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第8話 月、見える
ギンから咳止めと熱冷ましの薬を処方された楪は、少しして再び眠った。それを見届けてから、ギンは「他の患者の様子を見たら、僕はしばらく部屋に籠るよ。何かあったら呼んでくれ」と立ち上がる。どうやら、解毒薬とやらを本気で作ってくれるらしい。
(どこまで信じたらいいものか……)
改めて、カラスは頭を悩ませた。カラスが楪に薬を渡さなかったのを見て、ギンは「信じてくれてありがとう」と言ってくれたけれど、はっきりと信用できているわけではなかった。彼が言ったように、毒だと嘘をつく得はない。けれどそれと同じように、毒であると告げる得だって、正直ないのだ。医者だから見捨てたくないと言われれば、納得せざるを得ないのかもしれないが。
カラスに医学や薬学の知識はなく、鼠を用いた実験も、よく分からないというのが本心だった。何より、純真無垢で人から恨まれることがないような楪が毒を飲まされているというのも、理解しがたい。
楪のすぐ隣。小さな椅子に腰をかけ、うつらうつらと舟を漕いでいたカラスは、玄関外が騒がしくなってきて弾けるように目を覚ました。シシの鋭い声も突き抜けてきている。何かがあったのだと察して部屋を出ると同時に、「先生!ギン先生、どこや!」と小声で、けれど慌ただしく、女が駆けあがってくる。ふっくらとした唇とふくよかな体格が印象的な中年女性だった。
「あら、あんた、ギン先生知らん?」
カラスは村の住人ではなく怪しいだろうに、女性は気さくに話しかけた。
「奥の、機器がいっぱい置いてる部屋に」
カラスが答えて間もなく、廊下を歩く足音が聞こえた。どうやら様子を確認しに、ギンは自ら部屋を出てきたらしい。
「あれ、ウメコさん。相変わらず綺麗だねえ」
ギンの女好きは留まることを知らず、嬉しそうに目を細めていた。ウメコと呼ばれた女性は、「そんなどうでもいいこと言っとらんで」とギンの言葉を一蹴すると、
「軍人さんが来とるんよ!」
と焦ったように告げた。
「軍人?こんな田舎に、一体何の用かな」
気分を害されたと言わんばかりの表情でギンは頭を掻く。
「何人いるんだい?」
「一人やね。京極って名乗ってる」
「京極……」
女性が告げた名前に反応したのはカラスだった。その表情が強張っているのを確認したギンが、「ああ」と納得する。
「なるほど、彼女の家の者のわけだ。夜逃げした君たちを追いかけてきたのかな」
「だから夜逃げじゃねえよ」
こんな状況でも軽口を叩くギンだったが、カラスの鋭い返答を聞くと、「それなら、何があったのか教えてくれるかな」と真面目な顔になった。そこでようやくカラスは、自分たちの状況をギンに説明できていなかったことに気がついた。無論、それどころではなかったというのもあるが。
カラスは今度こそ視線を逸らさずに、楪とは数ヶ月前に町で偶然知り合ったことと、つい昨日彼女が盗賊に攫われたことを簡潔に話した。それを追いかけて間隠山(まかくしやま)に入り込み、盗賊を壊滅させたことも。
盗賊を倒したということを聞くと、ギンは恐ろしそうにするどころか、寧ろ愉快気に笑った。
「彼らには僕たちも困っていたんだ。まあ、何もないこんな田舎の村へ来ることはほとんどなかったけれど」
玄関先のシシの鳴き声が強くなる。馬の蹄の音が近づいてくる。
「それで、君と楪嬢の関係は、彼女の家の者は誰も知らないわけだね」
「ああ、バレていなければ」
「そう。だったら家の者はおそらく、楪嬢が盗賊とは違う誰かに再び攫われたと思っているわけだ」
「……」
ギンの告げた通りだった。事情を知らない京極家の者からすれば、カラスは二人目の攫い者。まともに話を聞いてくれるとは思えない。
「でも、安心してかまわない。医者である僕の話なら、多少は聞いてくれるはずさ」
得意げにするギンを、カラスはどこか不安そうに見つめている。
・
時は少し遡り、カラスが楪を抱えて小屋を抜け出した後。小屋の中の惨状を確認した月岡は、来た道を一度引き返し、間隠山の手前の町へ向かうことにした。地面に転がる者たちは既に呼吸の止まった者もいれば、辛うじて息のある者もいる。悪事を働いた者たちが天罰を受けたのだと言えばそれまでで、月岡も率先して助けたいとは思わなかった。ただ、指定された場所に楪の姿がない以上、邸宅への連絡は必須だった。彼らの状態を警察に伝えたのは、そのついでである。
警察署の電話を借り、京極家へと繋いでもらった。受話器越しに聞こえた楪の母の声はどこか覇気がなく、心配で寝られなかったことを察する。
『ああ、楪……。何てこと……。薬は飲めているかしら』
奥様、気を確かに、と、どうにか彼女を落ち着かせようとする声も聞こえてくる。月岡は、「必ず見つけ出します」と約束し、受話器を置くと、休息もそこそこに再び山へ入る。
そして、今。月岡は、交通の便もなく電話も届かない、麓の村まで辿り着いていた。
「軍人さん?」
「こんなところに何の用じゃろ」
珍しい出で立ちにひそひそとする子どもたちへ、月岡は爽やかな笑顔を見せる。とても昨日から寝ずに動き続けているとは思えない様子だった。
すっかり気を許した子どもたちが、「何しに来たん」と話しかける。月岡は穏やかに、「人を探しに来たんだよ」と答えた。それから、胸元の内ポケットから写真を取り出すと、「この女性に見覚えは?」と尋ねる。写真には、美しい振袖を身にまとった楪の姿があった。
子どもの内のひとりが、「あ」と声をあげる。「先生んとこの……」と続けた彼の口を、背後からばっと押さえる者がいた。しっかり者の女の子らしく、彼女は「先生、言っちゃだめって」と諭している。とはいえ、目の前で繰り広げられたそのやりとりに気づかない振りをしていられるほど、月岡に余裕はなかった。
「教えてくれるかな。この女性は、私の大事な人なんだ」
余裕はないが、子どもたちを無理に脅すことはできない。彼らに目線を合わせたままそう言った彼は、「そうだ、教えてくれたらお礼にこれをあげよう」と、馬に背負わせていた鞄の中から缶を取り出す。中には鮮やかなドロップが入っており、子どもたちは目を輝かせた。「どうぞ」と微笑まれ、彼らはおずおずと飴を摘まむと、口の中に放り込んだ。それぞれ顔がぱっと明るくなる。その様子をにこにこと見つめる月岡に、とうとう彼らは口を開いた。その話に寄れば、この道を真っ直ぐ行くと右手に見える、大きな柿の木がある敷地が、その先生がいる場所らしい。先生というのは医者で、ちょうど昨日から、山で見つけた男女一人ずつを手当てしているとのことだった。
(一人は楪お嬢様。もうひとりは、盗賊たちを襲い、お嬢様を攫った者に違いない)
月岡は男の出自を想像する。例えば、盗賊同士の仲違い。楪を気に入った者が彼女を連れて逃げ、無理矢理に妻に据えようとしている――。そう考え、思わず叫び出したい気持ちに駆られた。
(いかん、落ち着け。何はともあれ、男も怪我をしてこの村で足止めを喰らっているんだ。ここで蹴りをつける!)
目的の場所は、村の中では一際大きな敷地を有していた。馬から降り、門を潜ってすぐ、番犬のように構えていた犬が吠える。それに負けじと、月岡は叫んだ。
「失礼、お尋ねしたいことがある!」
腹の底から響かされた声は、軍人の声そのものであった。
「はいはい、聞こえてますよ」
やや間があって、白衣を着た男が現れた。ギンである。雪のような白銀の髪色に、月岡は少しだけ物珍しげにした。
「貴殿が『先生』か」
子どもたちの呼び方を真似て尋ねると、「いかにも」とギンは微笑んだ。子どもたちに「患者のことは言わないように」と告げはしたが、それが確実に守られるとは思っていない。守られたら奇跡、くらいの認識だった。それにどのみち、月岡は一軒一軒回って確認したことだろう。彼らを叱るつもりは毛頭ない。
「この村の医師であり、薬学者でもある。名はギン」
「この場に、我が京極家の第一令嬢と思しきものが世話になっていると伺っている」
言いながら、月岡はやはり楪の写真を見せた。ギンはしげしげとその写真を見つめながら、
「ああ、確かに。写真通りの綺麗なご令嬢を助けたかな」
「屋敷の者は皆心配している。連れて帰らせていただきたい」
「もちろんそのつもりだよ。けれど今は困る」
「……何?」
月岡が眉を寄せ、威圧するような空気を放つ。それに臆することなく、ギンはゆったりと腕を組むと、
「僕は医者で、ここにいる者は皆何らかの疾患を患っている。お探しのお嬢さまは、今現在、熱を出し休んでいる最中だよ。馬に乗せての移動なんて、医者として認められない」
「……」
最もな理由を述べられ、月岡は納得せざるを得なかった。が、すぐに、「では、様子を確認させていただきたい」と告げた。「そういうことなら」と、ギンは承諾し、月岡を中へと案内する。
ギンの説明通り、部屋の中で楪は眠っていた。その頬が僅かに赤く、触れた額も熱かった。嘘ではないことを確認した月岡は、纏っていた空気を少しだけ柔らかくする。
「お嬢様への手当て、礼を言おう」
「医者として当然のことさ」
「回復すればすぐにお連れしたいので、それまで泊まらせてもらいたい。この村に宿舎はあるだろうか」
「それなら、東に通りを二つ越えた先に向かうといいよ。大きな松の木が目印になる」
「後ほど伺おう、感謝する。……ところで」
と、月岡の目がすっと細くなった。
「お嬢様を助けた際に一緒にいた男も、ここで手当てを受けているとか」
ぴり、と緊張の糸が張る。想定していた質問だった。ギンはあくまで冷静に、「ああ、いたね」と頷く。
「その男は、どちらへ?」
「聞いてどうするつもりなのかな」
「お嬢様を攫った人間だ、言わなくても察していただきたい」
なるほど、とギンは思う。やはりこの男は、カラスと楪の関係を知らないし、カラスのことも盗賊の仲間かそれに似た者だと考えている。
「攫ったかどうかは、そのお嬢様本人に聞くべきだと思うね」
「何?」
「少なくとも彼は、そのお嬢様を守るために――」
話の途中にも関わらず、ギンの鼻先には軍刀の切っ先が突き付けられた。一瞬の出来事に、彼の背中から冷たい汗が流れ落ちる。「御託はいい」眼前で銀色がチャキリと揺れた。
「その男を出さないということは、貴殿も共犯であると認識するがよろしいか」
目を見開き詰め寄る男に、ギンは流石にたじろいだ。まさか本気で斬りつけられることはないと思いたいが、どっちに転んでもおかしくはない。
「共犯ではないよ。ただそれでも……、頭に血が昇って、話を全く聞かないような相手には差し出せないかな」
鈍色が空を刈り取るように閃く。マジか、とギンは唇を噛んだ。辛うじて捉えた刃先は、確実にギンの喉元を狙っており、身を裂かれるような痛みを覚悟する、が。
「何が『医者である僕の話なら聞いてくれる』だ、全然駄目じゃねえか!」
「素直にすまん!」
いつの間にか現れたカラスがギンの体を引き、月岡の軍刀を小刀で受け止めていた。再び振りかざされた刃をカラスは余裕を残したままに躱す。その動きだけで、相当な力量の持ち主であることを月岡は見抜いた。カラスから距離を取ると、
「貴様がお嬢様を攫った奴か」
鋭い声で問いかけた。やはりその認識は変えられないか、とカラスは小さく息を吐く。
「お嬢様を攫い何がしたい?無理に契らせ、夫婦にでもなるつもりか」
「まさか」
「では何だ。目的を言え、金か」
「目的ねぇ……」
カラスは苦笑して、少しだけ思案して。
「おれはさ、楪嬢には笑っていてほしいんだよ」
ぽつりと零す彼の表情と声があまりに優しかったので、月岡は思わず息を止めた。直感的に、本心だと思ってしまった。楪を想う自分と同じであると、感じ取ってしまった。
(馬鹿な……、俺は今、一体何を。いや、何より――)
「どういうことだ。貴様、お嬢様と知り合いか」
月岡が震える。一体どういう経緯で、このような男と楪が知り合うことになったのか。真相を知りたい気持ちと、事実を受け止めたくない気持ちが複雑に混ざり合う。
カラスは詳細は伏せたままに、「ああ」とだけ頷いた。
月岡の脳天に、雷が落ちたと思うほどの衝撃が走る。
「なん……っ、ど……っ、い……!」
なんで、どうして、一体いつ。そんな言葉を続けたかったのだろうが、衝撃のあまり、月岡は喋ることすらままならなくなっている。カラスは畳みかけた。
「おれだけじゃなくて、町人の何人かとも知り合いだ。楪嬢が攫われた話を聞いて、助けるために追いかけた」
「町人とも……!?いや待て、だったらなぜ逃げた、迎えに来た者へ引き渡せばよかっただろう……!」
「毒が回ってたんだ。盗賊の仲間が来た場合に対処できないと思った」
「グゥ……」
カラスの言い分は理解できるのか、月岡はまるで犬のように唸った。思いのほか会話ができていることに驚きながらも、カラスは会話を続ける。敵意がないことを示すために、小刀も仕舞い込んだ。
「楪嬢が元気になったら、連れ帰ってくれてかまわない。彼女が笑っていられるのなら、おれはもう会えなくてもいい」
「……」
黙り込んだ月岡へ、「その代わり」とカラスはある条件をつけようと試みた。
「楪嬢が飲んでいる薬のことで、注意してほしいことがある」
二人の様子を見つめていたギンが目を見開く。彼の頼みは、ギンが「まさか」と思った、その「まさか」。
「楪嬢が飲んでいる薬が、毒薬の可能性があるらしい。だから――」
調べてほしい。確認してほしい。
そんなカラスの願いが口を着くより早く。
「――ハ」
怒りとも呆れとも嘲笑とも取れぬ、低く乾いた音がして、一瞬の後に軍刀が振りかざされていた。小刀を構える余裕はなく、カラスはその刃を直に受け止める羽目になる。すぐに身を引いたおかげで腕が飛ぶことはなかったが、肉は抉られ、鮮血が散った。「カラス!」悲鳴のようにあがった声はギンのものだった。
「お嬢様が服用されている薬は、京極家の専属の医師が用意している。今のは、京極家に対する侮辱か。真面目に話を聞いた俺が間違っていた。やはり貴様のことは、信ずるに値しない」
先程までの空気感は消え去り、月岡は氷のように冷たい瞳でカラスと対峙する。
「あーあ、やっぱ無理があったか」
右腕から血を滴らせながら、カラスは苦笑する。
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