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親知らずの抜歯のために訪れた歯医者にも、当然のように獣はついてきた。受付で名前を呼ばれ、不本意ながら虎を引き連れて処置室に入る。
「うわ、ちょっと邪魔ですねえ」
担当の歯科医がぼやいた。
「ですよね。すみません」
私も被害者なのだが、なんとなく謝ってみる。
うながされて椅子に座ると、歯科助手のお姉さんに紙の前かけをつけられ背が後ろ向きに倒される。顔にタオルをかけられて何も見えなくなった。
「開けてくださいー。麻酔からしていきますよー。ちくっとしまーす」
この麻酔が一番痛い。右手で左手首を握りしめて耐える。
麻酔さえ効いてしまえば、強い痛みはない。が、音が怖い。ミシミシと歯をへし折るような音が頭蓋に響き、骨ごと砕けるのではないかと慄いてしまう。
めきぃ!と恐ろしい音がして内心竦み上がったとき。
『おなかすいた』
誰かが言った。男とも女ともつかない声。幼い子供のような口調だった。
明らかに医師の声でも助手のお姉さんの声でもない。ほかに処置室にいるのは、無防備そのものの体勢で転がって口中を好き勝手にいじりまわされている私と、例の虎だけだ。
「もうすぐ抜けますからねーあとにしてくださいねー」
医師は処置を続行した。プロ意識が尋常ではない。
虎が空腹を訴えている。人間が猛獣から聞く言葉としては、考えうる限り最悪だった。
抜歯は滞りなく済んだ。椅子が起こされ顔にかけられたタオルを取ってもらう。眩しさに目を瞬かせて足元を見ると、虎はだらりと寝そべって、しかしこちらをじっと見つめていた。
「お疲れ様でしたー」
虎の下腹を跨ぐように医師は立っていた。血まみれの歯を銀色のトレイに載せて見せてくる。
「はい、これ、ちゃんと抜けましたからねー」
「あ、はい。ありがとうございます」
医師は満足げに頷くと、薄水色の手袋をした指で歯を摘み足元を見て言った。
「食べる?」
すかさず助手のお姉さんが確認する。
「洗浄しますか?」
虎は見向きもしない。
医師はうーん、とか唸ってみせた後、「まあ、あなたの虎ですからあなたの好きなものを食べさせるといいかもしれませんねー」と無責任なことを言った。
私の好きなもの?
椅子から立ちあがろうとして、床が濡れていることに気づいた。ひどくぬるついてすべる。
虎が身体を起こした。口元から透明な液体がだーっと流れ落ちていた。
医師を振り返る。
「受付で次回の予約とお会計をお願いします」
無情だった。
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