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台所に行きたいだけなのに
「おなか、空いたなぁ」
つい口に出してしまい、慌てて口を手で覆う。
だけどそんなことをしたって、吐いた言葉は戻らない。
それに、もう今のつぶやき――にしては大きい声量で発せられた言葉に、
「俺だって腹へったよ」
同室にいた池田が、そっけなくも返事をしてくれた。
池田は、俺の座っているテーブルに背を向けた位置。壁にもたれるようにしてうなだれている。機嫌が悪いときの、彼の定位置だ。
気持ちはわからなくもないけれど、空腹による不機嫌を態度に出されても困る。自分だって立場は同じなのだ。
「じゃあ……台所、行く?」
「行かねぇ」
即答である。
この学生寮には今、珍しく寮母がいない。
ほとんどの学生が実家に帰る、お盆の数日間。学生も寮母もいない日がある。つまり、今だ。
この時期だけは、普段は寮生が使えない台所の一部設備が解放される。とは言っても、火事の可能性があるのでコンロは使えない。使えるのは電子レンジと電気ケトルだけだが、それだけあれば食事に困ることはない。
冷蔵庫の中に、温めるだけで食べられるレトルト食品やインスタ食品を各種豊富に備えてある。
お気に入りのカップ麺、大きなお揚げの入った赤いうどんももちろん用意している。
だから、台所に行って、ぽちっとボタンを押す。お湯を注ぐ。しばし待つ。それだけで、空腹を満たすことができる。
できるのだが……俺たちは、この部屋を出ようとしない。
最初に「腹減ったし、もう夕飯にするか」「いいねぇ。俺、今日グラタンにしちゃお」なんて話したのはいつだったろうか。ずいぶん昔のことのように思える。時計を確かめてみると、2時間前のようだ。
そりゃあ、さすがに厳しいよ。俺たち、育ち盛りの男の子なんですよ?
「なぁ」
池田が、妙に明るい声を出した。
「ジャンケンしかないよな?」
「え? まさか負けたら行けってこと?」
「そう」
「簡単に言うなよ。罰ゲームってレベルじゃないじゃん!」
さすがに声を荒げる。
いつもこうなると、より強い口調で返してくる池田だが、
「だ、だよな。悪い」
素直に引き下がる。こんなにも弱った様子を見せられると、逆に調子が狂ってしまう。
「でも、本当にどうしよう」
「最悪は……朝を待つ」
日の出は今から、ざっくり数えても6時間は先だ。いくら夏の日の出が早いといっても、俺たちにしてみれば遅すぎる。
「それは、無理」
「だよな」
台所に行く。
ただ、それだけのことが今の俺達にはできないのだ。
いや行こうと思えば行ける。行けるんだよ。でも、あれは行けない。
無理無理無理。
のんきなことを言いながら、この部屋を出た2時間前。
俺たちは——廊下で、幽霊を見てしまったのだ。
それに驚いて。
部屋に引き返してきて。
今に至る。
「池田って、ホラー映画とかよく観てなかった?」
とにかく空腹を忘れよう。そう思って、とりあえずしゃべることにしてみた。
「まぁ、割と」
「じゃあ今の状況、楽しくないの?」
「楽しくねぇ!」
会話作戦は失敗。思ったよりも怒られてしまった。良かれと思ってのことだったのだが裏目に出たようだ。
「実物の幽霊見るのは全然面白くねぇよ」
と思ったが、まだ会話のラリーは続けられそうだ。
ここはなんとしてでも、会話を続けて気を紛らわせないと。
「なんか、幽霊に『実物』っていうの、変な感じだな」
「……あぁ、確かに」
反応がうっすい。
「あ、あれ? そういえば、幽霊とお化けって、違うものを指すんだっけぇ? 教えて~池田先生」
「前に調べたことあるけど、忘れた。覚えてねえ。知らねえ。AIに聞け」
反応はあるけど、冷たい。というか過剰に鋭い。
「あ、ゲームでもする? それとも映画観るとか」
「しねえ。観ねえ」
これはだめだ。完全に、池田が不機嫌モードになった時の返事だ。
そして、池田のこのモードを解除する方法はたった一つ。
そう。食事だ。
このままでは不機嫌モードが限界突破した池田に、何をされるか分からない。
かといって、部屋の外に出ては幽霊に何をされるか分からない。
前門の幽霊。後門の池田。
(池田よりも、俺のほうがピンチかも!)
こんな時に限って、部屋に備蓄していたお菓子は食べつくしてしまった。チョコ菓子でもあれば、せめて池田だけは鎮圧できたのに。
想像以上に自分の置かれている状況がまずい。そう気づき、あれこれ考えていると、
「……なんかさぁ」
気が付くと、池田は立ち上がっていた。
ふらふらと左右に揺れながら、こちらを見下ろしている。
「おかしくねぇ?」
「な、何が?」
「俺たちってさ、生きてるじゃん?」
「い、生きてるよ。ウィー・アー・アライブ!」
見下ろされていると不安になるので、とりあえず立ち上がる。
池田は俺に向かっていたのではないようだ。立ち上がって俺を避けても、歩みを止めない。
ふらふらと左右に揺れながらもゆっくりと、廊下に繋がるドアのほうへと向かっているようだ。
「幽霊ってさ、死んでるじゃん?」
「だろうね」
「死んでるってことはさ。飯、食わないよな?」
「たぶん、食べないんじゃないかな」
訳のわからない会話をしていると、池田はやがてドアの前に立ち、そこでようやく止まった。
「死んで飯も食えないような奴に、どうして生きている俺の飯が邪魔されなきゃいけないわけ?」
振り返った池田の目は——それはもう、見事なまでにキレてらっしゃった。
いつもクールで知的な池田君。おなかが減ると機嫌が悪くなる池田君。
「つうかダメだろ。誰だろうと、食事を邪魔するってのいうのはさぁ」
まさか空腹と恐怖のあまり、幽霊にまでキレるような危険な男だったとは。
「納得できねぇ! 俺は行くぞ!」
「お、お供します!」
しまった。ノリで子分みたいな台詞が出てしまった。
「うむ。ならば共に来い」
こっちはこっちで、変な大将キャラだ!
だが、今はこの腹ペコ大将に従うしか道はない——かどうかも判断できないくらい、おなかが空いた!
池田の大将が壊れんばかりの勢いで、ドアを開け放った。
そのままの勢いを落とすことなく、ずんずんと足音を立てて廊下を進んでいく様子を、一旦俺は部屋の中から耳をそばだてて確かめる。
もしかしたら、「やっぱ無理!」って叫びながら池田の大将が引き返してくるのでは……とも思ったからだ。
だが、そんな様子はない。足音は止まらない。
このままでは大将に置いて行かれる。一人になるのは、また怖い。
俺も慌てて、腹ペコ大将を追って、廊下に飛び出した。
確かに、2時間前に見た幽霊の姿はそこにはない。だが大将の姿ももう見えなくなっていたので、急いで台所へと駆けていった。
「なんだか、ビビッて損したな」
魚肉ソーセージを手にして、池田が言う。ソーセージを一口頬張った途端、大将はいつもの池田に戻ってくれた。
池田は片手にソーセージと電気ケトル。
俺はカップ麺4つを重ねて、両手で抑えて持っている。
幸いにも幽霊はいなくなっていたが、2人とも台所でお湯を入れて待つ、という選択はできなかった。だって怖いもん。
俺たちは阿吽の呼吸で役割を分担し、そして部屋で夕飯をとることに決めた。
ちくしょう。本当はグラタンをレンチンしたかったのに。しかし、贅沢は言っていられない。電子レンジを使う暇も、解凍を待つ余裕もなかった。
だが、台所から俺たちの部屋までの道すがらにも、幽霊は現れなかった。
あの一瞬。運悪く俺たちは顔を合わせてしまっただけなのだろう。それを2時間も警戒して、部屋から出られずにいたと思うと、数分前までの自分たちは実に滑稽だ。なんてことを俺だけでなく、きっと池田も思っていたに違いない。
だが、俺たちは甘かった。
池田が見ていたホラー映画でもある手法だ。
人を効果的に驚かすにはまず一度、油断させるのが有効なのだ。
先に部屋へと入ったのは池田だった。
池田が部屋に入るなり、ぽとりと何かが落ちる音。
なんだろうと思って、床に目を落とすと、それは食べかけのソーセージ。まだ一口分しか食べられていないソーセージが床に落っこちていたのだ。実にもったいない。
「おい池田」
言いかけて、顔を上げた俺は絶句した。
部屋の中。さっきまで俺が座っていた位置。
そこには、2時間前は廊下にいた幽霊が——ちょこんと正座している。
意外にも悲鳴は出なかった。
さっきは薄暗い廊下に、ぼんやりと下半身の透けた男の姿が浮いていたのを見て思わず声が出た。だが、今回は違う。驚きはあるが、不思議と冷静になれた。
よく見ると下半身よりも多少濃いだけで、上半身も透けている。男だ。年齢は俺たちと近そうで、大人には見えない。多分俺たち同じ学生だろう。だから一瞬、「ここの寮生かな?」と思えなくもなかった。だが、こんな透明感のある寮生はいない。いたら絶対覚えてるね。逆に。
幽霊はゆっくりと顔を上げ、こちらを見る。
そして口を開けて、
『さっき——』
「お前なぁ!!」
幽霊の言葉を遮ったのは、甦った腹ペコ大将こと池田であった。
どうやら一口分のソーセージでは、台所から部屋までの距離分しか彼を満たせなかったらしい。
「ビックリさせんじゃねえよ! お前のせいで、おま、魚肉さーーん!!」
膝をつき、残念ながら玄関タイルの上に落ちてしまった魚肉ソーセージさんの安否を確認する大将。
しかし残念ながら大将。その魚肉さんはもう助からないよ。
間違っても拾ってヒョイパクしないでね。
『す……すみません』
か細い声が耳に入る。
それは明らかに、俺でも池田でもない声。そして、さっきちょっとだけ聞こえて、すぐに遮られた声。
そう、幽霊の声だった。
『さっきも、驚かせてしまったみたいで。あ、謝ろうと思って』
「だからって勝手に部屋入るなよ! 座ってんなよ!」
大将は止まらない。
俺は幽霊が口をきいたことも、謝罪したことにも驚いて絶句しているだけ。
しかし腹ペコ大将の前では、どんなに貴重な超常現象体験も、魚肉ソーセージ以下なのである。
『な、何から何まですみません』
「謝らなくていいから! ホラ、そこどいて!」
大将は幽霊を手で払い、幽霊はそそくさと場を譲る。その位置が、テーブル上にケトルを置いた時に、ちょうど座ったままコンセントに手が届くベストポジションなのだ。
つまり、池田は幽霊を無視して、カップ麺を食べる気でいる!
これにはさすがに口を出さずにはいられない。
「お、おい。そうじゃないだろ!」
「分かってるよ! ちゃんと2人分作るから」
違うぞ池田。でも俺のこと忘れてなくて嬉しいよ池田。
だけど違うぞ池田。
「いや、飯も食べたいんだけどさ。その、その人どうするの!?」
「……じゃあ3人分作るよ!」
なぜ逆ギレするんだ池田。
池田がここまでおかしくなったのを初めて見たので、正直自分にもどうしていいかわからない。それとも、空腹と恐怖のダブルパンチで池田は壊れてしまったのだろうか。
『あ、僕の分は大丈夫です』
丁寧に頭を下げる幽霊さん。それを見て池田は、分かったとばかりに頷いて見せた。
今、俺を見せられているのだろう。自分も、空腹と恐怖という未知の食い合わせにやられてしまったのだろうか。
『じゃあ、支度しながらで良いので。ちょっとお話聞いてもらえますか?』
「どうぞー」
この場で一番冷静なのは、この幽霊なのだろうか。
池田は、粉末スープを一粒もこぼさないつもりのようだ。一瞬も目をカップから離さず、慎重にカップの中に粉末をそそぐ。そして幽霊には適当に返事をする。すごい集中力である。
『自分、昔ここに住んでた者でして』
「OBの幽霊」
やはり敬語を使うべきなのだろうか。
『寮に来たらいろいろ思い出しちゃって。廊下を歩きながらセンチメンタルしてたら、君たちに見られちゃったんです。でも、それはそれでラッキーかなって』
「いや、俺たちはアンラッキーだと思っています」
『そ、そうですよね。ただ、誰にも自分のことが見えるわけじゃないので。その、一応お詫びと、まぁお願いが』
言いながらOB幽霊はちらちらと、時たま背を向ける池田に視線を向ける。
まぁ、幽霊を無視してカップ麺作っている奴なんて、死者であろうと生者であろうと気にはなりますよね。でも、空腹の池田はもう目の前のカップ麺にしか関心がないのであきらめてください。
「その、お願いってなんですか?」
『カップ麺を、食べてみてほしいなって』
「はぁ? カップ麺?」
何を言ってるんだこのOBは。
『自分もよく食べたんですよ。寮母や先輩の目を盗んで食べる、深夜のカップ麺。あの味は、あの経験は唯一無二なんです。まぁ、もう食べることはできないのですが。だからこそ、自分に代わって、食べている人たちを見たいんです」
ああ、それでさっきから池田を、もとい池田の前に置かれたカップ麺を気にしていたのか。
「なんか……もう叶いそうですね」
『タイミングが良かった、てことですかね』
「できた! 食べようぜ」
本当にタイミングの良いことに、池田が声を上げた。
幽霊OBは、どうぞどうぞと言わんばかりに座るよう俺に促してくる。「幽霊に見られながらの食事って何?」という疑問は頭から離れないが、テーブルの上からは香ばしい香りが伝わってくる。あぁ、湯気と共に鼻をつく、この独特な香り。
「やっぱり、カップ麺といえば」
「赤いうどんさんですねぇ」
蓋を取って、池田は俺の前にカップを一つ差し出してくれた。赤いパッケージのカップの中には、独特な形状と触感の平麺。鰹だしとちょっぴりケミカルな香りのスープ。そして、カップの中央には「俺が主役だ」と言わんばかりの大きなお揚げが1枚。
このお揚げを最初に食べるか、最後に食べるかで池田とは白熱した議論を繰り広げたこともある。我々にとって、それぐらい特別なカップ麺。
あぁ、2時間も我慢したからこそ、いつもより一層魅力的に見える!
正直この一瞬、幽霊が部屋にいるなんて事実は正直どうでも良くなった。
今、世界には俺と、赤いうどんさんしかいないかのよう。
『アァッ?』
手にした割り箸をカップに向けた瞬間の俺と池田の頭上。本当に頭上に浮かんでいる幽霊OBが変な声を上げる。
空気読めない幽霊だな。
「なんですか? これ食べてほしいんでしょ?」
さすがに俺のほうも口調が強くなってしまったが仕方ない。俺の空腹も満たされ、幽霊の悲願も果たされるという願ったり叶ったりな食事だ。いったい何の不満があるというのだ。
幽霊はすぐには答えなかった。
少しためらって様子だったが、やがて意を決したように口を開いた。
『自分……緑のそば派なんですよね』
あぁ、そばもいいですよね。先輩。
でもね。今はだめです。
今なら池田の気持ちもわかる。正直、今のこの空腹は、相手が誰だろうと、幽霊だろうと邪魔されたくない。
池田は何も言わずに、俺が食べるのを待ってくれていた。ありがとう友よ。額にえぐいくらい血管浮かんでるし、そんな血走った目で俺を見ないでくれ。悪いのは俺じゃない。
俺たちは一瞬視線を交わし、顔の前で合掌。
「「いただきますッ!」」
そして、一気に麺をすすり、スープをのどへと流し込んでいく。
ずるずると音を立て続ける俺と池田。さながらセッションのようだ。その様子を、おろおろしながら幽霊が見ているのがたまに視界の隅に見える。
だが今は、このカップ麺との対話以上に重要なことなど何もない。そう、もうOBだろうと幽霊だろうと関係ないのだ。
『あの、2杯目。おかわりしてはどうでしょう。で、2杯目はそばにしませんか? あのなんとも言えない魅惑の歯ごたえ。カップそばならではの味わいが……ね?』
何か一生懸命にプレゼンしているような気もするが、池田が豪快にスープを飲む音と、俺が麺をずるずるとすする音にかき消されていく。
『あぁ……いいなぁ、自分もおなか空いてきた』
普段なら「幽霊にも食欲あるんですか?」なぁんて突っ込んでいただろうが、今は無理。
だって俺の目の前には、クライマックスのお揚げさんが待ち構えているのだから。
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