クリスマス・隠し事

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クリスマス・隠し事

   ◇ ◇ ◇  櫂人は文化祭二日目を欠席したものの、撤収の日には登校していた。家の事情で休まざるを得なかったということで、クラスの誰も櫂人を責めることはなかった。  そして、これまで通りの日々が戻る。  文化祭をきっかけに、姫芽ももうクラスで浮いてしまうようなことはなかった。皆、当然のように受け入れてくれている。  しかし逆に、二人がただの友人ではないと思われていることもまた事実だった。姫芽が責められずにいるのは、櫂人が姫芽を何かと気遣っているように見えるからだろう。姫芽が櫂人につきまとっていると思われたとしたら、どんな嫌がらせをされたか分からない。  現状、少なくとも同じクラスの人達は、勘違いはしていたとしても、友好的に接してくれている。  そして今姫芽が直面しているのは、一週間後に差し迫った期末テストだ。  文化祭の三週間後に行われた中間テストは、姫芽のこれまでで最悪の結果だった。どうにか赤点だけは免れたが、結果、両親から思いっきり心配された。叱られたのではなく心配されたのは、きっと転校してすぐの試験だったからだろう。実際成績が悪かったことの一因は、転校で教科書が変わってしまったからだった。  次の期末テストでは、どうにかして挽回しなくてはならない。姫芽は放課後の教室で、ここ一週間で纏めたノートを見返し、広げた問題集の解答と見比べていた。  そのとき、夕日が差し込んできた窓からの日差しを遮るように、机に影が差した。はっと顔を上げると、そこには鞄を持った櫂人がいる。集中していて気付くのが遅れてしまった。 「──姫芽ちゃん、帰らないの?」 「園村くん。いや……家に帰ると、誘惑多いし」  姫芽はそう言って苦笑した。  高校生の自室とは、なんとも誘惑が多いものなのだ。姫芽の部屋も例に漏れず、漫画や雑誌、ゲームもある。テスト前に限って、勉強する前に大掃除をしたくなる病にかかる可能性もあった。  それならば、下校時間まで教室にいた方がかえって集中できる。  櫂人が鞄を下ろし、姫芽の隣の席に腰を下ろした。 「そう。俺も勉強してって良い?」 「え。でも、園村くん、バイト──」  櫂人は文化祭が終わってから昨日まで、放課後は毎日のように急いで下校していた。姫芽は勝手にバイトが忙しいのだろうと思っていた。  文化祭のときに聞こえてしまった櫂人の兄であるらしい道人との話は、その後、櫂人に聞けていない。話によると、櫂人は実家に帰っていないらしい。一人暮らしなのだろうか。バイトで忙しいのも、それと関係があるのかもしれない。気にならないと言ったら嘘になるが、家庭の事情はきっと気軽に尋ねていいことではないだろう。 「テスト前は休みもらってるから」  櫂人が鞄の中から問題集とノートを取り出す。ちなみに櫂人は、中間テストでは学年二位だった。ちなみに一位はまさかの歩だ。  姫芽は会話を切り上げ、自分の机に向かった。  しばらく数学の問題集を解いていたが、答え合わせをしても分からない問題にぶつかってしまう。 「うーん……」 「どうした? ああ、これか」  固まったままの姫芽が気になったのか、櫂人がひょいと姫芽のノートを覗き込んだ。姫芽は唸りながら、シャープペンでノートをこつこつと叩く。 「ここまではできるんだけど」  姫芽が言うと、櫂人は椅子を姫芽の机に寄せて、右手をノートに伸ばしてきた。 「これは、もっと手前──ここで、式を公式の形に揃えるんだ」  ちょっとごめんね、と小さく言って、櫂人が姫芽のノートにさらさらとシャープペンを走らせていく。少し薄く書いてくれているのは、この後消せるようにという配慮だろう。 「こうして、こう」  櫂人は説明を交えながら、式をどんどん変形させていく。そのペン先が、姫芽が辿り着かなかった解答までの道を示していった。  最後の答えに辿り着いたとき、姫芽は満面の笑みで櫂人を振り返った。 「あ、そっか! ありがとう、園村く──」  姫芽は息を呑んだ。それは、櫂人も同じだろう。  思ったよりもずっと近くに互いの顔がある。まるで口付けを待つような距離だ。  がたん、と椅子が揺れる音がする。 「ご、ごめん」  先に動いたのは櫂人だった。はっと顔を離して、取り落としかけたシャープペンを机に置く。  姫芽は動けなかった自分を取り繕うように、思いっきり俯いた。頬が急速に熱を持っていく。下ろしたままの髪が顔を隠してくれているのが救いだった。 「ううん。私こそ夢中になって……」  姫芽は俯いたまま呟いた。  冬が近付いた教室は暖房で暖められているが、窓の外はいつの間にか暗くなっている。残って勉強をしていた生徒達も、図書室や職員室に行ったり、家に帰ったりしたようで、教室にはもう姫芽と櫂人しかいなかった。 「園村くん。その……聞きたいんだけど」  姫芽は、シャープペンを縋るようにぎゅうと握り締めた。  もう一つ、気になっていたけれど、聞けなかったことがある。ずっと姫芽の中に燻っていた疑問だ。聞いたら認めることになってしまいそうで、聞けなかった。  しかしもう、櫂人と出会ってから二か月以上が経っている。  二人きりの今なら、聞けるような気がした。 「セリーナ姫って、どんな人だったの?」  櫂人が、驚いたように姫芽を見つめていた。 「どうして?」  櫂人が、姫芽の質問に質問で返す。姫芽は丁寧に言葉を選んだ。 「……気になってたの。私の前世って、どんなんだったのかなって。前世の園村くんが、大切にしてた人なんでしょう?」  櫂人にとって、いや、櫂人の中にいる前世の櫂人にとって、その思い出はとても大切なものだろう。姫芽がたとえ本当にセリーナという姫の生まれ変わりだったとしても、踏みにじっていいものではない。  姫芽がセリーナに対して嫉妬のような感情を僅かでも抱いていたとしても、今の櫂人に悟られてはいけない。 「セリーナ様は──」  櫂人は、ゆっくりと話し始めた。  いつもの櫂人よりも落ち着いた話し方だ。まるで、櫂人ではない誰かがそこにいるかのような違和感がある。 「……愛らしく、聡明な方だった。少々お転婆で我儘なところもあったが、国民のために自身の役割をしっかりと果たそうとする真面目さがあった」  櫂人の瞳は愛おしいものについて語るときのそれのように、甘く、優しい色をしていた。姫芽が見たことのない色だ。  セリーナは、王女らしい、しっかりした人物だったようだ。『少々』の部分に含みは感じられたが、それすら親しみ故だろうと思わされる。きっと、前世の櫂人は、セリーナと良い関係を築いていたのだろう。  本当にただの主従だったのだろうか。姫芽は櫂人の瞳の中に、熱情が混じっているような気がしてならなかった。鼓動が速くなる。今、櫂人がその瞳を向けているのは、目の前にいる姫芽なのだ。  違う。違う。  違うのに、勘違いしそうになる。 「ルビーの瞳は全てを見透かしているかのように深く、プラチナブロンドの柔らかな髪が風に揺れると、まるで天使のヴェールかと見紛うほどの美貌──」 「──……あ、あのー」  姫芽はそれ以上聞いていられないと、真っ赤な顔で口を挟んだ。  なんだか、他人の愛の告白を盗み聞きしているような罪悪感にさいなまれる。 「どうした?」  それに、話を聞いていてどうしても納得ができないことがあった。  櫂人の話を聞く限りでは、セリーナという王女は随分な人格者だ。それなのに。 「その人が私の前世だったとか、あり得ないでしょ。なんか徳が高そうな人だし。もし転生してたとしても、絶対どこかの高貴なお嬢様だよ」  そう。姫芽のようなどこにでもいる普通の人間に転生するなんて、信じられないのだ。  姫芽は信心深い人間ではないが、それでももしも生まれ変わりがあるのならば、セリーナのような人はもっと素晴らしい人間に生まれ変わると思っている。  しかし櫂人は──櫂人の顔をした知らない人は、目を伏せ、表情を寂しげに歪めた。 「いや──……きっと姫が、そう望まれたのだろう」 「それってどういう──」  姫芽が問いかけた言葉を遮るように、下校時刻のチャイムが鳴った。それが合図だったかのように、櫂人の瞳が姫芽のよく知るものへと戻る。  姫芽はその変化に、内心でほっと息を吐いた。櫂人のあの目を見ていると、おかしくなってしまう気がする。自分が自分でなくなってしまうような、変な感覚がする。  それは、姫芽の中の『誰か』がそうさせているのだろうか。  いつの間にか、姫芽は櫂人の前世の話を事実であると信じてしまっていた。 「……帰ろう、姫芽ちゃん。途中まで送らせて」 「う、うん」  姫芽は机の上のノートと問題集を片付けて、鞄にしまう。教科書は明日も数学があるから、置いていっても良いだろう。  櫂人が自分の机に戻って、やはり持ち帰るものを選んでいるようだった。  二人並んで、教室を出る。  校門を出たあたりで、姫芽の鞄が櫂人に奪われた。もういつものことだと、姫芽もいちいち文句を言うことはない。ただ、ありがとう、と自然に言えるようになった。  こんな日々、まやかしだろうといつも思っている。  どうしたって姫芽は姫芽でしかなく、櫂人は櫂人でしかないのだから。  かりかりとペンが紙を引っ掻く音が響く。かつかつとペンが机を叩く音もする。時折、溜息も混じっているようだ。  それら全ての音を支配するチャイムが、昼下がりの教室に響き渡った。  監督をしていた教師が、テスト用紙を集めて回る。 「終わったー……!!」  姫芽は握っていたシャープペンを机の上に放り、うんと大きく伸びをした。  五日間に渡る期末テストが終わったのだ。これを喜ばなければ学生ではない。結果がどうこうの心配は、テストが返却されるときにすればいいのだ。  前の席の美紗が、くるりと振り返って笑顔を向けてくる。 「お疲れ、姫芽ちゃん」 「美紗ちゃん。お疲れ様ー」 「どうだった?」 「中間よりは、できたと思う……」 「良かったじゃん。私も今回は、助かっちゃった」  ほうと大きく息を吐いた姫芽に、美紗が笑う。  姫芽が櫂人から勉強を教わった放課後以降、櫂人も教室に残って勉強をするようになっていた。すると、歩と美紗も一緒に勉強し始め、気付けば毎日四人で勉強会をしていたのだ。櫂人と歩は、学年一位と二位だ。姫芽も美紗も、すっかり世話になってしまった。 「おーい、クラス委員。クリスマス会の企画しようぜー!」  クラスの中心の方で、クラス委員の男子の周りに人が集まり始めていた。櫂人も別の男子から、行くよな、と声をかけられているようだ。 「クリスマス会?」  姫芽が首を傾げると、美紗が頷く。 「終業式、クリスマスイブだし。その後でカラオケとか行くんじゃない? 自由参加だけど、姫芽はどうする?」 「行く! え、誘ってもらえるかな」 「今更不安になることないでしょ。姫芽ちゃんが行くなら私も行こうっと」  自由参加なのは、恋人や家族と過ごす人達のためだろう。姫芽は家族とクリスマスもするが、クラスのクリスマス会に参加できないということはない。 「じゃあ、プレゼント一緒に選びにいこうよ」 「そうだね! 多分交換すると思うし」  姫芽と美紗は、やっと終わった定期テストの解放感と楽しいイベントへの期待に胸を弾ませていた。  その週の土曜日、姫芽と美紗は待ち合わせをして、近くの町まで買い物に来ていた。学生に人気のファッションビルで、雑貨店や文房具店を回り、プレゼントを探す。  終業式の後に行われるクラス会は、クラスの約半数が参加することになっていた。参加の条件は、千円程度の交換用のプレゼントを一人一つ持ってくること、だ。千円程度で買えるものとなると、案外難しい。  美紗が、長財布のように見えるペンケースを手に取った。 「あ、これ、可愛いんじゃない?」  姫芽は美紗が持っているものの色違いを手に取る。  ペンケースはチャックを開けるとトレーになるものだった。ポケットも付いていて、使いやすそうだ。色は柔らかいパステルカラーが中心になっている。 「でも、男子に当たるとちょっと……かなあ」 「確かに。誰に当たっても良いプレゼントって、難しいね」  姫芽と美紗は二人揃って小さく嘆息する。手にはペンケースを持ったままだ。  姫芽は、自分と美紗が持っているペンケースを見比べて、口を開く。 「でもこれ可愛い。お揃いにしない?」 「良いかも!」  美紗がぱっと顔を輝かせて頷いた。  それぞれ会計を済ませて別の店に行こうとしたところで、美紗が店頭の棚に飾られていた入浴剤を見つけた。それは、箱に詰められたお菓子のような見た目をしている。丁度千円くらいだ。 「あ。私これにする! ごめんだけど、ちょっと待ってて」  美紗はそれを一つ選ぶと、ついさっき並んだレジの列にまた並び直した。  先程よりも長くなった列にしばらくかかるだろうと思った姫芽は、もう一度店内を見て回ることにした。  文房具を中心に揃えているこの店は、可愛らしい文房具から、少し高級なペンまで揃っている。手が届かない品も多いが、見ているだけでも楽しかった。  父親の誕生日が近いから、こういったものを買っても良いかもしれない。  なんとなくふらふらとガラスケースの中のペンを覗き込む。と、一本のボールペンに目が留まった。 「あ……きれい」  そのペンは、高校生が普通に使うには少し高級なものだった。艶のある白いボディーに、金色のクリップがついている。クリップの付け根の部分には、小さな赤いラインストーンがついていた。  細身なのにしっかりとした存在感のそれから、姫芽は目が離せない。 「ルビーのような瞳、か」  櫂人の話を、思い出した。  前世仕えたというセリーナは、プラチナブロンドにルビー色の瞳の王女だったらしい。櫂人の中にあるという、前世の記憶。どんな理由であれ、命を失ったからこそ転生したのだろう。  それは、姫芽の前世だというセリーナも同じだ。 「あの、すみません。これください」  姫芽のお小遣いでどうにか手が届くくらいの値段だ。高校生が、普段からこんなボールペンを使うことはないと分かってもいる。それでも、姫芽は買わずにはいられなかった。  こんな安物で、慰められるような気持ちではないだろうけれど。 「贈り物でございますか?」 「はい。その……簡単で、良いので」 「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」  なんとなく後ろめたかった。  姫芽が選んだこれは、プレゼントに違いないだろう。  しかし交換するという約束はしていないし、そもそも特別なプレゼントを贈り合うような仲でもない。受け取ってもらえるかも分からない。  姫芽がカウンターで会計を終え、包みを受け取ったところで、美紗が戻ってきた。 「お待たせ! それじゃ、さっきのお店行こう」  左手に二つの紙袋を提げた美紗が姫芽に言う。姫芽は頷いて、別の店に移動した。  途中、何か買ったのかと聞かれたが、姫芽はどうしても袋の中身を答える気にはなれなかった。  そして、クリスマスイブ。 「それじゃあ、メリークリスマース!」 「メリークリスマス!!」  最寄り駅から一番近いカラオケボックスのパーティールームで、姫芽達はソフトドリンクで乾杯した。飲み物はフリードリンクで、ポテトやチョコレート菓子等のつまみやすい食べ物がテーブルに並んでいる。  姫芽は一度帰って制服から冬らしいオフホワイトのニットワンピースに着替えていた。皆一度着替えてから集まっているからか、なんだか新鮮な気持ちになる。美紗以外の人の私服を見るのは初めてだ。櫂人は白いシャツに、グレーのセーターを重ねていた。シンプルな組み合わせだがお洒落に見えるのは、素材が良いからだろうか。  結局、交換用のプレゼントはインスタントコーヒー付きのマグカップにした。皆が知っているキャラクターものだが、男女どちらが持っていても違和感がないデザインだ。  今は皆のプレゼントが集められており、番号札が付いている。この後でくじ引きをするのだろう。 「機械三台あるから、どんどん入れて。あ、続けて入れるのは禁止ね!」  クラス委員と一緒に企画をした男子が、最初の一曲を入れる。誰もが知っているノリの良いアニメソングだった。途端に皆が賑やかになる。 「ひめ様も、遠慮しないで入れてね」 「うん!」  姫芽はカラオケの音に掻き消されないように、大きな声で返事をする。 「一緒に歌おー」  隣に座っている美紗が、姫芽の耳元に顔を寄せて言った。  それから一時間程、曲が途切れることはなかった。  姫芽も美紗と一緒にクリスマスソングを歌った。櫂人が女子にねだられて流行のアイドルソングを歌ったり、クラス委員が失恋ソングを歌って泣きそうになっていたりと、賑やかで楽しい時間だった。  予約待ち画面を見ると、まだ先に五曲予約がされている。  姫芽は、曲の切れ目でスマホをポケットに入れ、空のグラスを持って部屋を出た。  ドリンクバーは同じ階の端にある。壁の矢印を追いかけながら細い廊下を進んでいくと、あちこちの部屋から音楽と賑やかな声が漏れ聞こえてきた。他のパーティールームも埋まっているようだ。  ドリンクバーには誰もいなかった。姫芽は並んでいる機械を見ながら、どれにしようかと悩む。空いていると、ゆっくり選べるのが良い。とはいえこんなに部屋が埋まっているのだから、すぐに誰か来てしまうだろうけれど。 「あ、すみません」 「ごめんなさい。どうぞ」  姫芽は背後から声をかけられて、機械の前を譲った。  同じくらいの歳の女子だった。飲み物を注ぎながら姫芽を見て、驚いたように目を見張る。 「……和泉さん」 「ええと──」  姫芽は相手の顔も名前も思い出せなかった。しかし転校生で、最初に悪目立ちをしていた姫芽だ。きっと同じ高校の生徒なのだろう。  姫芽の想像を裏付けるように、女子生徒は会話を続ける。 「2-Bもクラス会?」 「あ、はい」 「そう。櫂人くんもいるのかしら」  櫂人の名前が出て、姫芽はそうか、と思った。  姫芽が覚えている筈がない。何故なら、姫芽が転校してきた当初、姫芽と櫂人の関係を探ってくる生徒はこれでもかといたのだから。とてもではないが、全員を覚えていることは不可能だった。  瞬間、目の色が変わったことに、姫芽は気が付かなかった。 「は──」  ──ぱしゃん。  女子生徒が持っていたグラスが、姫芽の目の前でひっくり返った。というよりも、投げつけられたと言った方が正しいだろう。姫芽のオフホワイトのワンピースのスカート部分に、並々と注がれていた紫色の液体が染みを作っている。  床に落ちたグラスが、ぱりんと割れた。 「わ、大丈夫? 和泉さん。ワンピースにかかっちゃった。ごめんなさい」  女子生徒は慌てた様子でドリンクバーのコーナーに置いてあった濡れタオルを手に取り、姫芽のワンピースに付いたジュースを擦った。ニットの表面に付いて吸い込まれずにいた液体が、雑に擦られることでワンピースにしっかりと色をつけていく。  咄嗟に反応できずにいた姫芽は、目の前で広げられていく染みを見て、慌てて一歩下がった。 「や、止め──」  女子生徒はにやりと口角を上げてから、わざとらしく両手を合わせた。 「わざとじゃないから許してくれるよね。ありがとう! それじゃ」  女子生徒が新しいグラスを持って、適当な飲み物を注ぐ。それから逃げるように、駆け足で廊下を曲がっていってしまった。きっとどこかの部屋に入ったのだろう。追いかけていったところで、姫芽にはどの部屋だか分からない。  その場に残されたのは、割れたグラスと、床に巻き散らかされたジュースと、派手に汚れたワンピース。それから、放心している姫芽だけだった。 「あー……店員さん、呼ばなきゃ」  姫芽は周囲を見渡して、ドリンクバーの横にあるインターホンを押した。すぐにやってきた店員が、惨状に顔を顰める。繰り返し謝罪して片付けてもらいながら、姫芽は自身のワンピースを見下ろした。  オフホワイトなんて色を着てきたからだろうか。紫色の染みがこれでもかと目立ってしまっている。クリーニングで落ちてくれたら良いのだが。いずれにせよ、このままの状態でクリスマス会に参加し続けるのは無謀だろう。  慣れた様子で片付けをした店員に改めて謝罪と礼を言い、姫芽は近くのトイレに駆け込んだ。このまま戻ったら、目立ち過ぎてしまう。何があったか聞かれるだろう。  洗面台でスカートを持ち上げ、水で濯ぐ。できるだけ濡らしたくはなかったが仕方ない。  姫芽の格闘の結果、ワンピースは腰から下がびしょ濡れになってしまった。染みは、今は明るいところで見なければ分からない程度にはなってくれている。  姫芽はできるだけ目立たないようにしてから、スマホを手に部屋に戻った。 「姫芽ちゃん、大丈夫ー?」  真っ先に声をかけてくれたのは美紗だった。姫芽が戻ってくるのを待っていてくれたのだろう。姫芽はさり気なく濡れたところを隠しながら、ハンガーにかかっているコートを手に取った。 「あ、うん。ごめん。急に家から電話があって……先に帰るね」 「そうなの? えー残念。でも、それじゃ仕方ないか」  コートを着て、前のボタンを留める。これで染みの殆どが見えなくなってくれただろう。バッグを持ち、中身を軽く確認する。渡せていない小さなプレゼントが、一瞬視界に入った。  姫芽を見ていたクラス委員が、くじが入った袋を持って寄ってくる。 「え、何。ひめ様帰んの? じゃ、先にくじ引いてってよー」 「あ、うん」  姫芽が引いたくじには、『3』と書かれていた。クラス委員に見せると、すぐに小さな紙袋を持ってきてくれる。どうやら、これが『3』のプレゼントのようだ。 「はいこれ。それじゃ、また新学期にね!」 「ばいばーい!」  皆が笑顔で姫芽を見送ってくれて、うっかり泣きそうになる。しかしそんなことをしたら、折角の楽しい場が台無しになってしまうだろう。  姫芽は笑顔を作って手を振った。また新学期に、と決まった挨拶をして、部屋を出る。会費は先に渡してあるから、大丈夫だろう。  外に出ると、途端に冬の寒さを感じる。まだ五時なのに、すっかり暗くなっていた。あちこちの店に飾られたイルミネーションが、きらきらと輝いている。 「……せっかく、楽しかったのに」  ぴゅうと風が吹いて濡れたワンピースを冷やしていく。タイツまですっかり湿っていた。ただでさえ寒いのに、これでは風邪を引いてしまうだろう。 「寒……早く帰ろ」  楽しいクリスマス会だった。クラスの皆との距離も、更に縮まったような気がする。それなのに、途中で帰らなければいけなくなったことが悲しかった。  姫芽が帰るとき、櫂人の顔は見られなかった。何かに気付かれてしまうような気がした。  櫂人に懸想する女子生徒の行動とはいえ、もう転校当初のように、姫芽が櫂人を恨むことはない。櫂人のせいではないと分かっているからだ。  それでも櫂人の顔が浮かぶのは、慰めてほしいからではない。  ただ鞄の中にあるプレゼントを渡せなかったことを、残念に思っているからだ。  賑やかな周囲にふと顔を上げると、そこには大きなクリスマスツリーがあった。まだ早い時間だからか、恋人ばかりではなく、制服姿の学生や親子連れもいる。皆が輝くツリーを見上げていた。嬉しそうに写真を撮る者も多い。  姫芽も足を止めて、そのツリーに見入った。  きらきら、きらきら。  いつもなら真っ先にスマホを取り出して写真を撮るのに、今はそんな気持ちになれなかった。代わりにどうしようもない無力感と脱力感が姫芽を襲う。  クリスマスなのに、汚れた服を隠して、嘘を吐いて逃げてきた自分。本当のことを言っていたら、何か変わったのだろうか。 「姫芽ちゃん」  背後からかけられた声に、姫芽ははっと振り返った。  そこにいたのは櫂人だった。マフラーを雑に巻いて、手にバッグを持っている。来るときに着ていたコートは着ていないから、帰るわけではないのだろう。  息を切らせているのは、走って追いかけてくれたからか。 「園村くん……どうして」  姫芽の心が、ざわり、と波立った。  櫂人ははあ、と短く息を吐いて、自分の首に雑に巻いていたマフラーを外した。それを姫芽の首にそっと掛ける。 「わっ」  それから、左右に垂れたそれをふわりふわりと姫芽の首に回していく。  柔らかな肌触りはカシミヤだろうか。茶色いタータンチェックのマフラーは中性的なデザインで、姫芽の服装にも違和感なく馴染んでいた。 「寒いからこれ、使って帰って」 「これ、園村くんの──」 「俺は平気だから」  櫂人がそう言って、ちらり、と姫芽のスカートの裾に目を向ける。姫芽は気付いて、咄嗟にコートの裾を引っ張り隠そうとした。  しかし櫂人はそれには言及せず、首を左右に振る。 「姫芽ちゃんが風邪引くといけないからさ、使ってよ」  あえてそれに触れない優しさが嬉しかった。きっと何かがあったと気付いているのに、姫芽が言いたくないと分かっているのだろう。  だから、姫芽はコートの裾から手を離して僅かに俯いた。 「でも、冬休みだから返せないよ」 「あ、そっか。じゃあ……これ、俺のID」  櫂人がバッグからノートを取り出して、さらさらと文字を書きつける。それを雑にちぎって、姫芽の手に握らせた。  姫芽は一瞬触れた櫂人の手の温かさに顔を上げた。目が合った瞬間、櫂人が嬉しそうに微笑む。 「あと、これも」  櫂人が、バッグから取り出した小さな紙袋を、姫芽に渡してきた。  咄嗟に受け取って中を覗くと、リボンをかけられた箱が入っていた。紺色の包装紙に、銀のリボン。いかにも冬らしい色使いだ。 「クリスマスプレゼント。帰ってから開けて」 「私──」  姫芽も櫂人に用意していたものがある。  慌てて鞄からボールペンが入った箱をとり出し、櫂人に押し付けるように渡した。 「これ、園村くんに!」 「──……俺に?」  櫂人は受け取った箱をまじまじと見つめている。  姫芽は櫂人の反応をじっと待つ。驚きが通り過ぎた後、櫂人の頬には確かに赤みがさしていた。櫂人が噛み締めるように、ありがとう、と言う。  姫芽は嬉しくて、顔を上げていられなかった。  私こそありがとう、と言い返して。マフラーで緩んでしまう口元を隠す。どこか甘さのある石鹸のような香りがして、姫芽はすぐにマフラーから顔を上げた。 「それじゃあ、気を付けて。急いで帰った方が良いから。……送ろうか?」 「ううん、近いから大丈夫。ありがとう」  風邪を引かないか心配されているのだろう。姫芽は首を振って、笑顔を浮かべた。 「連絡待ってる」  櫂人が手を振って、来た道を引き返していく。  姫芽はその背中を見送って、自宅に向かって歩き始めた。 「あったかい……」  マフラーに顔を半分埋める。さっきはすぐに顔を上げたが、今は誰にも見られていないから良いだろう。暖かくて、ほっとする。これは、櫂人の匂いだ。 「──……っ! はや、早く帰ろう!」  姫芽の歩調が、勝手に早くなっていく。気付けば駆け足になっていた。  玄関の鍵を開けて扉を抜けて、廊下に向かってただいま、と言う。今日、姫芽の両親は二人でクリスマスディナーに行っているから、家には誰もいないはずだ。  姫芽はコートとワンピースを脱いで、シャワーを浴びた。  部屋着に着替えて、明るい部屋でワンピースの染みを確認する。それから、仕方がないと思いながら、洗濯石鹸を混ぜたぬるま湯に浸けた。多少縮んでしまうかもしれないが、このまま着られなくなるよりは良いだろう。  自室に戻って、櫂人から貰った紙袋をどきどきしながら開ける。  リボンを取って包装紙を丁寧に開いていくと、ころんと小さな箱が出てきた。中に入っているのは、小さな白い花のモチーフがたくさんついたヘアクリップだ。繊細な細工が可愛らしい。 「可愛い」  姫芽は鏡の前で、クリップを使って髪の上半分を纏めてみた。首を捻って確かめると、先にぶら下がったビーズが揺れて光を反射しきらきらと輝く。 「似合うって、思ってくれたのかな」  櫂人がこれを選んでいるところを想像して、姫芽はくすりと笑った。  こんなに可愛らしいもの、売っている店はきっといかにも女性向けの店だろう。姫芽のために、選んでくれたのだ。そう考えると、心が暖かくなる。  姫芽はヘアクリップを鏡の前に置いて、ベッドに横たわった。スマホを手にメッセージアプリを開いて、キーボードに添えた指が固まる。  マフラーとプレゼントのお礼を、櫂人に伝えたかった。  初めてのメッセージはなかなか文章を決められず、送ることができたのは七時を回った頃だった。ようやく送ったメールにほっと安心して、姫芽は夕飯を食べるべく、キッチンに向かった。
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