第1話 祭囃子に逃夜行

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第1話 祭囃子に逃夜行

 明治時代後期、明ケ時町(あかときちょう)――。  この頃多く建てられた洋館の中でも一際大きな邸宅は、南に突き出た小高い大地に位置している。目を惹く豪勢な屋敷は、相当の権力を有する証。侯爵家、京極一族の住まいである。  その屋敷の外壁に、小さな影がひとつある。使用人も多くいるであろうこの屋敷で無謀にも盗みを働く侵入者……では、なかった。  夜空に靡く艶やかな黒い髪、大きな花柄が美しい振袖に、深い紫色の袴。ここ京極家の第一令嬢、京極楪である。彼女は、よく磨かれた黒いブーツで、手作り感の抜けない不安定な縄梯子から軽やかに着地した。 「ふふ……、やりましたわー!」  力強く握った両こぶしを空に高々と突き上げるという、華族の令嬢らしからぬポーズである。が、今日の彼女の周りには、それを咎めるお付きの者はいない。 (お父さまも、お義母も、妹も。わたくしを置いて花火大会に行くなんて許せませんわ。いくらわたくしが、体調を崩しがちといえど!)  「安静にしているように」と告げて出かけてしまった父、義母、義妹の鈴蘭の姿を思い浮かべながら、楪は唇を固く閉じる。  残っている家の者たちには「部屋には絶対に入ってこないでちょうだい」と拗ねた様子を見せたので、使用人が部屋がもぬけの空になっていると気づくことはないだろう。三人が戻って来るよりも先に家に帰れば、問題ない。  忍者さながらの動きで屋敷を抜けだし、楪は川沿いへと向かう。花火があがるのは川沿いであると聞いていたが、すぐ傍にある町屋の賑わいも大層なものだった。赤い提灯が鮮やかに灯り、いくつもの屋台が並んでいる。色鮮やかな世界だ。それに、食欲をそそる良い匂いもする。  楪は目を輝かせ、あちこちを散策する。うどん、焼き鳥、飴細工のような食べ物から、絵草紙、ゴム風船、植木まで。響く笑い声は、大道芸を見る観客のものだった。まるで夢のような世界だ、と見惚れる楪は、すぐ傍の路地から現れた男たちに全く気がつかない。どん、と大きな体躯にぶつかり、「きゃっ」短く悲鳴をあげた。 「いってえなぁ」  ぎろり、と男が楪を睨む。「申し訳ないですわ」と一言謝罪し、その場を立ち去ろうとする楪の腕を、男が掴んだ。「あの……?」不思議そうに首を傾げる楪は、この状況をよく理解できていない。蝶よ花よと育てられた、世間知らずのお嬢様である。 「これは、折れたかもしれねえなあ」  二人組の男がにやりと笑っても、楪は「人間はあの程度で折れたりしませんわよ?」と心底不思議そうに告げる。楪はいたって真面目なわけだが、男にとっては気に食わない態度だ。 「折れたって言ったら折れてんだよ!治療費、十円(※現在の価格で二十万円程度)寄越しな!」 (お、横暴ですわー!)  心の中で楪は悲鳴をあげ、ぐるぐると頭を悩ませる。実家に帰れば用意することは容易いものの、抜け出したことが知られては困る。十円もは入っていないが、財布をまるまる渡せば許してくれるだろうか。 (いいえ、でもそれではお祭りを楽しめませんわ……!)  リスクを背負って抜け出してきたのだ。このまま帰るわけにはいかなかった。  ちらり、と辺りに視線を向ける。周囲の人たちは皆、見て見ぬふりだった。楪を捕らえた男たちは体も大きく、加えて少々頬が赤い。酒を飲んでいるのは明確で、自分たちが巻き添えを喰らうことを恐れているのだろう。  楪の腕は更に強く捕まれ、「おら、さっさと財布出しな!」と、暴言が投げられる、その時。  がん、と男の後頭部に衝撃が走る。どこからか飛んできた下駄が見事に当たり、「何だ!?」と男が振り返る、瞬間。その顔面に、もうひとつ下駄が突き刺さった。「ぶっ」と呻いた男へ、「女相手にあんまイキんなよ」嘲笑うように告げたのは細身の男だった。長めのざんばら髪を、耳元の下あたりで雑に一つ結びをしている。男が動くたび、結われた髪は動物の尾のように揺れた。 「てめぇ!」  楪の腕を離し、男たちは二人がかりで殴り掛かるが、その体は次の瞬間には宙に浮いていた。どしん、と鈍い音が二度響き、男たちは地面に臥せって伸びている。 「す、すごい……!」  楪は数度瞬きをして、助けてくれた男を見つめた。まるで歌劇や映画に出てくるヒーローのようだ。  「ありがとうございます」と頭を下げる楪に向かって、男はにっこりと笑うと、「お礼」と自身の後頭部をぽんと指した。真似するように後頭部に触れる楪へ、彼は「その髪飾りでいいぜ?」と告げる。 「これでいいんですの?」  助けられた恩もあり、楪はすぐに納得して髪飾りを差し出すが、その髪飾りは相当値の張るものだった。公爵である楪の父自ら、彼女への贈り物のひとつとして購入したもので、べっ甲が使用されている。しかし、蝶よ花よと育てられ、立派な箱入り娘と成長した彼女はその価値をよく分かっていなかった。なんとなく良いもの、という程度の認識だ。  あっさりと差し出した楪に、男は(ちょろいな)とほくそ笑みそうになる。それを押し殺して、「どうも」と短く告げた。 「はい。本当に、ありがとうございました」 深々とお辞儀をする楪にひらりと手を振り、その場を離れようとする、が。 「あの。こちらはいくらかしら?これで足りますの?」  飴細工の屋台に尋ねる楪の声に、彼は何気なく振り返った。振り返ってしまった。  楪は、お洒落ながま口の財布を手にしている。財布の中には庶民には考えられないくらいの額が入っていて、それを屋台の店主に見せるように構えていた。店主はごくりと喉を鳴らしつつも、努めて人の良さげな笑みと共に、 「ああ、そうだねえ。五……、いや、六銭(※現在の価格で1200円程度)……」  もちろんぼったくりだが、楪がそれに気づくはずもなく。疑うことなくお金を取り出す様子に、男は(あーあ。やられてら)と呆れるばかり。 (ま、せいぜい搾り取られろよ。世間知らずのおじょーさま)  男が肩を竦める中、楪は更に隣の屋台からも声をかけられた。うどん六銭、焼き鳥五銭、キャラメル十粒二十銭……、「そんなに食べられませんわ」と彼女が苦笑すれば、今度は紙風船やら万華鏡やら。どれもおよそ二~五倍の価格を提示され、それをそのまま信じ込む様子に、男はいい加減頭が痛くなった。そして、ついに。 「だー!おまえやっぱり馬鹿だろ!この、馬鹿!どう考えてもそんな値段するわけねーよ!」  楪の首根っこを掴む勢いで、彼は叫ぶ。 「そこの飴細工は高くても三銭、うどんと焼き鳥は二銭が妥当、キャラメル十銭、万華鏡は多少高級と言えどそんな馬鹿みてえな額はしねえ!分かったらさっさと財布閉じろ!」 「ちょっと兄さん、商売の邪魔しないでくれよ」 「あ゛ぁ゛!?」 「イエ何でもありません」  目つきの悪い男に凄まれ、店主らは大人しく引き下がる。それと同時に、楪から多く貰っていたお金をそっと握り返させるくらいだった。  楪は男を不思議そうに見つめ、「あなた、物知りですわね」と感心する。男は額を手で押さえながら息を吐いた。 「おまえが何も知らなすぎるんだよ……」  髪飾りも簡単に渡しやがって、と数刻前の自分とのやりとりを思い出した彼は、そんな言葉を口の中だけで含む。楪がその声を拾うことはなく、彼女は「わたくし、ひとりで外に出たことがないからよく分かりませんのよ」と困ったように眉を寄せた。 「あー、だろうな。ナリ見りゃだいたい分かるよ」 「ナリ?」 「着てる服とか、持ってるモンとか。あとは雰囲気」  ぱちくりと目を見開いた楪に説明した彼は、改めてその姿を見つめた。  濡れ羽色の髪はよく手入れされて艶があり、良い化粧品を使っているのか肌もきめ細やか。着物の生地は見るからに良いし、施された刺繍も雅で、おそらく名のある職人が作ったのだろう。ブーツもよく磨かれていて、これは使用人がいる証。そして、何より立ち振る舞い。雰囲気。凛と伸びた背中は、あきらかに名家の娘だった。 「そんなことまで分かるんですの」  と、素直に感心する楪は、「そうだわ!」と突然声をあげた。妙案が浮かんだ!とでも言いたげな表情をして、彼女は「あなた、町を案内してちょうだい!」と男に提案する。「は?」と怪訝な声を出す男を無視し、楪は高らかに名乗った。 「わたくしは京極楪!お兄さま、あなたのお名前は?」 「おい勝手に名乗るな、おれは名乗らねぇし、案内もしねえよ」 「そこをなんとか……!」 「いててててて!力強ぇなおまえ……!」  逃がさない、というように男の腕を掴む楪の力は、火事場の馬鹿力とでも言うべきか、驚くほどに強い。引き剥がそうとする男と、引き剥がされまいと対抗する楪。その二人の間で、不意にぐぅぅと気が抜けるような音が鳴った。腹の虫、である。 「……っ、お腹が減っているのならいくらでも奢りますわよ!」 「いや今の腹の音はおまえだろ!」  顔を赤くして叫ぶ楪へ、男は的確な突っ込みをいれて。  それから、長い溜息をつくと、「京極のお嬢様なら、お付きのやつはどうしたよ。はぐれたのか?」と尋ねた。その体は完全に脱力しており、楪も掴んだ腕の力を緩める。 「いいえ。元々わたくし一人ですわ。屋敷を抜け出して来ましたの」 「そりゃまた何で」 「……わたくし、体が弱いのよ」  楪の告白に、男は口をへの字にした。先程までの様子からは、病に伏せる彼女の姿はなかなか想像ができない。 「体が弱い……おまえが?」 「ええ、わたくしが。もうずっと小さい頃からで、外にはなかなか出られないんですのよ。いつも薬は手放せないし、学校にも、あまり通えていませんわ。この町の花火は、いつも部屋の四角い窓から小さいものを見るばかり。お祭りが実際にどんなものかなんて、わたくしは何も知らなくて……」 「……」  楪の澄んだ瞳は、どこか遠くを見ている。その横顔がやたらと大人びていて、男はうっかり見惚れてしまいそうだった。 「だからわたくし、手作りの梯子を作ったんですの」  急な展開だな、と男の顔が僅かに引き攣る。楪の話によれば、数日前ようやく完成したその縄梯子を伝って屋敷を抜け出すことに成功したのだから、人生で初めての祭りをどうしても楽しみたいのだという。  ここまで猪突猛進な華族令嬢も珍しい、と男は珍獣を見るような視線を向ける。それから、大袈裟な溜息とともに頭を掻くと、「飯奢る約束、忘れんなよ」と楪へ告げた。ぱっと、彼女の表情が明るくなる。 「それじゃあ……!」 「しっかりついて来いよ。はぐれても探さねえ」 「もちろんですわ!」  元気よく返事をした楪は、改めて隣の男の名前を尋ねた。男は一瞬思案して、「……カラス」短く答える。それは名前というよりも、通り名や仇名と言われたほうがしっくりくるものであったが――楪はにこりと笑って、「カラス!よろしくお願いしますわ!」と高らかに握手を求めた。 ・  カラスは楪を連れ、町中を歩き回った。食べることはもちろん、謎の金物や虫が蠢く籠を持ち上げたりして、その度に楪は手を叩いて喜んだ。 「本当にたくさんお店がありますわね。わたくし、こんなにはしゃいだの、人生ではじめてよ。ありがとう、カラス!」  弾んだ声で話しかける楪を連れ、カラスは木造りのアーチ橋を目指した。明ケ時町には東西に大きな川が流れていて、花火はそこで打ち上げられるわけだが、この橋が絶景スポットとして人気が高い場所だった。大人から子どもまで、橋の上はぎゅうぎゅうに人が並んでおり、うっかり気を抜くとすぐにはぐれてしまうだろう。現に、人混みの中からは時折「お母さん」という泣きそうな声や「すみません、通して!」という慌てた声が上がっている。 「人多いから気をつけろよ」 「もちろんですわ」  カラスがそう言い、楪が調子よく返事をした矢先のことだった。 「ええん!おかあさああん!」  小さな子どもの泣き声が響き、頭で考えるよりも先に楪は走り出していた。それも、「カラス、これ持っていてちょうだい」と、自分の荷物を全て押し付けて。 「は、おいこら、おま……っ、うおっ」  カラスが慌てて追いかけようとした時、人混みが大きく動いた。 「カラ……きゃー!」  見事なまでに二人は反対の方向へと流され、あっという間にその姿は見えなくなる。特に、楪は小柄で、人波にのまれたその姿はカラスからは見つけられず、楪もまた周囲の人間が密集していたためカラスの姿を捉えることができなかった。 (ど、どうしましょう……!気をつけろと言われた傍から……!)  さすがの楪もさっと血の気が引いたが、すぐ傍で少女がしゃくりあげているので、自分が不安になっている場合ではないと表情を引き締めた。 「大丈夫ですわよ。きっとお母さまも見つかりますわ」  安心させるように手に力を込めると、少女の涙は僅かに引っ込んだ。  とにかく一度人混みを抜けないことには話にならない。そう判断し、楪は橋から離れることにする。人混みを何とか抜け切り、川沿いの街道に戻った。相変わらずの人の多さではあったが、橋の上と比べると多少ゆとりがある。 (ええと、とりあえず、警察に……派出所はどちらかしら)  そう思い、楪はすぐ近くを取った男性へと声をかける。 「すみません。派出所は、どちらに……あ」 「あん?……あ」  何という偶然か。楪が声をかけたのは、数刻前、彼女がぶつかった二人組だった。「骨が折れた」などと嘘をつき、楪から大金を巻き上げようとしたところを、カラスによって叩きのめされた男たち。 「ご」  楪は喉から声を振り絞る。 「ごきげんよう!ごめんあそばせ!」  支離滅裂な挨拶をして走り去ろうとする彼女を、「待てコラァ!」当然のように男は捕まえた。 「さっきはよくもやりやがったな!今度こそ金出せや!」 (ひー!当然こうなりますわよね!)  先程自分たちを懲らしめた男――カラスがいないのを良いことに、男たちは楪を圧迫する。加えて、カラスにやられた怪我を指し示しながら、先程の倍の金額を請求した。  楪のすぐ傍で、少女が喉を鳴らす。煩わしそうにそちらを見た男から庇うように、楪は少女と男の間に立つと、「分かりましたわ。ひとまず手持ちを全て出すので、離してちょうだい」と交渉した。  男が腕を離す。楪は手持ちのポシェットから、財布を取り出そうとして。 (……あら?)  そもそも、ポシェットすらないことに、そこでようやく気がついた。 (一体いつ、どこに……)  記憶を辿れば、それはすぐに思い出された。ちょうど先程、橋の上。迷子の少女を助けに行く際に、カラスに全ての荷物を押し付けたのだった。無意識の内にやっていたから、全く気がつかなかった。  すっかり固まってしまった楪に違和感を抱き、男が眉を寄せる。 「おい、早く金を出せ」 「ええと、そのお……。お財布、無くしまして……?」 「はぁ!?」  冗談はやめろと言わんばかりに男が声を荒げ、 (カ、カラスーー!)  楪が心の中で、財布を持っているであろう彼に悲痛な助けを求める。 ・  同時刻、橋の上――。  カラスは、人混みの中でひたすら楪を探していた。 「くっそ、どこいんだよ。おい、聞こえたら返事しろ!」  楪から押し付けられた荷物をしっかりと抱えたまま、彼女が流された方面へと歩くカラスは、(大体あいつ色んなもの買いやがって)と改めて彼女が買った小物たちを見て、はたと気づいた。荷物の中に、ポシェットが混ざっている。この中には財布もあったはず。 「あんの馬鹿……!」  心底呆れるカラスだったが、同時に(待てよ)と思い立った。 (別に探す必要なくないか?これだけ貰って、逃げちまえば……)  庶民には理解できないくらいの金が詰め込まれた財布に、そんな考えが浮かんだ。元々、カラスは善人ではない。楪を助けに入ったのも、彼女に恩を売って、明らかに価値のある所持品をお礼として貰うため。受け取った髪飾りは、彼女と別れた後、質に売りに出す予定だった。  そうだ、今の状況がそもそもおかしいんだよ。  自分を納得させるようにそう思って、カラスは立ち止まる。楪を探すことを辞める。彼女が向かった方から、背を向ける。――けれど。  屋台を見て、きらきらとした笑みを向けた楪のことを思い出す。純粋で、無邪気な少女。「ありがとう、カラス!」久しく言われていない感謝の言葉が頭の中で何度も響く。 「――」  そうやって、カラスは逡巡して。やがて、何かを決意したように顔を上げた。 ・  一方の楪は、当然ながらピンチを抜け出せずにいる。 「財布を無くした、だぁ……?」 「う、嘘じゃありませんのよ!」  男ににじり寄られ、楪の体に影が差す。背中を反らして耐えながら、彼女は懸命に弁明したが、それで男たちの怒りが治まるはずがなかった。寧ろ、またコケにされたと思ったのか――。彼らは、「もういい、身ぐるみ剝いでやる!」と吐き出した。太い腕が伸び、楪が思わずぎゅっと目を瞑った時。 「楪嬢!」  頭上から声がしたかと思うと、立ち並んだ家屋から男の真上に影が落ちた。  ずどん!  鈍い音をたてて男が地面に沈む。その体を容赦なく踏みつけていたのは、カラスだった。 「ったく、おまえは言ったそばから逸れやがって!」  ぐちぐちと文句を言うカラスの背後から、もうひとりの男が殴りかかろうとする。それを軽々と避け「今話し中だ」と、男の顔面へと肩越しに裏拳を放ったカラスは、少しして足元に沈んだ男たちが楪に金を要求していた者と同一人物であることに気がついた。 「おいおい、おまえらも懲りねえな」  呆れながら、カラスは男の胸倉を持ち上げる。「……ん?」と眉を寄せたのは、はだけた胸元からいくつもの財布が溢れていたからだ。スリでもはたらいていたのだろう。 「しゃーねえ、警察に突き出すか……。楪嬢、さっきの迷子も一緒に……うおっ」  カラスが言う最中、楪は駆けだしていた。勢いに任せてカラスに抱き着き、「きっと来てくれるって、信じてましたわ」そんな言葉を告げる。ちょうどその時、川沿いから、どどん!と大きな音がした。鮮やかな光の花が、深い夜に咲き誇る。 「……やっぱり馬鹿だな、おまえ」  呟いたカラスの言葉が、楪に届いたかどうかは分からない。  その後、楪とカラスは迷子の少女と二人組の男を派出所へと連れて行った。  迷子の母は既に派出所で警察と話し込んでおり、少女を見るなり駆け寄って、二人に深いお辞儀を何度も繰り返した。また、「財布を取られた」と派出所に駆け込んだ人も複数名いたようで、二人組の男にはしっかりと罰が与えられることになりそうだった。  一連の出来事が終わりを迎える頃には花火の打ち上げは終わっており、楪は花火を堪能することができなかったのだが、彼女はそれでも十分すぎる一日だったと幸福そうに語った。  そうして、今。カラスは、楪を邸宅へと送り届けている。  展望の良い小高い大地に鎮座する京極邸。を見上げながら、カラスは改めて楪を「おまえ、もう無謀なことすんなよ」と嗜めた。洋風の建物の一角から、縄梯子が垂れ下がっていることが確認でき、お転婆にも程がある。 「……考えておきますわ」  と、楪は悪戯っ子のように笑って、「じゃあわたくし、行きますわね」と背を向ける。ああ、と頷いたカラスだったが、ふとあることを思い立ち、「楪嬢」彼女を呼び留めた。そして、不思議そうに振り返った彼女を抱き寄せるようにして、艶やかな髪を掬い、丸い後頭部へと触れる。 「……それ、やっぱり返すぜ」  カラスの手が離れた時、楪の頭にはあの髪飾りが元通りにつけられていた。  驚く楪は、「いけませんわ!」と髪飾りを外そうとする。 「だって、これは、あなたへのお礼に……!」 「いいんだよ」  その言葉を遮り、カラスは綺麗に笑った。彼の脳裏には、楪と過ごした今日一日のことが蘇る。美味しいものを食べて、あんな嬉しそうな顔をされて、「ありがとう」なんて感謝までされて。 「礼ならもう、貰った」  じゃあな、と微笑む彼の顔があまりに綺麗で、今度は楪が彼を呼び止める番だった。勢いよくその腕を掴み、眉を寄せるカラスへと、 「……さい」 「は?」 「今度!一週間後も、同じように案内しなさい!」 「はぁ!?」  ひっくり返りそうなお願いをする。 「何言ってんだおまえ、こんなこと、何回もできるわけねえだろ!抜け出してんのだってすぐばれるに決まってる」 「そこは、上手いことやりますわ……!」 「信用できるか、なんかあったら罰受けんのはおれなんだぞ!」 「罰……」  うわ言のように繰り返した楪に、カラスは一瞬、考え直してくれたのだと期待する。が、楪は尚のこと腕に力を込めると、 「案内すると約束しないと、今ここで叫びますわよ」 「おま、いい性格してんな!?脅しかよ……!」  カラスの額に冷や汗が浮かぶ。この大きな邸宅に使用人が何人いるかなど考えたくもない。追いかけ回されるのはごめんだ。 「お願い、カラス。だって、わたくし、本当に楽しかったのよ……」  ぎゅっと握った彼女の掌がかすかに震える。脅しなんてなれないことをするからだ、とカラスは呆れた。同時に、彼女が本気で叫ぶことはないだろうとも思う。けれど。 「……しゃあねえなあ。一週間後、同じ時間か?」  楪が驚きに満ちた表情で顔をあげる。「脅されちまったから、仕方なくだぞ」と念を押すようにカラスは告げる。集合は邸宅の東側(楪の部屋が確認できる位置)、家族や使用人から怪しまれるようならすぐに中止にすること、いくつかの条件を取り付けた彼に、楪は何度も頷いて、「約束ですわよ!」と今度こそ邸宅の中へと姿を消した。  そしてそれから、一週間。  宣言通りに邸宅を抜け出した楪は、木の陰で待ち構えてたカラスへと駆けだした。「カラス!」と彼を呼ぶ声はどこまでも明るく、その目はこれから映す世界を待ちわびてきらきらと輝いている。  明治時代後期、明ケ時町。華族令嬢と、流れ者の青年の、小さな夜の逃避行が、今日も始まる――。
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