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【カインとセリーナ4】
◇ ◇ ◇
もっと、と思ってしまったときには遅かった。
それだけは、カインが持ってはいけない願いだったからだ。
「ねえカイン。もっとこっちにいらっしゃい」
部屋の端にいたカインを呼び寄せる、優しい声。
「カイン、私……頑張るから。ちゃんと見ていなさい」
困難にぶつかっても決して諦めない、力強い瞳。
「こうして側に置くのは、カインだけよ」
ふわりと笑ったときの、砂糖菓子のような甘い表情。
嬉しかった。セリーナがカインに向ける言葉も、視線も、表情も、全てが愛しく、特別だった。他の誰よりも近いところにいたのは、間違いなくカインだった。それなのに。
セリーナの方が確かに現実というものを正しく受け入れていたのだろう。
「──ここに、両名の婚約が成立した。両国の友好が、永遠に続くことを願って……乾杯!」
婚約披露の宴でセリーナの手を取るのは、昨年まで敵だった国の王太子だ。
長きに渡る戦争を終え、結ばれた講和条約。その項目の一つが、両国の王族の婚姻だった。そして相手国より武力の乏しいこの国が、王女を一人差し出すことになった。
婚姻という名の人質だ。
セリーナの婚約相手であるゲルハルトは、青い瞳が印象的な美男子だった。会場にいる若い女性の多くは、元敵国とはいえ美貌の王子に目を奪われていた。
しかしカインが気になったのは、ゲルハルトの美しさでも、セリーナの完璧に作り上げた微笑みでもなかった。ゲルハルトの瞳の奥の、色だ。婚約への不満などという生易しいものではない。それは獲物を狙う狩人のような、戦場で敵を前にした兵士のような、──かつてセリーナに向けられた刺客のような、そんな色だった。
セリーナの微笑みは完璧であるがゆえに、全ての感情を隠し切っている。きっとこの宴の出席者は、美男美女でとても似合いの二人だと、平和の象徴として喜ぶのだろう。
今日の宴の間はセリーナの側にいることを許されていないカインは、会場の端で葡萄ジュースを一気に飲み干した。口の中に残る甘さが鬱陶しくて、顔を顰める。
普段から社交の場に出ることが少なく、更に誰が見ても不機嫌なカインに声をかけてくる者は誰もいない。それを唯一の救いとして、カインは誰に遠慮することなく不機嫌な表情で背景の一部になっていた。
そんなカインに近付いてくる者は当然身内しかいない。この宴に出席を許されている身内は、父親だけだ。騎士の礼服に身を包んだ父親が、葡萄酒──こちらはジュースではないだろう──を持ってカインの隣に立った。
「──カイン、なんて顔をしてる」
「父上……」
カインは空のグラスを側のテーブルに置いて、顔を上げた。カインの父親は小さく首を振り、周囲に聞こえないように声を落とす。
「気持ちは分かるが、祝いの席だ。貴族らしく、笑顔の仮面ぐらい被っておけ」
「申し訳ございません」
カインはそう言って、顰めていた表情を無表情に作り替えた。笑え、というのはどうしても無理だった。
この宴の後はセリーナの元に侍るため、酒を飲んで酔うこともできない。
「セリーナ様は、お幸せになれるでしょうか」
「姫様次第だろう。お前が見てきたセリーナ王女は、どんな女性だ」
「それは……」
セリーナは困難にあっても幸せを諦めない。そしてどんなときだって、王女として誰かのために立っていた。そんなセリーナが、望まない結婚をしたくらいで不幸になることはないだろう。望まないなりに、幸せを探して前向きに生きるに決まっている。
「──まあ良い。お前は、ついていくのか?」
カインはもう長くの間実家に帰っていない。父親がここでこれを尋ねるのも当然と言えた。しかし、カインは首を左右に振る。
「姫様は自国の伴をつけることを禁じられました。私は……他の王族に付くことになるようです」
カインの言葉に、父親はゲルハルトに刺すような視線を向けた。しかしそれも一瞬のことで、すぐにカインに視線を戻す。
「……家に帰ってきても構わん。仕事はいくらでもある」
「ありがとうございます」
しかしカインは、まだ今後の身の振り方を考える気持ちにはなれなかった。結婚まであと半年、セリーナはこの国にいる。その一番の従者は間違いなくカインなのだ。
カインの気持ちを察したのか、すぐに父親はカインから離れて別の貴族の元に移動した。一家の長なのだから、社交も当然仕事のうちだ。いつまでも息子にばかり構ってはいられないだろう。
カインは行き場の無い想いを抱えて、宴の間中ずっとセリーナを見ていた。
「あー、本当、なんなのあの王子!」
宴の後、寝支度を終えたセリーナにカインがハーブティーを差し出す。セリーナお気に入りの、安眠効果があるものだ。一口飲んだセリーナが、ほうと小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
セリーナは夜着にストールを引っかけただけの無防備な姿だ。そんな姿も見慣れるほど、カインはセリーナの近くにい続けたのだ。
そしてこのセリーナの私室には、セリーナとカインの二人しかいない。薄い扉の向こうには寝ずの番の侍女がいて、大きな声を上げればすぐにやって来るようにはなっているが、それでも夜の私室に二人きりを許しているのはセリーナだ。それだけ、カインに全幅の信頼を寄せてくれている。
カインは迷った末、声を落とす。
「──……ゲルハルト殿下は、お好きにはなれませんか」
セリーナはカインの問いにすぐに頷いて、同じように声を落とした。
「なれるわけないじゃない。あの男、講和なんて素直に了承するような人間じゃないわ。裏があるに決まってる」
「姫様……」
「だから、私が絶対その腹の中、暴いてやるのよ」
「……え?」
カインはぱちりと瞬きをした。セリーナが不敵な笑みを浮かべる。
「あら、私が大人しくしてるわけないじゃない。あの気持ち悪い仮面、引っぺがしてやるわ」
「ふ……はは、そうですよね。だって、セリーナ様ですもんね」
カインは湧き上がってきた笑いそのままにそう言った。
そう、セリーナのこの強さに、カインは惹かれたのだ。自分のものにならないと分かっていても、捨てられなかった恋心はずっと胸の中にある。自分でも直視できないほどに傷だらけで膿んだそれは、セリーナにだけは悟られてはならない。
「そうよ。でも、カイン。覚えておいて」
セリーナはそう言うと、真剣な瞳をカインに向けた。カインもまた、笑いを収めてじっとその瞳を見つめ返す。
夜の柔らかな明かりの中、その瞳の赤はまるで血のように深い色をしていた。
「私が誰と結婚しても、例え命を落としても……私の全ては、カイン──あなただけのものよ」
カインが息を呑む。
セリーナは小さく微笑むと、腕を取って引き寄せたカインの耳元で、他の誰にも聞かれてはならない愛の言葉を口にした。
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