デート・家族

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デート・家族

   ◇ ◇ ◇  それから四日後、姫芽の家に櫂人がやってくることになった。姫芽が借りたマフラーを返しに行くと言っても、櫂人が姫芽に手間をかけさせることを拒んだためだ。  学生にとっては冬休みでも、大人にとっては平日だ。姫芽の両親も仕事の予定だったので、姫芽は櫂人が家に来ることを了承した。  だが、姫芽は肝心なことを失念していたのだ。そう、社会人にも仕事納めがある、ということを。  奇しくも十二月二十八日から姫芽の母親は休暇に入っていた。そのことに姫芽が気付いたのは、冬休みだからと遅い起床をして、リビングに移動したときだった。 「お、お母さん! 何でいるの!?」 「姫芽、まずはおはようでしょ。何でって、今日からお母さんも冬休みよ」  大人だって休まないとやってられないのよ、と姫芽の母親は笑う。それから、わざわざ朝から豆を挽いて淹れたらしいコーヒーの入ったカップを傾けた。 「おはよう……私にもコーヒーちょうだい」 「そこにあるから、自分でやりなさい」 「はーい」  返事をしながら、ポケットの中のスマホを確認する。櫂人が家を出たと連絡してきたのは、今から二十分も前だった。今からやっぱり来ないでとはとても言えない。むしろ急いで身支度を整えなければ間に合わないかもしれない時間だ。 「お母さん、今日、出かけたりしない?」 「昨日まで仕事だったんだから、今日ぐらい家にいるわよ」 「そうだよね、分かった」  姫芽はミルクと砂糖を入れたコーヒーを飲んで、焼いたトーストにイチゴジャムを塗った。今更どうしようもないのだから、玄関前で対応してしまおう。姫芽はパンを齧りながらそう決めて、テレビの中のワイドショーに目を向ける。  なんとなく流れている映像を見ながら、姫芽はどきどきと高鳴る鼓動の理由に気付かない振りをした。  きっと気付いてはいけないものだ。  櫂人は連絡の通りの時間に姫芽の家にやってきた。  事前に伝えておいた通り、インターホンは鳴らさず、メッセージで到着を知らせてもらった。その甲斐あって、姫芽の母親は今もリビングにいる。  玄関から一歩出たところで、姫芽は櫂人と向き合っていた。 「おはよう、姫芽ちゃん」  櫂人は今日も私服姿だ。姫芽の家まで来るには時間がかかったであろうに、そんなことは全く態度に出さない。これは元々の櫂人の素質だろうか、それとも『王女』を前にした前世の男のものだろうか。 「おはよう園村くん。これ、ありがとう」  姫芽は笑顔で挨拶を返し、小さい紙袋に入れたマフラーを差し出した。櫂人がそれを受け取って、ちらりと中を確認する。  それから、姫芽に気遣わしげな視線を向けた。 「ううん、気にしなくて良いよ。……ワンピースの汚れって落ちた?」  姫芽ははっと息を呑んで、それから僅かに俯いた。 「やっぱり、園村くん気付いてたんだ。うん、クリーニング屋さんに持ってったら、落ちるって言ってくれた。ありがとう」  姫芽のワンピースの汚れに、櫂人はやはり気付いていたのだ。誤魔化せていたかもしれないとどこかで思っていたが、やはりそうはいかなかった。情けないところを見られてしまった。  櫂人は何も言わずに首を左右に振って、姫芽が口にしていない考えごとまで否定するように口角を上げた。  手袋を外した櫂人が、そっと姫芽の手を取る。剥き出しのままの姫芽の手は、冬の寒さにすっかり冷えてしまっていた。  包み込むように温められると、温められているのは手だけなのに、頬まで熱が上がってくる。その分、外気の寒さを強く感じた。 「俺の方こそ……ありがとう。ペン、大切に使わせてもらうよ」 「私こそ! あんな綺麗なの……似合うか分かんないけど、嬉しかった」  姫芽が選んだボールペンは、櫂人から聞いていたセリーナの色だ。それを、大切に使うと言ってくれたことが嬉しい。櫂人曰く、姫芽の前世はセリーナで、それはつまり、きっと姫芽の色でもきっとあるわけで──  姫芽はそこまで考えて、ぎゅっと目を閉じた。櫂人の言うセリーナに見合うだけの人間ではないと、姫芽は自覚している。  あの繊細で綺麗なヘアクリップも、きっとセリーナのような女性に似合うものだろう。  姫芽が内心で落ち込んでいると、櫂人が嬉しそうに頷いた。 「姫芽ちゃんに合うだろうと思って選んだんだ」 「そ、そっか……!」  それは、とても嬉しい言葉だった。  櫂人は、姫芽を思って選んでくれたのだ。決してセリーナではなく、今の姫芽のことを考えて、似合うと思ってくれた。  恥ずかしいと思いながらも、姫芽は顔を上げて微笑む。俯いたままではきっとこの気持ちは伝わらないと思った。  そのとき、姫芽の背後でがちゃりと音がした。 「姫芽ー。ちょっと、玄関前で何して……」  櫂人が玄関扉に視線を向ける。  姫芽は、慌てて櫂人が包んでくれていた手を離した。  家から出てきた姫芽の母親は、櫂人を見て驚いたように目を見開いた。それもそうだろう。姫芽は最近忘れてきているが、櫂人は誰が見ても格好良いと思うような綺麗な顔をしているのだ。  姫芽が隣に立っていることを分不相応に感じるくらいには、整っている。  姫芽の母親はしばらく固まっていたが、はっと気付いた後は、好奇心にきらきらと輝く瞳で姫芽と櫂人を交互に見つめた。 「──あら、あらあらあらー!?」  母親は、明らかにテンションの上がった声を上げ、両手で頬を押さえた。 「お、お母さん!?」 「姫芽のお友達かしら? それとも彼氏?」 「ち、違っ」  何を否定しようとしているのか分からない姫芽の抗議を、櫂人が手で制す。それから背筋を伸ばし、姫芽の母親に向き直った。 「はじめまして、園村櫂人と申します。今日は、先日姫芽さんにお貸ししたものを返していただくために立ち寄りました。突然のことに驚かせてしまい、申し訳ありません」  櫂人が礼儀正しく頭を下げる。姫芽の母親はちらりと姫芽に視線を向けてから、櫂人に向き直った。それから、嬉しそうに口を開く。 「はじめまして、姫芽の母です。随分しっかりした子ねぇ。姫芽、何借りたの?」 「マ、マフラー」 「私が勝手にお貸ししたものです」  姫芽が少し気まずそうにしているのを見て取って、櫂人が言葉を足してくる。  しかし、櫂人の言い方は非常によくない。どう聞いても誤解を受けるに決まっている。まして、それが親ならば当然のことだ。  櫂人には良くしてもらっているが、それは決して、姫芽に魅力があるからではない。  しかし姫芽の母親にはそんなことは関係ない。当然、気付ける筈もない。 「そうだったの。……ああ、そんなに固くならないで。外は寒いし、良ければ中に入っていかない?」 「ですが……」 「この後予定があるかしら」 「い、いいえ。ですが、急にご迷惑ではありませんか?」 「良いのよ。ほら姫芽、突っ立ってないで、櫂人くんをリビングにご案内して」  姫芽の母親は、言い淀んだ櫂人に断る隙を与えない。  姫芽が転校してから今日まで、家に友人を招いたことはなかった。初めての訪問者に、テンションが上がっているのが分かる。 「ちょ、ちょっとお母さん!?」 「早く。こんなとこいたら寒いでしょう。暖まってもらいなさい」  そう言って、姫芽と櫂人は玄関に残された。  姫芽がどうしようかとおろおろしていると、櫂人が気まずそうに視線を逸らす。それから、剥き出しの手をコートのポケットに突っ込んだ。 「あー……なんかごめん。上がらない方が良いなら、帰るから」  櫂人の言葉に、姫芽はすぐに首を左右に振る。嫌だというわけではないのだ。ただ、親に紹介するようになってしまったような現状に、恥ずかしさがあるだけだ。  姫芽は困惑を振り払って、玄関扉を大きく開いた。 「気にしないで。その、良ければだけど、中にどうぞ」 「それじゃあ、お邪魔します」  コートを腕にかけ、脱いだ靴を端に揃える。高校生男子にしてはあまりに整った礼儀作法に、姫芽は内心で首を傾げた。  リビングに移動してコーヒーを飲みながら、姫芽の母親は櫂人に質問を浴びせていく。そのどれもに真摯に答え、ときにははぐらかす櫂人は、姫芽から見ても落ち着いていて安心するものだった。  話し始めて三十分ほど経った頃、姫芽の母親が良いことを思い付いたとばかりに手をぱんと叩いた。 「──あ、折角だから、二人で出かけてきたら?」  それまで学校での話をしていたので、突然の話題の変化に姫芽は驚き、声を上げる。 「お母さん!?」 「だって、二人とも冬休みでしょう? 園村くんだってわざわざここまで来てくれたんだし」 「でも」  姫芽は隣に座る櫂人をちらりと見上げる。  櫂人は僅かに逡巡する様子を見せたが、視線に気付いて隣に座る姫芽に目を向けた。 「……姫芽ちゃんが構わないなら、少し街を見たいかな。どう?」  櫂人がそう言うと、姫芽はほっと小さく息を吐く。このままここでいつ終わるか分からない会話を母親と続けるより、二人で外出の方がずっと心臓に優しい。  それに、冬休みに二人で出かけるなど、まるでデートのようだ。そう考えると、心臓に優しいというのは気のせいだったようにも思えるが。 「それなら……待ってて。今、コート取ってくる」  姫芽は自分が飲んでいたコーヒーカップを台所のシンクに置いて、急ぎ足でリビングを出た。二階の自室に戻って、ベージュのコートを羽織る。それから少し迷って、纏めていたヘアゴムを解いて、櫂人から貰ったヘアクリップでハーフアップにした。  ニットのマフラーを巻いて、鏡を確認する。今更化粧を直しても仕方ないと思いながらも、色つきリップを唇に乗せた。  つけたままだった暖房を消して、部屋を出る。  リビングに戻ると、櫂人が姫芽に視線を向けた。その目が、姫芽の髪を見て僅かに見張られる。  姫芽は赤くなってしまいそうな頬を平常心を言い聞かせながら無理矢理押さえる。母親に男子に照れている姿など見せたくはなかった。 「お待たせ」  姫芽の声で、櫂人が立ち上がる。 「お邪魔しました」 「いえいえ、何かあれば、いつでも遊びにいらっしゃい」  櫂人はまた頭を下げて、玄関で靴を履く。  手に持っていたコートを姫芽の母親にここで着るようにと勧められて、礼を言って袖を通した。姫芽が返したマフラーも、首に巻いている。 「それじゃあ、いってきます」 「いってらっしゃい」  姫芽は櫂人と共に街の方へと足を向けた。  クリスマス会をしたカラオケボックスがある辺りまで、歩いていける距離だ。まだ店もやっているから、見るものはあるだろう。  家を出ると、冬の冷たい風が姫芽と櫂人の間を擦り抜けていく。  櫂人から当然のように手を繋がれたが、姫芽はそれを咎めることはしなかった。  クリスマスツリーは撤去されているが、夜にはイルミネーションが街を彩っているようだ。街灯の雪を模した飾りはそのままにされている。  師走の街は、普段よりどこか忙しない。冬休みだからと出歩いている学生達と、年末の仕事納めのために今にも駆け出しそうな速さで移動するサラリーマン。正月飾りの準備をする個人商店の店主達は、どこか楽しそうだ。  あまりよく知らない街であろうに、櫂人は楽しそうに姫芽の手を引いている。 「姫芽ちゃん、どこか行きたいとこある?」  櫂人が姫芽に問いかけた。  しかし勢いで出てきてしまった姫芽に目的地などある筈もない。そもそも、クリスマス会とそれに備えたプレゼントで、正月前の姫芽のお小遣いはあまり残っていない。  母親が出がけにくれたお小遣いは、昼食用。気に入った物を見つけても買い物はできないのだ。  姫芽は首を左右に振って、櫂人に質問を返す。 「私より園村くんが行きたいとこあったら」 「姫芽ちゃんは、この辺りはよく来るの?」 「うーん。実は、あんまり知らないんだよね」  姫芽がこの辺りに引っ越してきたのは今年の八月末だ。  高校生は忙しい。一番近くにある街とはいえ、あまりゆっくり見て回る機会がないまま今日まで過ごしてしまっていた。  櫂人が笑って頷く。 「だよね。じゃあ、ちょっとゆっくり見て回ろうか」 「良いの? 時間大丈夫?」  櫂人が部活に入っていない理由は、バイトが忙しいからだった。学生のバイト先の定番である飲食店は、今がかき入れ時だろう。 「大丈夫。今日はバイト無いから」  櫂人が近くの雑貨屋を指さす。ハンドメイドの小物を扱っている店のようだ。ショーウインドウには、可愛らしい人形と、性別を問わず使えそうな革小物が並んでいる。 「そっか。じゃあ、お言葉に甘えるね」 「そうして。せっかくだから、楽しもう」  それから二人は、何件かの店を回った。特に何を買うわけでもなく、ふらふらと服や雑貨、文房具等を見て回る。目的の無い買い物だったが、櫂人も楽しそうにしていた。  そうしている内に時間が過ぎ、昼食を食べようと、近くのファーストフード店に移動した。季節限定のセットを頼んで、向かい合って座る。  暖房が効いた店内で、姫芽はほっと息を吐いた。  とりとめのない話をしていたが、しばらく食べ進んだところで、櫂人が話題を変えた。 「姫芽ちゃん家って、なんか暖かいね」  櫂人がジュースのカップの表面を指先で撫でながら言う。  姫芽は家族を褒められた気恥ずかしさに苦笑した。 「そうかな? 普通だと思うんだけど」 「うん。なんか、姫芽ちゃん、って感じがしたよ」  そう言って、櫂人は目を伏せた。それはハンバーガーを食べるためのものなのか、それとも自分の家族に思いを馳せているのか、姫芽には判断できない。  思い出したのは、文化祭のときに会ったあの男性。あの人は、櫂人の兄だと言っていた。 「そういえば、その……」  あの男性は、気になることを言っていた。  姫芽ははぐらかされるかもしれないことを承知で言葉を続けた。 「園村くんって、実家で暮らしてないの?」  櫂人は僅かに目を見開いて、それからふっと肩の力を抜いた。 「あー……文化祭のときか」 「うん。聞かれたくなかったら、ごめん」  姫芽が言うと、櫂人は首を振ってそれを否定する。それから、右手の人差し指を口の前で立てた。どこか表情が硬い。  秘密の話だと理解した姫芽は、櫂人に顔を寄せる。 「いいよ。──じつは俺、一人暮らししてるんだよね」 「……え? 一人暮らし?」  その言葉に、姫芽はぽかんと口を開けた。姫芽と櫂人は高校二年生だ。一人暮らしをするにはまだ早い年齢のように思う。 「そう。まあ色んな理由があるんだけど、一番は『兄様』の邪魔にならないように、ってのが理由かな」  あの文化祭の日の男性は、いかにも厳しい社会人のような見た目をしていた。遠目に見た感じ歳が離れているようだったが、仲が悪いのだろうか。  確かにあの日の櫂人は、少し様子がおかしかった。 「──……兄弟喧嘩?」 「は、ははは、そうだね。兄弟喧嘩だ」  櫂人は姫芽の言葉に、不意を突かれたかのように笑う。   「でも危ないから、もし姫芽ちゃんが偶然会ったりしても、絶対ついてったりしないで」 「それって──」 「そうだ。ちょっと待って」  姫芽の言葉を遮って、櫂人がスマホを取り出した。  少しして姫芽のスマホが震え、メッセージが届いたことを知らせる。  櫂人に促されて確認すると、それは櫂人からのメッセージで、電話番号と住所が記載されていた。住所には建物名が入っている。部屋番号が四桁だから、きっとマンションだろう。 「俺の家の住所と、スマホの番号。万一何かあったら、連絡して。もしスマホが無くても、繋がらなくても、家に来てくれれば連絡は取れるから。一応コンシェルジュにも伝えておく」 「コンシェルジュ?」  聞き慣れない言葉に、姫芽が首を傾げる。 「マンションの入り口にいる人。急に来ることになったときには、声をかければ良いから」  マンションの入り口に人がいる。姫芽のイメージでは、それは高級なマンションだ。  もしかして櫂人の家はすごいお金持ちなのかもしれないと、姫芽は僅かに身を引いた。もしそうなら、兄弟喧嘩というのは、どろどろの相続争いだったりするのだろうか。だとしたら、非常に怖い。  櫂人のことが心配になるが、姫芽自身が巻き込まれるのは、もっと怖い。そう思ってしまう自分が、情けない。 「あ、はい」 「何で突然敬語? とにかく、一人で解決しようとせず、頼ってほしいな。良い?」  櫂人が念を押す。 「……うん」  姫芽は頷いて、いつの間にか冷えていた指先を温めるようにハンバーガーを両手で持ち、口に運んだ。  昼食を終えて、店を出た。 「それじゃ、行こう」  櫂人が当然のように姫芽に左手を差し出す。姫芽がその手に手を重ねると、きゅっと軽く握られた。手を握られた温度が途端に身体中を駆け巡る。温かさと共に伝わるのは、痺れるような多幸感だ。  この感情に任せてしまったら、あっという間に駄目になってしまいそうな気がする。  それでも抗い難いのは、慣れてしまったからか、それとも姫芽の中のセリーナの感情か。櫂人の前世を信じるのなら、姫芽の無意識下にセリーナがいる。  この感情がセリーナのものではなく姫芽自身のものであると、どうして言えるだろう。迷いながらも、繋いだ手を離す勇気もない。 「学校がないと、姫芽ちゃんに会えないんだよね」 「それは、そうだよ」  櫂人の言葉に言外の意味を拾った姫芽は、頬を僅かに赤くする。ついそっけない返事になってしまったが、気を悪くさせていないだろうか。  そう思った姫芽はそろそろと顔を上げて櫂人の表情を確認する。視線が顔まで行き着いたそのとき、穏やかに微笑む櫂人と視線が搦んだ。 「ちょっと寂しいなって思って」  口元には微笑みをたたえたまま、僅かに目尻を下げる。その表情は、櫂人の顔に載ると破壊力が絶大だ。  姫芽は咄嗟に俯いて顔を隠す。こんなところ、見られたくはない。  櫂人は姫芽の状況を知ってか知らでか、視線を前方に戻した。姫芽にあわせてゆっくりとした歩調にしてくれているのがまた、姫芽の乙女心に刺さる。  櫂人はあえて話題を変えることにしたようで、近くのパティスリーを指さした。 「──あ、あの店入っていい?」 「うん、いいよ」  姫芽は頷いて、櫂人についていく。  可愛らしい店だった。ケーキと、焼き菓子と、チョコレート。そのどれもがショーケースの中に行儀良く並んでいる。 「姫芽ちゃん、この店来たことある?」 「うん。ここ、ケーキ買ったりしてる」 「そっか。ケーキ以外でおすすめは?」 「それなら、マカロンかなぁ。美味しかったよ」  櫂人は頷いて、姫芽の言う通りマカロンを選んだ。誰かへの贈り物にするのだろうか、ピンクのリボンをかけてもらっている。  姫芽は店の端でそれを眺めながら、ほうと小さく息を吐いた。なんだか、今日はずっと鼓動が煩い。こんなことは初めてだった。落ち着かなくて不安になるはずなのに、嫌ではなかった。  その感情の名前を、姫芽は知っている。しかし素直に認めたくないものであることも、同時に理解していた。  受け入れるのが怖い。  この気持ちを受け入れてしまえば、逃げられない。姫芽自身の感情であると認めてしまったら、もう戻れなくなってしまう。  櫂人と出会う前の日常に、戻れなくなってしまう。  買い物を終えた二人は、駅の改札前で足を止めた。  もうすぐ日が暮れる。まだ遅い時間でもないが、朝から一緒にいたのだと思えば、そろそろ帰る頃合だった。  姫芽は家まで送るという櫂人を説得し、電車で帰る櫂人を駅まで送ってきた。 「姫芽ちゃん」  櫂人が姫芽の名前を呼ぶ。 「今日はありがとう。これ、良ければ帰って食べて」 「そんな、何で」  櫂人が姫芽に差し出したのは、さっき買っていたマカロンだ。確かに姫芽のおすすめを聞いていたが、こうして贈られるとは思っていなかった。 「付き合ってくれたお礼。今日はありがとう、楽しかった」 「そんな。私も楽しかったから、貰えない──」  姫芽が咄嗟にそう返すと、櫂人は目を見開いて固まった。  姫芽は、言葉を切って櫂人の顔をまじまじと見詰める。 「楽しかった?」 「……うん」 「そっか。良かった」  瞬間の笑顔を、どう表現したら良いだろう。姫芽にはとても思い付かない。姫芽の心に刻まれたのは、この笑顔を誰にも見られたくないという幼い独占欲だ。  櫂人が改めて袋を差し出し、姫芽の手を取って持ち手を握らせる。 「やっぱり、それは受け取ってよ。代わりに、俺ともう一回約束してほしい」 「約束?」 「そう。この冬休み中に、また姫芽ちゃんの顔が見たいから」  手が、離れる。  いつの間にか日が沈んでいた。駅の構内に、蛍光灯の明かりが眩しい。  温もりを失った手が、強烈に櫂人を求めている。  瞬間、姫芽は、呼吸を忘れていた。 「──……いい、よ」  頷いた姫芽に、櫂人がまた微笑む。  姫芽が言葉を見つけるよりも早く、アナウンスが響き渡った。櫂人が乗る電車がもうすぐ着くらしい。 「それじゃ、また連絡するね」 「うん。ありがとう。気を付けてね!」  手を振った櫂人が、改札の向こうにある階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。高校生男子らしいその背中に、思わず笑いが漏れた。  見えなくなるまで見送って、くるりと駅に背を向ける。  今から帰ったら、夕食の支度を手伝えるだろう。そう思って歩き出した姫芽の進路を、スーツ姿の見知らぬ男性が遮った。 「和泉姫芽様でいらっしゃいますね。少々、お時間をいただけますか」  有無を言わさぬ口調は、不審者のそれというよりは職務に忠実な印象を受ける。  息を呑んだ姫芽の脳裏に、誰かの泣き顔が浮かんだ気が、した。
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