からしてホラーだ。  歩は教室の前の廊下に立って、窓の外に目を向けていた。 「歩、来たよ」 「おっ、櫂人。あれ、二人とも、来てくれたんだ」  歩が人懐っこい印象の笑顔で手を振る。  その衣装は、いかにもドラキュラだった。  タキシード風の上下に、黒いマント。マントの裏地が赤なのもまた非常にそれっぽい。控えめだが血糊もついていた。校内は冷房が効いているとはいえ、なんだか櫂人よりも暑そうだ。  美紗が前のめりに歩を見ている。 「はいっ! そ、その……衣装、よく似合ってます!」  姫芽も、歩によく似合っていると思った。というよりも、隣に執事風の衣装を着た櫂人がいるせいで、二人セットで非常に顔の良い西洋風の主従に見えてくる。 「ありがとー。さて、それじゃ、ちょっくらやってこようかな」  歩がうれしそうに笑って、自分のクラスを指さした。  昼食時だからか、お化け屋敷に並んでいる人はいない。 「あれ、これから休憩なんじゃないの?」 「せっかく来てくれたんだから、入ってくでしょ。俺、脅かし役やってあげるよ。こわーいドラキュラ、期待してて!」  歩はそう言って、受付をしている女子に声をかけて、中に入っていってしまった。 「……行っちゃった」 「仕方ないな。姫芽ちゃんは怖いの平気?」  櫂人が姫芽に問いかける。 「あ、うん。私は」  姫芽はお化け屋敷はあまり苦手ではないので、大丈夫だと頷いて見せた。しかし姫芽の隣にいる美紗が、姫芽のエプロンの紐をぎゅうっと掴んでしまう。 「美紗ちゃん……?」 「待って。私、無理な気しかしないんだけど」  美紗はお化け屋敷の方を見て、どうしよう、と言った。  元々美紗が歩を見たいと言ったから来たはずなのに、今になってお化け屋敷が怖くなってきてしまったらしい。やめておこうか、と言いかけた姫芽に、美紗はぶんぶんと何かを振り払うように首を振って、それから大きく一度頷いた。 「でも、飯島くんがいるんだもんね。うん。大丈夫、大丈夫」 「ねえ、そんな無理しなくても」 「大丈夫! 姫芽ちゃん、手、握ってて良い?」  美紗が上目遣いで聞いてくる。姫芽は当然だと、左手を差し出した。 「良いよ」 「──それじゃあ行こうか」  美紗が姫芽の手を握る。  櫂人が苦笑して、受付の女子に声をかけた。  お化け屋敷の中は暗い迷路のようになっている。黒い布で仕切られた通路は、今にもそこから何かが飛び出してきそうな雰囲気だった。  櫂人が受付で渡された懐中電灯で進路を照らしてくれている。姫芽は怖がる美紗を庇いながら、距離を開けずについて行った。  段ボールで作られた門を開けて、先に進む。布には絵がうまい生徒が書いたらしい廃屋の絵が貼られている。と、そのとき、幽かな青い光が天井近くを横切った。 「ひっ」  美紗が小さく悲鳴を上げ、姫芽の手を強く握る。  姫芽は光が横切ったあたりを観察した。よく見ると、透明なテグスが天井のフックに吊られている。ここに紐を通したLEDライトのようなものを滑らせたのだろう。 「あー、これ、よくできてるね」 「本当だ。手が込んでる」  姫芽の言葉に櫂人が冷静に相槌を打つ。 「怖くないの……?」 「お化け屋敷ってことは、人がいるってことだから」  美紗の質問に、櫂人がさらりと答える。  姫芽はそれを聞いて納得した。本当の廃屋であれば、自分以外の人はいないのだ。物音がしたらそれは正体不明で恐ろしい。しかしここはお化け屋敷だ。脅かし役の人が何人もいて、そのための仕掛けがある。だから、物音などに怖がることはないのだ。 「分かってるけど、怖いもんは怖いよっ!」  美紗が半分怒りながら先に進んでいく。脅かし役の数人の生徒と会い、もうすぐ出口というところで、目の前にいかにもな棺桶が置かれていた。  蓋が開き、気合いの入った血糊の歩が上半身を起こす。 「見ーたーなー」  姫芽は、やっぱりここにいたかと思った。ドラキュラといえば棺桶だ。この出し物もドラキュラの館モチーフなのだから、最後だろうと予想していたのだ。櫂人も同じだったのか、驚かず、片手を上げて挨拶をしようとしている。  しかし、美紗は違った。繋いでいた姫芽の手を振り払って、全速力で走っていく。 「う……う……うぎゃー!!」 「美紗ちゃん!?」  驚く三人を取り残し、美紗はあっという間に出口から出ていってしまった。  美紗が落ち着いたところで、血糊を落とした歩が合流した。  大階段の踊り場は広く、人通りはあるが端の方ならば落ち着いて話ができる。四人はこれからどこを見て回るかの相談をしていた。  邪魔にならないように固まっているので、何も知らない人が見たら、二組の恋人か、仲が良い友人同士に見えるだろうという距離感だった。  姫芽は家庭科部を見に行きたいと言い、美紗が頷く。櫂人は歩から、運動部の練習試合に混ざってきたらどうかと言われ、手をひらひらと振って断っている。姫芽もこの機会に、校内をたくさん見たいと思ってわくわくしていた。  そのとき、階下の騒めきがこれまでよりもひときわ大きくなった。  ひょいと首を伸ばして騒ぎの元を確認した歩が、勢いよく櫂人に目を向けた。 「──櫂人。あれ、道人様じゃ」  櫂人は慌てて振り返り、『道人様』らしき男性を見つけて顔色を変えた。 「姫芽ちゃん。ごめん」 「え。ちょっと、な──」  櫂人が姫芽の腕を掴んで引く。すぐ側に二つ並んでいた掃除用具入れのロッカーを開けると、姫芽の声にも構わず押し込み、人差し指を唇の前に立てて扉を閉めた。 「美紗ちゃんも念の為ね」  歩の声と金属の音から、美紗も隣のロッカーに押し込まれたことが分かる。  ロッカーの中は暗くて狭かった。踊り場のロッカーの中にほうきとちり取りしか入っていなかったのが不幸中の幸いだ。そこまで匂いは気にならない。  斜め下に向かって開いている隙間から、櫂人と歩の足下が見える。そこに、スーツを着た男の足が近付いた。ぱりっと糊が利いたスーツに学校のサンダルは妙にちぐはぐだ。 「兄様、お久しぶりです。こんなところで、何をしているのですか」  櫂人の声が、硬かった。 「……久し振りだという自覚はあるのか」  道人というらしい男の声は、櫂人の声に似ていて、しかし櫂人よりも早口だった。なんとなく責められているような気持ちにさせられるのは何故だろう。  道人はふんと鼻を鳴らした。 「そんなにもお前が通いたがる高校を、わざわざ見にきてやったんだ」 「見学でしたら、俺が案内しますが」  櫂人がすかさず言って返す。  兄弟にしては固い言葉遣いと櫂人の警戒している様子から、姫芽は櫂人の家には何か事情があるのだろうと思った。  櫂人は、道人から姫芽と美紗を隠したいのだろう。姫芽は気付いて息を詰める。しかし隠れようと意識すると、自分の心臓の音が普段以上に大きく聞こえる。どきどきと煩い鼓動に、手の平に汗が滲んでいく。 「いや、もう目的は果たした。……そうか」 「どうされましたか」 「いや、何でもない。そんなことより、櫂人。たまには実家に顔を出せ。父上が喜ぶ」 「はい」  櫂人の返事を聞いて、道人が今来た廊下を戻っていった。隙間から見えていた足が一組なくなる。本当に、櫂人に会うためだけに来たような行動だった。  姫芽は離れていく道人にほっと息を吐いて気を緩めた。 「──七匹の子ヤギの母親のほうが、まだ隠すのは上手い」 「それは──……っ」  櫂人の落ち着いた声が乱れた。  姫芽は叫びそうになるのを必死で堪えた。さっきのお化け屋敷なんかより、ずっと怖かった。櫂人の背中が隙間から見える。きっと、姫芽を庇ってくれているのだ。  今度こそ、道人は帰っていったようだ。歩が深い溜息を吐く。 「失敗したな。かえって隠さない方が良かったんじゃね?」 「それじゃ、顔をしっかり見られるだろ。……こうするしかなかった」  がたん、とロッカーのドアが開けられる。姫芽は急に差し込んだ明かりに目を細めた。 「……姫芽ちゃん、もう良いよ。美紗ちゃんもごめんね」  光に慣れてきてしっかりと目を開けると、櫂人が申し訳なさそうに眉を下げていた。心なし顔色も悪い気がする。 「急にどうしたの?」 「姫芽ちゃんは気にしなくて大丈夫だから」  そう言って首を左右に振った櫂人の身体が、僅かにぐらりと傾いだ。倒れる──と思って、姫芽は支えるように腕を掴む。その肌が妙に冷えていてはっとした。 「園村くん!?」  姫芽は、櫂人が心配だった。  しかし櫂人はそれ以上の追求を拒絶するように、姫芽の手にそっと反対の手を添えて外してしまう。 「ごめん、姫芽ちゃん。……なんでもないよ」 「櫂人──」 「歩、大丈夫だから」  どうやら、誰にも話す気はないようだ。歩は何かを知っているのだろうけれど、言わないだろう。姫芽も、他人の家庭の事情を無理に探る気はない。  姫芽が言葉を探していると、歩がぱんと手を叩いた。 「そうか。よっし! それじゃ、購買寄ってパン買って、折角だし屋台回って買い食いしよう。良いか、櫂人?」 「ああ、そうだな」 「う……うん! 楽しみ!」  なんとなく空回りの返事になってしまったが、櫂人の顔色はさっきよりもいくらかましになっている。心因性のもののようだから、本人が大丈夫だと言うならば、無理に休ませることもないだろう。逆に気を紛らわせた方が良さそうだ。  四人は購買で買ったパンをいつもの定位置で座って食べる。その頃には、櫂人はすっかり普段通りに戻っていた。  しかし次の日、文化祭最終日。櫂人は学校を休んだのだった。
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