獣の恋

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獣の恋

 それは月の細い夏の夜のことだった。夏期講習を終えた桃尻(ももじり)東矢(とうや)は、コンビニで買ったアイスを片手に自転車を押していた。祖父の躾で、歩きながらものを食べることに抵抗があった東矢も、今宵の暑さには行儀の悪さも目を瞑ってもらうことにした。  ――ちり……ん  ほんの小さくだが、鈴の音が聞こえたように思え、東矢は石壁に自転車を寄せた。ゆっくりした歩調は落とさずに、溶けて垂れかけたアイスを持ち上げ舌で受け止める。棒の部分も舌でひと舐めし、アイスが地面に落ちることを防ぐ。  東矢は素朴な少年だった。子どもの少ないこの集落ではよく子どもらの話が話題にのぼった。そんな中にあって、「あん子はおとなしいねえ」と言われるのが東矢だった。おとなしいからといって幼馴染に嫌がらせを受けることもなく、嘘もつかず、性根が正直で優しい東矢は里の宝としてすくすくと育っていた。ちょっと太めの、八の字に下がった眉毛が、東矢のチャームポイントだ。  中学校の入学時に採寸した学ランは、成長を見越して大きめにこさえてもらったはずなのに、東矢の体にはもう少し窮屈なように見えた。脚を上げる拍子にズボンの裾から踝がちらりと覗く。  民家の壁に沿って進むうちに電柱に突き当り、東矢は後ろを振り返った。先程、ベルの音が聞こえた気がしたからこそ道を開けたというのに、いまだ東矢を抜かした者はいなかった。電柱を過ぎるには、歩道の真ん中に戻らなければならない。安全確認のために振り返った東矢だったが、その先はただただ静寂で暗く、自転車も人もいなかった。 「猫だったのかな」  そう呟いて東矢は正面へと顔を戻した。 「おわっ!」  ――キキッ  東矢はとっさにブレーキを握った。拳からの反動が衝撃となって胸に響く。 「うわ、びっくりしたぁ……」  後方には確かに誰もいなかった。しかし、いつの間にやら、東矢が進む目の先に小学校低学年程度の男の子が立っていたのだ。全く気がつかなかった。電柱で隠れていたのだろうか。  じりじりと点滅を繰り返す錆びた街灯の下で、子どもが真っ直ぐに立っている姿は不気味だ。しかし、そんなことを気にする余裕は今の東矢にはなく、目の前に突如現れた子どもと自転車が衝突しなかったことに胸を撫で下ろしていた。 「うわー。ごめんなあ。俺全然気づかなくて。いやーびっくりした」  安堵から表情が緩んだ東矢に対し、目の前の子どもはひとつも表情を動かさない。ただ無表情で、照れるように頬をかく東矢の顔を見つめている。  子どものシルエットは、見かけこそふくふくと小さく確かに幼いが、その佇まいはどこか余人に触らせないものがあった。座敷童が夜中畳の上にいてこちらを見ているような、良く言えば神秘的な、悪く言えば背筋がすっと寒くなるような雰囲気があった。  何の反応も返さない子どもに、流石に東矢も薄気味悪くなり、「じゃあ……」と小さく断って、子どもの横を通り過ぎようとした。  大体、薄暗い橙色の灯りに浮かび上がる真っ白な――それこそ身ごろから帯まで全身真っ白な着物を着た子どもが、地元の人間も出歩かない時間帯にコンクリートの田舎道に立っているだなんておかしいのだ。  東矢は、子どもの足元や顔を極力目に入れないように真っ直ぐに前だけを向き、すれ違った瞬間には自転車に跨って逃げようとしていた。 「うぎゃあーぅ!」  身の毛もよだつような恐怖で、東矢はその場で飛び上がった。緊張しつつ自転車を押す東矢の右腕にひんやりと冷たいものが当たったのだ。心臓が大きく跳ね、鳥肌の立った皮膚が不快感を煽る。 「やー、やめて!! もう盆は過ぎたからっ!! お帰りくださいっ!! 送り火も焚いてもらったでしょう!?」  ここが外だとか、今は夜だとかそんなことは東矢にはどうだって良かった。尻もちをつき目を瞑ったままみっともなくも裏返った声で、「あっちに行って!」と右手を振る。倒れた自転車のタイヤが東矢の足をひいていたが、そんな痛みも感じていなかった。 「ひぇっ!」  ぶんぶん振り回す東矢の手がぴたりと止んだのは、冷やっこいあれが再び東矢の腕に巻き付いたからだ。東矢は黄泉への旅立ちを悟った。短い人生、最後の一年は高校受験のための勉強三昧だった。やりたいこともこれから探す予定で、彼女だって高校生になったら作るのだとそう思っていた。東矢は涙でぐちょぐちょの顔をさらに歪めた。 「それ、――頂戴」 ――ちり……ん  またあの音だ。涼やかな鈴の音が東矢の耳を揺らした。 「それ、――頂戴?」  重なるように一緒に聞こえたのは、小さく控え目で、だけどどこか品を感じさせる風鈴のような声だった。耳に心地よい声音に、東矢はおずおずと顔を上げた。 「駄目?」  こてりと首を傾げて東矢を見下ろしていたのは、くりっくりの真ん丸な瞳が印象的な子どもだった。表情が付くだけで随分と雰囲気が和らぐ。 「……おばけじゃ、ない?」  東矢は子どもの顔を見上げて、それから恐る恐るその足元へと視線を下ろした。――ちゃんとある。 「あっ」 「え?」  焦ったような声と、ぬめっとした生温い感触。背伸びをした子どもが掴んだままの東矢の腕を引っぱり、小さな舌で彼の手首を舐めていた。そう、先程東矢がしたのと同じように、溶けたアイスを舐めとっていたのだ。  他人に自身の腕を舐められる倒錯的な出来事に、東矢は声も出ず、捕えられた腕をひっこめることもできず、それでも何とか立ち上がって、子どもの頭を見下ろすしかない。そうして、東矢はそれ以上の衝撃を受けることとなった。 「耳っ!! ええっ!? 耳がある!」 「ん」  てのひらまで舐めて満足したのか、子どもは顔を洗う猫のように丸めた手で唇を拭っている。その頭には、ぴこぴこと揺れる獣耳があった。丸いシルエットのボブ頭に猫のような耳。非現実がそこにあった。 「ねえ、それ食べないんだったら頂戴?」  子どもがそれと指さしているのは、もう小さくなって今にも棒から落ちてしまいそうなバニラアイスだ。 「僕ね、お腹すいてるの。だからここまで来ちゃったんだけど、探してるのにごはんないの。ねえ、それ頂戴?」 「え、あ、こんな食べかけでいいなら……」 「ほんと!? やったあ!」  東矢が怖々木の棒を手渡すと、子どもは最初の無表情が嘘のように満面の笑みを浮かべ、ご機嫌に尻尾を揺らした。ふさふさとしたそれは猫ではなく、狼や狐のようだ。  ぱくりと一口で残りを食べ上げた子どもは、それでも棒を口から出すことはなく、いつまでも舐っている。その姿はまるっきり幼い人の子だった。 「ねえ、君、どこから来たの?」  本当は直接的に訊きたいことがいくつかあった。だけどどれも相手を傷つけるような気がして、東矢は思いついた質問の中で一番無難なものを選んだ。 「んーとね。山から」  ガジガジと棒を齧る子どもは答えたが、このあたりに山などあったろうか。自然豊かな田舎集落ではあるが、山に囲まれているわけではない。 「こんな夜遅くに一人でいちゃ危ないでしょ。君、名前は? 今日は親戚の家にでも泊りに来たの?」  東矢は生まれた時からこの集落にいる。どんな人がこの集落に暮らしているのかを彼は当然把握していた。 「白夜(びゃくや)。大丈夫だよ。僕強いから人間なんかに負けないもん。親族も山にいるよ」 「白夜? すごい名前だね。白夜は、――猫なの?」  東矢にだって、おかしなことを訊いている自覚はあった。しかし、これはもう夢だろう、現実であるはずがないのだ、と白夜の耳を近くで見れば見るほどそう思えてきたのだ。夢であれば恐れることはない。相手を傷つけることもないだろう。朝になれば醒めるのだ。東矢は少し大胆になった。 「猫? ねーこー!?」 「じゃあ、狐?」  平べったい棒をガジリと歯でへし折った白夜が、癇癪をおこした時の弟に似ていて、東矢は低い位置にある白夜の頭をつい撫でた。そのついでに、気になって仕方がなかった柔らかそうな三角の耳も親指で擽った。耳に触った途端、白夜は警戒するようにぴんと耳を天に向けたが、気持ちが良かったようで次第にくにゃっと垂れてくる。 「ふふふ……かわいいなあー」  東矢は動物が好きだ。一緒に暮らす祖父の方針でペットを飼うことはできないが、幼馴染の幹太の家の犬をよく可愛がっていた。ご機嫌にゆっくり揺れるふさふさの尻尾も撫でてみたい、東矢がそう思って体を屈めようとした時、それまで大人しくしていた白夜がまるで本物の猫のように俊敏に後ろに飛び退った。そして、そのまま細い塀の上に跳躍する。 「あ、ごめん。尻尾触らないから……」  もふもふとした感触がなくなり手元が寂しくなった東矢が間を開けずに謝るも、白夜が下りてくる気配はない。バサッと音が鳴るほど毛量の多い箒のような尻尾をひと揺らしして、白夜は塀に両手をついた。 「わたしは次代守り人白夜! 狐神と狼神の子なり。そなたからのきゅうあいしかと受け取った! そなた、名を何と言う?」 「え、東矢。桃尻東矢」 「とーやをわたしのはんりょといたす」  白夜は子ども特有の高く、だけど彼に与えられた風鈴のような耳に優しい声で高々と宣言をした。途中、言い慣れていないのか、それともいまいち自信がないのか舌がうまく回っていない箇所もあったが、守り人の血をひいた白夜の言霊は確かに現在この地を守っている狐神と狼神に聞き入れられた。  東矢が聞き取れなかった箇所こそ、東矢にとって重大な意味を成すものであったが、はたして東矢の知るところではなかった。 「とーや、僕はまだげんぷくしてないからはんりょ契約はきちんとできないんだ。でも、僕もとーやの気、すごく好きだから、今はかんい契約で我慢してね」 「ん? かいい?」  またもや大切なところを舌足らずに誤魔化した白夜に東矢は首を傾げる。それでも、尻尾をふりふりしながら何やら一生懸命に、しかも自分の事を好きだという白夜がとりあえず可愛い。東矢は己の人生が変わってしまったことなどつゆ知らず、目尻をさげて「ああ、かわいいなあ」とほんわかしていた。 ――ボフンッ  そんな東矢の視線を受けて、白夜は少しだけ格好をつけながら顎を上げた。一瞬で毛並みの美しい獣に転じた白夜は最後に一鳴きすると、鈴の余韻を残しながら夜の闇へと紛れて消えていってしまった。 「うん。うん。やっぱり夢だ」  摩訶不思議な出来事をそう結論付けた東矢は、倒れていた自転車をおこし、溝の方に飛んでしまっていた黒い学生鞄とジャージの入ったビニールバックを籠に戻して自転車に跨ると、スピードを上げて帰った。早くしなければ街灯も消えてしまう。  帰宅した東矢は、いつもより帰りが遅かったことを母親に咎められ、こんなところばかりはひどく現実的な夢だなあと感心しながら、今度こそ本当に就寝した。      ◇  残暑厳しい夏の夕方、東矢は涼を求めて縁側に出ていた。たて付けの悪くなった雨戸は、今日も中途半端に戸袋に収まりきれていない。 東矢は現在、都内の大学に通っていた。なんせこの集落には、大学はおろか通える範囲に高校すらもないものだから、東矢は高校進学とともに家を出ていた。  田舎育ちの東矢は多くの友人たちと同じように都会に憧れていたが、やっぱりこの地が落ち着くし、一番清涼に感じる。幼い頃よく祖父に聞いていたこの地を守る神様方のおかげだろうか。  遠くに太鼓の響きや賑やかな声が聞こえ、近くには風鈴の音が聞こえる。何とも夏らしい演出に東矢の口元も自然と綻びた。 「東矢は行かんのね!」 「ああ、留守番しとくから母さんたち行っといでよ!」  玄関の方で出掛け支度をしているらしい母親の大声に返事をして、東矢はその場に背中から寝転んだ。前日の夜に東京を出て、今日の昼過ぎにようやく帰省した東矢は眠たかった。  むき出した腕に縁側の板張りが気持ち良い。今日は集落の守り神様を祀った神社で祭りが行われている。出店の数は片手で足りるほど、打ち上げ花火などあるはずもない、こじんまりとしたこの地らしい祭りだ。 (小さい頃はじいちゃんに手を引かれて綿菓子買ってもらったよなあ……) ――ちり……ん  鈴の音がした。 ――ちり……ん  梁にぶら下げた風鈴とは趣の異なるそれに、東矢の記憶が揺すぶられる。 ――ちり……ん 「東矢。迎えに来た」  涼やかな声に甘さが交じり、声変わりを済ませたそれは東矢の知らないもの。しかし、どこか懐かしさを感じた東矢は、瞼の上に乗せていた腕を外しゆっくりと体をおこすと、縁側から足を下ろして、庭に佇むその人を見た。  風にそよぐ長い銀の髪はところどころ山吹色が混じっている。日本人離れした体格は、長身の東矢よりもさらに十センチは高そうだ。目測百九十センチといったところか。厳つくはないが肩幅もあり、腰も高く、さらりと着こなした着物が粋であった。出逢った時には、全身真っ白であったものがいまや色を纏い、広めに開けられた襟元が男を感じさせた。銀鼠の衣に丈の長い灰桜の羽織を肩に引っ掛け、それもまた風に揺れる。 「……白夜?」  とっさに思い出すことなどなかった。中学生の頃に見た夢のことなど今の今まで忘れていた。思い出すことができたのは、鈴の音と、そしてこの土地のおかげだろう。 「随分遅くなってしまった」 「――これは夢?」 「何故? 夢であってなるものか。俺は随分とこの日を待ちわびたのだ。せっかく元服したというのに、お前ときたらいつ来ても留守にしている」 「え、あ。俺今は別のとこで暮らしてるから」 「そうだろう。この地にいたのであれば、俺にだって感知できた。――東矢、会いたかった」  香を焚きつけたような花の香りが東矢の鼻を擽った。そうすることが当然であるかのごとく腕を広げて腰を屈め、東矢をその広い胸に抱きしめた白夜は、まるで幼い頃からの宝物を見つけたかのように満ち足りた表情を浮かべている。長い睫を伏せ、閉じた栗色の瞳は、東矢をもっとよく感じたいと言わんばかりだ。  白夜の羽織に隠される形となった東矢は戸惑いのままにただ瞬きを繰り返していた。視界の端で髪の毛よりも幾分濃い色をした大ぶりの尻尾が揺れている。 「あの時の白夜だよな?」 「ああ、そうだ。あの時は力のないただの子どもだったが、俺はもう東矢を伴侶として迎えることができる」 「……伴侶?」 「ああ。あの時、俺に食べ物を恵んでくれただけでなく、東矢は俺に求愛までしてくれた。運命の相手に出逢ったその瞬間に求愛をされるなど、なんと俺は果報者であろうか」 「求愛!?」 「俺の耳を撫でただろう」  白夜に耳を触られ、東矢は擽ったさから逃げつつ記憶を辿った。確かに撫でたかもしれない。正直覚えていないけれど、動物好きの自分のことだ、きっと目の前の誘惑に負けて撫でたに違いない。しかし東矢に求婚の意図は全くない。  東矢の行動を求婚だと思い込んで、そして何年も信じていた白夜にそのままを伝えるにはあまりに気の毒に思う。知らなかったこととはいえ、東矢のしたことで白夜の人生を変えてしまっているのだ。 「えーっと……」 「あの時は東矢の気持ちに応えることができなかったが、今はできる」  ふふん、と言わんばかりの白夜は可愛い。東矢よりもよほど男の色気がある白夜であるが、その獣耳と感情のままに動く尻尾が付いただけで無条件に可愛いと東矢は思った。 (不思議な猫の伴侶になったって言ったら、じいちゃん腰抜かすかなあ……)  もしかしたらこれはあの夢の続きかもしれない。だけど、夢でないことも東矢にはちゃんと分かっていた。 「白夜は俺のこと好きなの?」 ――ボフンッ  東矢がそう訊いた途端、それまで愛おしそうに東矢を抱きしめていた白夜が音を立てて消えてしまった。後に残ったのは、白夜が引っ掛けていた灰桜色の羽織だ。突然頭から被ることになってしまった着物を東矢は顔からどかし白夜の姿を捜したが、膝に感じる重みに、さらに残りの衣を捲ると、そこには狐のようなはたまた狼のような獣が東矢の膝に腹をつけ、伏せをしていた。 「白夜?」 「ガウッ」  ぼすんと床を叩くように尻尾を動かした獣は、きまり悪げにそっぽを向いてしまっている。 「……もしかして照れてるの?」 「……ガウッ」 「ハハッ」  たった数年で随分男前に成長したものだと思ったが、白夜はまだまだ子どものようだ。艶のある、しかし硬質な毛皮を撫でながら、東矢ははてどうしたものかと考えていた。
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