続・獣の恋

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続・獣の恋

 重量のある尻尾が揺れていた。持ち主の意思に反して、抗い難い快感にゆーらりゆらりと半月を描く。虫の声と風鈴の音が混じる夏の縁側で、東矢は中型犬程度の大きさの獣の背をゆっくりと撫でていた。獣はうっとりと目を細めて弛緩しているが、時折思い出したかのようにピンと尻尾の動きを止めようとしては失敗するということを繰り返していた。白夜の強がりに、東矢はこっそりと口角を上げていた。本当は、ブンブンはち切れんばかりに振りたいに違いないのだ。ピクピク震える耳が、白夜の意地を示していた。 「東矢、祭りを見せてやろう」  うつ伏せていた体を短い四足で持ち上げてフルフルと体を震わせた白夜が、靴脱ぎ石の上にタンと飛び移った。夏の熱気に加え、白夜の重みと体温でしっとりと汗ばみ、肌に張り付いた短パンに空気を吸わせながら、東矢も立ち上がり草履を履く。そして、少し顎を上げて偉そうにしている獣と目を合わせた。  昔出逢った時には、片手で抓み上げることができるくらいに小さく華奢で、東矢は彼――白夜を猫だと思っていた。それが今では、以前見た時よりも四足が太くなり、耳は厚みを増し、尻尾は体の大きさに見合わないくらいに大きく、全体的にコロッとした、まるで柴犬のように成長していた。狐と狼の子と名乗っていたが、成長して狼の血が濃く出ているのかもしれない。 「祭? 祭って今村でやってるやつ?」 「ああ」  ――ボンッ  東矢と一緒に上がっていた靴脱ぎ石から一歩下がり、一瞬のうちに立派な尻尾をもつ柴犬が一人の美しい男に変わる。変化の瞬間、目の前にいた東矢は風圧を感じたが、その仕組みがどうなっているかを見知ることはできなかった。 「すごいね、それ。いつでも変身できるの?」 「ふふん。俺ほどの力があれば造作ないことよ」 「へー。その着物も良く似合っているね」  百九十センチはあろうかという長身の白夜は、銀鼠の着物を粋に着こなしている。灰桜色の丈の長い羽織を肩から掛けて東矢を見下ろす様子は、可愛らしい獣姿の時と違い、なんとも迫力があった。 「ふん。そうか。似合っているか。それは良かった」  褒められたことが嬉しいのか、大きく振られた尻尾が羽織の下からはみ出す。動物好きの東矢が目ざとくそれを見つけると、ごまかすように「ゴホンッ」と白夜が咳払いをした。東矢の視線が尻尾の隠れた着物から白夜の顔に戻ると、今度はそわそわと目を泳がせている。 「どうした?」 「いやっ! 大したことではないのだ。いや、本当に大したことではないのだが、と、東矢はユカタを着らぬのか?」  目の合わない白夜の早口に合わせるように、鈴の音がリンリンと短く鳴る。 「ほれ、祭りの日にはユカタを着るのであろう?」 「浴衣? ああ、俺持ってないんだ。それに女の子たちは着るかもしれないけど、俺くらいの歳になると、なかなか着なくなるんだよ」 「そうなのか……」  心なしかシュンとした白夜に首を傾げる。白夜は気持ちを切り替えるように一度その場で垂直に小さく飛び上がった。そのまま羽織が浮き上がるようにもう一度。 「さあ、行こう」 「え、ええー!?」  軽い準備運動のような三度目のジャンプで宙に浮かんだ白夜は、上体を屈めて東矢の両の手を取るとそのまま一気に庭木よりも高く上昇した。家よりも高い場所で両腕を上げてぶら下げられることになった東矢の足から、履いていた草履が庭に向かって落下した。 「ちょ、ちょ、ちょっと!」  空中で体勢を整えた白夜は東矢を引っ張り上げて体を向き合わせると、今度は片手を離して東矢を誘うように歩き出す。  手を離されたことでおのれも草履と同じ運命を辿るのではないかと心配した東矢ははたして、足の裏に確かな感触を持った。空気しか存在しないはずなのに、まるでぷよぷよとしたゴム毬がそこにあるかのようなのだ。足場が安定することはないが、確かに何かがそこにあって、東矢を支えていた。 「……どういうこと?」  それでも当然恐怖感は消えずに、繋がれた右手を固く握りながら先導する白夜に訊ねる。 「俺の下駄が特注品なのだ。山の天狗にこさえてもらった一級品だからな。これを履いていれば空をも跳べる」  飛ぶというよりもゴム毬が地面につかれるように、白夜の体がひとーつ、ふたーつと跳ねる。一拍遅れて、手を繋いでいる東矢の体も跳ねた。 「東矢も作ってもらうといい。俺から手を離すでないぞ。手を離したら最後、このまま真っ逆さまに落ちてしまう」  天狗という単語にポカンと口を開けていた東矢だったが、白夜が発した恐ろしい言葉に全身に緊張が走る。 「そうだ。ギュッと握っておれ」  命の危険さえなければ、夜風の涼しい上空の散歩はさぞ気持ち良いであろう。風に撫でられていた左手でがっしりと白夜の左腕を掴み、ひしっと目をつむった東矢に、白夜は上機嫌で速度を上げた。  一分も経たないうちに、肉の焼ける香ばしい匂いと人々の喧騒が聞こえて、東矢は恐る恐る目を開いて下を見た。それに気づいた白夜が跳躍を小さくする。 「あ……」  眼下に広がるのは、昔から変わることのない集落の祭風景だった。  狭い境内に隣接した砂利だらけの駐車場は、自家用車が六台も停まればいっぱいだ。そこに赤やオレンジのテントを張った屋台が並ぶ。都会のように同じ店がいくつもなんてことはない。焼き鳥は一店舗。焼きもろこし屋も一店舗。おもちゃ屋も、リンゴ飴屋も焼きそば屋だって、みんなみんな一店舗ずつだ。集落のおじいおばあや、この時期だけ里帰りするちょっとやんちゃな仕事に手を染めた里出身の大人が、ここぞとばかりに張り切っている。  暖かみのある提灯が、境内と駐車場にだけ灯され、臨時駐車場となっている向いの空き地には、業者用の車と持ち寄った花火を楽しむ人々。変わらない光景に、東矢は胸が熱くなった。  感動する東矢の横顔を見つめていた白夜は、同じように優しい表情を浮かべていたが、くいっと繋いだ手を引っ張り、東矢の注意をひく。 「行こう」 「え? 祭ってここじゃないの?」  やいややいやとざわめく祭を眼下に、白夜はさらに進む。社の鳥居を飛び越えた時には、信心深いとは言えない東矢でも流石に罰が当たるような気がして、振り返ってひとつ頭を下げておいた。  拝殿を越えて、すぐ後ろにある神様が御座すとされる本殿を越えようとして、東矢は肌に小さな違和感を覚えた。ピリッと小さな抵抗を感じたのだ。  違和感の正体を考える暇もなく、突如として目の前に大きな山が現れた。東矢は慌てて後ろを振り返る。そこにあったのは山。前後どころか、どの方角を見ても、山山山。月明かりにしか頼れない視界ではあったけれども、どう見たってそれは、山の影だった。  東矢の生まれ育った集落には山がない。緑豊かな地ではあったが、山はなかったのだ。 「え、どこ、ここ……」 「俺の里だ」  茫然と正面の山を見つめる東矢の横に立ち、白夜は誇らしげにそう述べた。      ◇  白夜にエスコートされるようにして東矢が降り立ったのは、木々が豊かに生い茂る山の中にあって少し開けた場所だった。東矢の里にある神社の本殿をそのまま大きな鏡に映したような建物が、御神木であろう太い木の枝々とぶつかりながら鎮座し、その正面には小さな広場があった。歪な円形になるようそこだけ木々がなく、草花ばかりが生い茂り、さらに中央になると土が覗いていた。 「――すごいだろう?」 「――もう、なんて言うか……」  自慢げに鼻をピクピクさせる白夜とは全く違う感動で、東矢は眩暈を感じていた。 「わっはっはっは! 祭じゃ、祭じゃ!」 「酒はまだかぁ!?」 「ピュー!」  今まで東矢が見てきた世界は一体なんだったのか。間違っても、尻尾を生やしたおっさんたちが徳利片手に胡坐をかく世界ではないし、熊が大の字でべろんべろんに酔っぱらって兎に躓かれている世界ではない。指笛を鳴らしながら体よりも大きな羽を戴いたお兄ちゃんたちが踊りまわる世界ではないのだ。  所狭しと大勢が集まり、東矢の知らない人々や動物が宴を開く様子を、彼は言葉を失って見つめていた。 「おやー? おう! 白坊じゃねえか! おめさん、今までどこ行っておった?」  頭を縦に揺らしながらふたりの目の前に飛び出してきたのは、肌の色の濃い男だった。一見、東矢の知識にある『人』に見えたが、それにしては鼻が高い。高いというにはおさまらない、前に突き出した棒状の鼻をしている。さらに彼は、烏の羽を特大サイズにしたものを背に背負(しょ)っていた。 「坊と呼ぶな。俺はすでに元服している」  不服そうに異議を申し立てた白夜を、しかし男は大声で笑い飛ばす。 「わっはっはっは! 元服したばかりの坊ちゃんが何を抜かすか! おいらに比べりゃお前さんなんてまだまだ赤ん坊のようなものよ!」  バシバシと肩が揺れるくらいに叩かれた白夜は、男から顔を逸らしてそっぽを向いている。それがさらに笑いを誘ったらしい男は、白夜の横にいた東矢にようやく気づくと笑みを引っ込めて鼻を鳴らした。匂いを嗅がれているらしい。 「おめさん、この人間どうしたんか?」  男が一歩踏み出したために、東矢は思わず一歩下がる。気まずさに視線も下げると、男の履物が白夜のそれとそっくりなことに気がついた。 「触るな。俺の伴侶だ」  男から隠すように東矢の肩を抱き寄せた白夜は、そのまま東矢の頭を押さえて己の肩に埋めさせる。伴侶という言葉に反応したのは、東矢よりも周りにいた男たちだった。ザワリと揺らいだ山に、東矢よりもさらに動揺しているのが伝わってくる。  小さなざわめきはやがて大きくなり、そして次には割れんばかりの雄たけびに変わった。 「坊が伴侶を見つけなすった! これで次代も安泰じゃ!!」 「里はこの先千年も平和じゃ!」  「あぁ、めでたい」「呑みなおそう」と、あちらこちらから歓喜の声が聞こえる。白夜に抱き込まれていた東矢は、着物に染みついた花の香りを嗅ぎながら、頭を真っ白にしてそれを聞いていた。 (ちょっと待ってくれ。なんだか大変なことになっていないか?)  東矢たちが降り立った時にはファッション談話に花を咲かせていたはずの女たちまでもが、「あぁめでたい」と歌いだす。 (俺、伴侶になること認めてないけど……)  代わる代わるに人々がやって来ては、「おめでとうございます」と白夜に祝辞を述べていく。背中と尻しか見えていないはずの東矢にも、「歓迎いたします」となんとも理解ある言葉を贈る。  祝いを貰うたびに白夜の尻尾はバサリと揺れ、回を重ねた今ではバッスン、バッフンと空気を切る音まで聞こえてくる始末。 (こりゃ、まずいぞ)  太い尻尾が勢い余って東矢のむき出しになったふくらはぎを叩くたびに、東矢のこめかみから冷たい汗が流れた。      ◇ 「さっきのは、天狗だ。俺の下駄をこさえたのもあいつなんだが、俺の両親が子どもの時から天狗の長をしているのでな。いつまで経っても俺を子ども扱いするのだ」  どこから湧き出たのか、永遠に続くような祝辞は、「我が伴侶は疲れておる」という白夜の鶴の一声で終わった。わらわらとふたりのまわりに集まっていた人々や獣たちはそれを聞くと、「そうかそうか」とにこやかに道を開けてくれた。中には話を聞きつけて授乳中に二山越えて来た強者もいたらしい。 「――あのさ、白夜ってもしかしてすごい人?」 「ん?」 「いや、だってさ、あの人たちの喜びよう、半端なかったっていうか……」  東矢は、人(?)や動物で溢れかえった広場を後にする際に出会った狸を思い出す。  その狸は木の幹に寄りかかり、奥さんらしき狸から腹に何かを塗ってもらっていた。まるで人のような所作が気になり東矢がじっと見つめていると、視線に気がついた奥さん狸が教えてくれたのだ。曰く、調子に乗って腹を叩きすぎてまっかに腫れてしまったらしい。目を点にした東矢に、夫婦狸は「お幸せにね」と腹をひとつ叩いて見せてくれた。途端、「あいたた……」と唸って腹を抱えた夫狸に、「お大事に」と言葉を返すのが東矢にはやっとだった。 「俺は次期守り人だからな。今は狐神である父と、狼神である母が務めている。世襲制というわけでもないのだが、継ぐ者がいるのであれば自然子に引き継がれる」 「守り人って何?」 「おかしなことを聞く。お前たち人間が付けた名だろう? ――古の契約だ。お前たちが飢えて死なぬように、俺たちは少しばかり人間たちに手を貸す。大雨の時に川が氾濫せぬよう道をつくってやったり、風を弱めてやったりな。代わりにお前たちは、珍しい食べ物を俺たちに寄越す。とはいえ、時代は変わった。お前たちは、多少天候が荒れようが食うに困ることはなくなった。俺たちも人間どもの食べ物くらいなら簡単に手に入るようになった。今となっては、形ばかりのものに過ぎぬのかも知れん。しかし、お前たちはいまだに守り人を神として祀っている。時折こうして大量に酒や魚が供えられる。我々も人の地を守っている」 「……もしかして、守り神様?」 「あぁ、お前たちはそう呼んでいたな」  今日だけで何度驚いただろうか。幼い時、祖父に何度も話して聞かされてきた『守り神様』が実在しただなんて。俄かには信じられなくとも、これだけ立て続けにいろいろなものを見せられた後では信じるほかない。先ほど皆が飲み食いしていたものも、神社へのお供えものだったのか。 (……って。待て待て待て待て! 余計やばいじゃないかっ)  頭を抱えてしゃがみ込んだ東矢を不思議そうに見下ろして、白夜は東の空を見上げた。 「日が昇るまでまだ時間がある。今日は両親とも向こうの殿にいるからな。先に我らの家に案内しよう」      ◇  東矢は頭のどこかで、巨木のむろや洞窟に連れて行かれるのだと信じていた。ところが、大自然の中に忽然と姿を現したのは、山のど真ん中にあるには些か不自然な寝殿造り風の建物だった。身の回りを世話する者はいるものの、ここが白夜の住処だという。 「気にいったか?」  庭に面した数段の階(きざはし)の上、屋敷内を隅から隅まで連れ回された東矢は、膝に手を当ててゼイゼイと息を吐いた。  呑めや歌えやの広場を後にして、山に着いた時と同じく天狗の下駄で跳躍する白夜の腕にぶら下るようにして降り立ったのがここだ。それから休む間もなく、何やら張り切っている様子の白夜に「案内する」と急くように部屋を見せられ、場所場所で出会う獣人たちに微笑ましげに頭を下げられた。それが意味するところを考えると居た堪れなさに東矢の胃がキリキリと痛んだ。  東から昇って来た朝日が白砂を照らしていく。橙から白へ。庭に敷き詰められた石と、太鼓橋の架けられた池がキラキラと光を反射する。なんとも美しい光景だと思う。 「ここが、俺と東矢の屋敷だ」 「はぁ!?」  息を整えることも忘れ、東矢は大袈裟な動作で白夜の顔を振り仰いだ。急に動いたせいで首の筋が少し痛んだ。  腰まで伸ばされた銀の髪にも、山からすっかり顔を出した太陽の光が及ぶ。真っ直ぐに正面を見据えながら言葉を紡いだ白夜は、さすが神の子だけあって神秘的な美しさでそこに存在していた。 (いや、神の子ってことは白夜も神様?) 「ここで、共に生涯を過ごそうぞ」  ――ちりん……  耳に優しい甘やかな声。蕩けそうな慈愛に溢れた茶色い瞳で見つめられた東矢は、何も言えずにそっと目を逸らして俯いた。そんな東矢の旋毛を、白夜は寂しそうに見つめていた。
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