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 **  私はここよりずっと北の田舎町で生まれ育った。働かない父に忙しそうな母。何日も着たきりの服、時折行く銭湯、週の何日かは一日一食。それは普通だと思っていた。その辺りのうちはみんなそんな感じだったからだ。それでも父と母が怒鳴りあって物を投げ合って壊したり、取っ組み合いの喧嘩なんて見たことがなかった。ましてや男の人が女の人の髪の毛を掴んで外に放り出して、殴る蹴るの暴行を加えるなんてことはうちでは見たことがなかった。夜中に突然聞こえる叫び声と何かが潰れるような変な音は子どもの私にはオバケよりも恐怖でしかなかった。  けどそれが普通でないことを学校に通い出すと知ることになった。みんな昨日とは違う清潔な服で学校にやって来た。持ち物も新品だった。私は自分の家が他とは違うことを知った。  給食費も払えなかった。担任の教師は何度か家に来ていたけれど、この辺の治安の悪さが怖くなりそのうち何も言わなくなった。私は給食の列の最後に並ぶこととなった。「払えないおうちの子どもが食べられないのは可哀想」という配慮から決まったらしい。人気のおかずの時は食べられない物もあったが、みんなが好きじゃないおかずの時はたくさん食べられた。みんなは私を「かわいそう」と扱った。  中学に入るとそういうわけにはいかなかった。みんな「かわいそう」という余裕はなくなったようだった。給食は今まで通りに食べさせてもらえたが、そのかわりに嫌なことをいっぱい言われた。 「おまえの家ってなんだってな!」誰かがそう言った。どうやら父親には窃盗癖があり、それを母親が謝罪にいき身体で払っているのだという。そんなこと初めて聞いたが、違うという証拠もなかった。それにたとえそれが本当だとしてもそれがどうだというのだろう。私に言わずに警察にいえば済むことなのに。そう答えた私をみんなきみ悪がった。だからいないものとして扱われた。クラスで二人組を作る時に私が余ったとしても、それは余っていないものとして扱われた。課外学習や修学旅行はそもそもお金を払っていないので参加できないし、体育祭や文化祭にも参加しなかった。誰にも何も言われなかった。  国語の授業で習った小説に興味を惹かれた。その続きがどうしても読みたくて図書室に向かった。こそこそと話す声が聞こえた。私は本を持ってカウンターに向かった。そうしたら「ここの本は一週間したら必ず返さなくてはいけない決まりになってます」と係の子に言われた。ああ、本を盗んでいくと思われたんだと初めて気がついた。だから私はちゃんと返しに行った。そしてまた一週間借りた。そして返しに行ってまた借りようとすると、そこには係の子じゃなくて図書室の担当の先生が座っていた。 「この本が好きなの?」そう聞かれて私は頷いた。すると先生は「ついてきて」と私を外へ連れ出した。外に出ると先生は誰かを気にするように周りを見回した。 「私もね、向田邦子が好きなの」そう小さな声で言って上着のポケットから古い文庫本を取り出した。「新装版が出たから新しいの買おうと思って。古いのだけどよかったら貰って」  私は受け取ると黙って頭を下げた。 「今の子は本もあまり読まないし、ましてやこんな古いのをあげても嫌がられるだけだから。好きな人に貰ってもらえて嬉しいわ」  先生は若い女の子みたいにはにかみながらそう言った。私は初めて物を与えてもらった。
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