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「ほら着いたぞ。ここで寝ろ」
とある襖の前で黒天狗は足を止めた。
白夜はくるっと首を後ろへ向けて様子をのぞく。
どういったわけか、手をかけていないのに襖が勝手にひらいた。
(どうしていま勝手にひらいたの。幽霊屋敷みたい)
寝室だと用意されたその部屋は、十畳ほどの和室で白夜が住んでいた家より広かった。白夜の生家は狭く、寝るスペースは四畳ほどしかなかった。
それを家族四人で共有していたので人数分の布団を敷くことは難しく、白夜は姉の小春と一緒の布団で寝ることが多かった。寝返りを打てば、土壁にあたまをぶつけることもしばしば。
貧乏性が染みついてしまっているのか、これだけ広いとどこに寝ていいのか逆にわからなくなってしまう。
しかも部屋の中には不自然なほどに調度品の類いが一切なかった。まるで造りたてのように綺麗でガランとしている。こんなに立派なお屋敷なんだから箪笥の一つくらいあってもいいだろうに。いや、箪笥を使うあやかしがいないのかも。
「降りないのか?」
「へ……?」
いわれてはたと気がついた。
(あっ、抱っこされたままだった!)
白夜は慌てて体をよじって飛び降りる。
「なんだ。離れたくないのかと思ったんだがな」
「そんなわけ!」
「もう一度、抱っこするか?」
「結構です!」
「それは残念だ」
くくく、とまた肩をふるわせる。
白夜は真っ赤になった頬をぷうっと膨らませた。
「焼き餅のようだな」
「うるさいよ」
「まったく口の悪い童だ」
「ひとのこと言えないでしょ」
「まあな。ではゆっくり休めよ、白夜。明日は食われんように気をつけろ」
ピクッと白夜の耳が跳ねる。
ほぼ反射的に。ひらひらと手を振った黒天狗の衣の裾をぱしっとつかみとめた。
「なんで? さっき、あやかしにいってたでしょ。白夜には手だしするなって。だから大丈夫なんじゃないの?」
「相手はあやかしだぞ。いうことを聞く奴もいれば、聞かない奴もいる」
「黒天狗の命令でも?」
「そうだな。勝手気ままなのがあやかしだからな。俺は感知せん」
「そんな……。俺との約束は⁉」
「ああ、そうだったな。しかし、俺もあやかしだからな」
「え」
つまり、黒天狗も勝手気ままだと。
いや、うん。そんな気はしてたけど。
ニヤリと笑った黒天狗は、ずいっと顔を突きだした。
「おまえがかわいらしくおねだりすれば、明日も迎えにきてやろう」
紫色の瞳が悪戯に輝きを増す。
「おね、だり?」
「ああ。したことがないのか? なあに簡単なことだ。明日も迎えに来てくださいといって、口づけをすればいい」
「また⁉」
「またとはなんだ。あんなもの数のうちに入らんだろう」
「あんなものって。俺には一大事……」
「ほら。おねだりしないのか? では行くぞ」
黒天狗はふいっと背を向ける。白夜は口を一文字に結んでつかんだ衣の裾をグイッと引っ張った。
「――なんだ」
「……て……さい」
「ん?」
「明日も……迎えにきて、ください」
「もう一つ忘れ……」
いいかけたところで白夜はバタバタと黒天狗の正面にまわり、肩に手を乗せてつま先立ちになると、ちゅっと唇を重ね合わせた。
黒天狗の目が驚いたように見ひらかれる。
「……おや、すみ」
なんとか言葉を絞りだしたものの、顔が噴火しそうだ。
ストンと踵を床に下ろした瞬間、怒濤の勢いで部屋に舞い戻る。
そしてピシャンッ! と襖を閉じ、あたまを抱えてうずくまった。
(恥ずかしいいッ!)
閉ざされた襖の奥で、くくくという笑い声がかすかに耳に届いた。
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