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第2話 焔の町
明治時代後期、明ヶ時町。
この町の小高い台地に邸宅を構える京極家の第一令嬢・楪は、今日も今日とて屋敷を抜け出し、以前町で出会った、カラスと名乗る謎の青年に町を案内してもらう予定、だったのだが。
「悪りぃけど、今日は駄目だ」
敷地の外に出てすぐ、合流したカラスは開口一番にそう言って、楪は「な……っ」と言葉を失った。今にも叫び出しそうな楪を制し、彼は冷静に説明をする。町では数日前にボヤ騒ぎがあり、犯人も捕まっていない。危ないから、ということが主な理由で、楪は渋々と了承した。
「その代わり、五日後にまた迎えに来てちょうだい」
「五日後か」
楪の言葉を繰り返し、カラスは思案するように顎に手を当てた。
「そりゃ放火犯が見つかればいいが。そうじゃないなら、連れては行けない。五日後も、ひとまず部屋からは出るな。屋敷を抜けるにしても、おれが合図を送ってからだ」
「分かりましたわ」
そして約束の日、本音を言えば、楪はもう外出ができる気でいた。が、その期待は大きく打ち砕かれることになる。
いつもの合流場所から少し外れた木陰、楪の部屋から見えるその地点に現れたカラスは、すっかり出かける準備をした楪へ向かい、腕で大きくバツ印を作ってみせた。嘘でしょう、と彼女が動揺している間にカラスは姿を消し、楪は思わず(ハ、ハァ~~!?)と心の中で悲鳴をあげた。
(ばつって、それだけですの……!?次の日程も決まっていませんわよ……!)
とはいえ、カラスが楪の身を案じてくれていることは分かっている。それから暫くの間、楪は屋敷を抜け出そうとはせず、毎晩カラスが現れないかをじっと待った。しかし、待てど暮らせど彼が訪れる気配はない。そして、カラスを最後に見た日から一週間と少し、楪は耐えかねて屋敷を抜け出すことにした。
町は相変わらず明るいのに、一人で歩いていると少しだけ寂しく感じる。楪は弱気にならないように首を振り、しっかりと足を進めた。元々、あの花火大会の夜は一人で町を散策する気でいたのだ。不安になんて、なるはずがない。
町に入り、建物の間を抜けていく。そこでふと、「しゃあねーな」という聞き慣れた声がした。間違いない、カラスのものだ。良かった、すぐ会えたと安心すると同時に、自分に会いにこないことに少しだけ腹が立った。楪は大股で路地を抜け、「カラス」と声をかけようとする、が。
「!?」
視界に飛び込んできたのは、手首に捕縛用の縄をかけられたカラスで、楪は言葉を失った。
なにこれ、どういうこと、何でカラスが、捕らえられるの。
呆然と立ち尽くす彼女に、カラスを捕らえた男が冷たい目を向ける。凍てつくような鋭さに、楪は息苦しささえ覚えるほどだった。服装から、警察であることが窺い知れる。
「知り合いか」
威圧感のある声で男が告げた。楪は一瞬、父のことを思い出した。雰囲気が仕事をしている時の父によく似ている。
カラスは動じず、「まさか」と肩を竦める。「ならさっさと歩け」と、男はカラスの背中を乱暴に押した。
「……っ」
待って、と楪は声をあげようとしたが、それよりも早くカラスが顔だけを向け、「かえれ」と口の形だけで指示を出した。
(一体、何が……。まさか、カラスが悪事を……?)
遠くなる背中を眺めながらそんなことを考えて、楪は大きく頭を振った。
(いいえ、そんなの、あり得ませんわ!)
周囲には、捕らえられたカラスを見てひそひそと話す町人の姿がある。事情を尋ねるとどうやら、先日楪も知らされたボヤ騒ぎの犯人として、カラスが疑われてしまったらしい。楪は拳を握りながら、「誰か、彼が火をつけることを見たんですの?」と何とか怒りを押し殺して問いかけた。町人は困ったように視線を逸らすばかりで、楪は堪らず詰め寄る。
「彼はそんなことしませんわ!」
悲痛な叫びに応えてくれる者はいなかった。
楪は歯を食いしばり、(どうしよう、どうすれば)と思案する。どうにか知恵を捻りだそうと頭脳をありったけ回転させ、はたと浮かんだたのは、祭りの日にカラスと向かっ派出所にいる若い巡査のことだった。
彼ならカラスが人助けをしたことも知っている。力になってくれるかもしれない、と走り出したが、派出所で会ったその人(名前は黒井というらしい)は申し訳なさそうに謝るだけだった。
「どうにもならないんです。彼は、その、署長で……。私などの意見では、とても」
「でも、そもそもどうして彼が連れられるようなことになったんですの。町の人たちは、彼が火を放ったところは見ていなさそうでしたわ」
「それは、その……、彼が、余所者だからでしょう」
「……余所者……?」
拙く聞き返す楪に、その巡査は頷いた。
「少し前にこちらの町に来たんです。所謂、流浪人でしょう。身元の分からない者は、怪しいですから」
はじめて知った、と楪は目を見開いた。
「でも、それが彼を捕らえていい理由にはなりませんわ……!証拠もなしに……っ」
悔しさを滲ませる楪を、巡査は憐れむような目で見つめた。世の中はそんなものだと告げるには、彼女はあまりにも純粋だった。
失礼しました、と楪はか細く零し、町の中をずるずると歩く。そうして、川沿いに立ち並ぶ柳の木に背中を預けると、蹲りたくなる気持ちをぐっと堪えた。
(こうなれば、もう……)
藁にも縋りたい思いの彼女が思い浮かべたのは、自分の父だった。公爵という地位、そして軍部の人間でもある父の権力を持ってすれば、カラスを助けることができるかもしれない。父の力があれば、真犯人もすぐに見つかるだろう。けれどそれは同時に、楪が屋敷を抜け出したこと、そしてカラスとの関係を知られるということであり、そうなったらきっと二度と、カラスと共に町を歩くことはできない。
楪は懐から懐中時計を取り出す。夜が明けるまではまだ時間があった。とにかく犯人を見つけさえすれば、とその目に強い意思を宿した時。
「きゃっ」
突然目の前を横切った何かに、楪が手にしていた懐中時計は奪われた。視線を向けると、小さな子どもが懐中時計をくるりと手で弄び、「ばぁか」と言わんばかりに走り去る。スリだった。それも相当に慣れている。
「なっ……、待ちなさいそこのちびっ子ォォ!!」
一瞬の出来事に呆ける楪だったが、すぐに目くじらを立て、少年を追いかけた。楪のフォームはなかなか美しく、そこらの女性より走りが速い。髪を振り乱し大股という、とても令嬢のそれではない様で追いかけてくる女に、少年は逃げながらたじろいだ。
(な、なんだアイツ、超はぇ~~っ!やべぇ~~って!)
「待ちな、さい……っ!お願い、待って!」
「待てって言われて待つバカはいないぞ!」
生意気にも言って、少年がより速度をあげた時、楪はその胸に微かな痛みを感じて蹲った。普段の突飛な行動から忘れられがちだが、彼女は元来体が強くない。
突然立ち止まった楪のことを気にしつつも、少年はチャンスと言わんばかりに足に力を込めた。その小さな背中に向かって、楪は懇願する。
「お願い、本当に、それだけは返してちょうだい……っ!お母様の、形見なの……!」
その言葉に少年は足を止め、「形見……?」と振り返った。
楪は頷き、咳込みながらも彼の元へと歩く。
「そっか、形見……」
背面と文字盤側の両面が二枚貝のように挟まれた懐中時計は、精巧なつくりでいかにも高級そうだ。
少年は楪をじっと眺め、「おまえも、母親いないの」と問いかけた。その瞳が静かに揺れている。楪は少しだけ眉尻を下げると、「育ての母親なら、いますわ」とそっと答えた。
「育ての母親……」
「ええ。わたくしの妹のお母さま。義母にあたるから、血は繋がっていないんですの。わたくしを産んでくれたお母さまは、もう……」
その瞳が、過去に思いを馳せるように遠くを見つめる。
少年はバツが悪そうに俯くと、黙ったままに懐中時計を差し出した。「ありがとう」と、受け取った楪が柔らかく微笑んだ時。
カンカンカンカン!
半鐘がけたたましく鳴り響き、楪と少年は揃って音がする方角を見た。仄かに煙が立ち上っており、それを見た少年の顔色がさっと曇る。
「家の方だ……っ」
言うや否や走り出した少年を、「危ないですわよ!?」と楪が慌てて追いかける。走ってすぐ、再び胸の痛みを覚えたが、泣き言を吐いている場合ではない。
火の手があがる長屋を見て、少年は絶望に顔を曇らせた。嫌な予感は的中し、燃えているのは彼の住まいだった。
既に人が集まっていたが、消防――蒸気ポンプはまだ来ていないらしい。近くの家の住人たちが何とか火を弱めようと奮闘している。その中の一人が、「吉坊、お前も無事だったか!」と心底安堵したように叫んだ。吉坊と呼ばれた少年の父親は、知り合いに用事があったようで家を空けているということだった。つまり、中はもぬけの空。現状は人的被害がないことに楪も少し安心した。
けれど、少年の表情は曇ったままで。
「ああ、ついにこんな大事に……」「消防はまだ来ないのか」「クソ、水足りねえぞ!」皆が口々に言い合う様子と、燃え盛る我が家を呆然と見つめていた彼は、突然「お母さん!」と叫んで走り出した。
「おい!」
その小さな体は、近くの大人が伸ばした腕をするりと抜ける。
「吉坊!戻れ!お前のお母さんは、もういないだろ!」
「いなくても!手紙も、写真も、残ってる……!」
喚くように言って、その姿は炎に呑み込まれた。その背中が、楪の目に焼き付く。焼き付いたから、彼女もまた、忙しない大人たちの横をすり抜けて、燃え盛る母屋の中へと飛び込んだ。
「無茶だ!」
悲鳴のような声が辺りに広がったけれど、楪は決して後ろを振り向くことはなかった。
・
母屋が炎に包まれる、少し前。
警察に放火の疑いで連行されたカラスは、彼の後ろを大人しく着いていた。そのカラスの後ろにも、複数の警察たちが控えている。けれど、焦りはなかった。自分が本気になれば、男たちの目を盗んで逃げだす自信がある。
「えらく冷静だな」
前を歩く、上司と思しき男――署長が呟いた。独り言なのか、はたまたカラスに声をかけたのか。分かりづらかったが、カラスはまるで煽るように顎を持ち上げ、「おれはやってないんでね」と言う。
「無罪の人間を犯人だと勘違いするほど、馬鹿じゃないだろ?」
「そういうことは無実を証明してから言うもんだ、余所者」
余所者、という言葉を強調したのはわざとだろう。
煽り合う二人の間で火花が散り、部下の男たちは冷や汗をかく。逃げ出したいくらいの空気の悪さだった。彼らの目が右に左に動揺で揺れる中、唐突にけたたましい音が鳴り響いた。火事を知らせる半鐘の音で、いち早く反応したのはカラスだった。
「どうやら放火犯が現れたみたいだぜ。さっさと行った方がいーんじゃねえの」
口の端を持ち上げて、まるで相手を馬鹿にするような笑顔に、男は顔を顰める。が、ここでカラスと言い合っても仕方がないとすぐに判断して、舌打ちと共に部下のうちの一名を引き連れて走り出した。もう一名は、カラスの見張り役としてその場に残される。
カラスは、上空へと広がる煙を眺めながら、「今回はヤバそうだな」と呟いた。自然と、見張り役の男も視線をそちらへ向ける。カラスの言う通り、今回はボヤ騒ぎでは済みそうになかった。
「さて、私達も――」
署へ向かいますよ、と男はカラスへと視線を戻し、「……は?」間抜けな声を出す。先程まで彼が立っていた場所には、その腕を縛っていた縄が落ちているだけで、その姿はきれいさっぱり消えていた。まるで神隠し、あるいは奇術。
悲鳴に似た男の叫びを耳に、カラスは「悪いな~」と飄々と屋根を伝い、路地へと姿を消した。
(さてと……、楪嬢は無事帰れてるかね)
一応確認するか、と彼女の屋敷がある方向へ向かおうとした時、カラスは「吉坊と女の子が燃えた家の中に入っていったらしい」という噂話を耳にする。嫌な予感がして、その会話に意識を集中させると、「黒髪の長い、振り袖姿のご令嬢」という特徴が飛び出し、カラスは頭を抱えた。楪だ。百パーセント。燃える家の中に入るなんて馬鹿げた行為をする令嬢は彼女くらいだろう。
「あんの馬鹿……!」
最早何度目になるか分からない台詞を吐き捨て、カラスは燃え盛る炎に向かって走る。
・
轟々と炎が燃えている。まるで意思を持つ妖のように蠢く橙色を掻い潜り、楪は必死に声をあげた。
「吉坊くん、返事をしてちょうだい……!」
炎の勢いは徐々に強くなっている。煙が目に染み、喉も痛い。咳き込んだら、その痛みは一層酷くなった。
熱風を防ぐようにして楪は足を進め、長屋の居間に少年を見つけた。引き出しの中身をひっくり返す彼は、「よかった、まだ……っ」そう呟いて、四角いお菓子缶を抱き締める。どうやらその中に彼が言っていた母の手紙や写真が残っているらしい。
ほっとして気を抜くと同時に、少年は大きく咳き込んだ。その近くで、火に包まれた柱の一部がぐらりと動く。
「危ない!」
楪は反射的に飛び出し、少年を抱えるように床に転がった。
「おまえ、何で来たんだ!?」
「だって、あなたが入っていくから……!」
言い合う最中も、家屋の軋みは止まることがない。楪は「早く行きますわよ」と吉坊の小さな手を引いたが、直後、脆くなった柱が音を立てて崩れた。はっとした時には遅く、楪は柱の残骸に辺りを囲まれたが、幸いにも体を動かすことはできた。しかし――。
「吉坊くん!」
今の衝撃で、彼と引き剥がされてしまったらしい。折り重なるように倒れた柱の残骸を越え、彼の元に駆け寄る。尻もちをついた少年の腕や足には多少の擦り傷があり煤がかかっていたものの、彼も無事そうだ。楪はひとまず胸を撫で下ろすが、悠長にしている時間はない。「早く」と差し出した腕に、少年は少し困ったように笑った。
「今ので、足を捻ったみたいだ」
だから、と諦めたような顔をする彼の元へ、楪は厳しい顔で降り立つと「乗ってちょうだい」としゃがみ込んだ。
少年は呆然として、「なんで、置いてかないんだよ」と声を震わせる。
「母親の形見なんか取りに行って馬鹿だなって言えばいいじゃん!」
「形見を失いたくない気持ちは、わたくしも痛いほど分かりますわ!」
「こんな盗人、放っておけばいい!」
「懐中時計のことなら、ちゃんと返してもらいましたわ!」
「でも……!」
「ええい、うるさいがきんちょですわね!?」
「がきんちょ!?」
火の勢いが更に強くなる。それでも頑なに動こうとしない楪に、とうとう吉坊が動いた。ぐす、と鼻を啜り、華奢な肩に手をかける。
「さあ、頑張りますわよ!缶、落とさないようにしっかり握っておいてちょうだい!」
細い足に力を込めて立ち上がった楪は、来た道を戻ろうとして険しい表情になる。表の入り口は炎に包まれ、とても通れる気がしなかった。というよりも、最早一階に逃げ場はない。このまま窯焼きになるのはごめんだと、楪は二階に続く階段を上った。
二階はまだ火の手が弱い。ちょうど庇の上にあたる通路へ続く窓を開けると、熱風とともに、「おい、無事だぞ!」地上から跳ねるような声がした。周囲には蒸気ポンプを率いた消防が集まっており、賢明な消火活動が行われている。
「吉鷹……ッ!」
崩れるように少年の名を呼んだのは彼の父親だろう。だが、まだ安心はできない。火はそのうち二階にまで上がってくるだろうし、そうでなくとも家屋ごと崩壊し下敷きになるかもしれない。
(どうすれば……、隣の家屋に伝って……?)
左右に建つ家屋を見て、楪は考える。上手くいけば、渡れるかもしれない。けれど、足を滑らせて落ちたりしたら?打ち所が悪ければ怪我では済まない。それに、楪は今、その背に吉鷹を抱えている。少年とはいえ、その重みは確かだ。
万事休す――。
そんな言葉が、脳裏に過った時。
「楪嬢、飛べ!」
よく通る声がして、楪はぱっと顔をあげた。地上の人混みの中、両腕を広げたカラスがいる。珍しく汗だくだった。彼はもう一度、「来い!」と叫ぶ。辺りがざわつき、「危険だ」「この高さだぞ」と不安がる声が波のように広がったが、楪は気にならず、寧ろその口元に笑みを湛えた。
「ええ。ええ、受け止めなさい、カラス!」
言うや否や、柵に足をかけ、勢いよく地を蹴った。体が浮く。重力で、落ちる。けれど、怖くない。
そうして、少年を背に抱えたまま飛び降りた楪を、カラスは地面にひっくり返りながらもしっかりと抱きとめた。ちょうど楪に押し倒されるような形になり、「ぐぇ……」なんて声を出しながらも、カラスはずるずると立ち上がる。
わっと、辺りが歓声に包まれた。「無事だぞ!」「よかった」安堵の息が広がる中、血相を変えてやってきたのは「吉鷹」と呼んだ男性だった。
彼は、「聞いたぞ、なぜこんな中に入った!」と少年に拳骨を落とす。吉鷹は「だって」と俯いて、手にしていた缶をぎゅっと抱きしめた。それは、少年の母の形見。彼が、命を懸けて守りたかったもの。
吉鷹の父もそのことにはすぐに気づいたらしい。膝を折り、小さな体を抱き締めると、「おまえが無事でないと意味がない。良かった……っ」と震えた声で絞り出した。
それから、楪とカラスへ向き直ると、最敬礼の深いお辞儀とともに礼を言う。「この御恩は忘れません」とまで告げられ、カラスは面食らった。
「いや、おれは……」
その時、通りの向こうから「そいつだ!」と声があがった。見れば、人混みの中を「どけ!」と掻き分ける男がいる。手には刃物を持っており、仄かに灯油の臭いを纏っていた。明らかに普通ではなく、悲鳴をあげて皆が散る。
そんな中、カラスは肩の力を抜いて立ったままだった。「どけって言ってるのが、聞こえないのかぁ!」鼻息荒く、刃物を振り翳す男から視線を逸らさずに。最低限の動作で切っ先を避けたカラスは、その流れで男の腕を掴み、懐へ入り込むとあっさりと男を背負い投げた。
「~~ッ、ガッ」
まともな受け身も取れなかったのだろう、鈍い音を立てて男は地面に打ち付けられ、短く鳴いた。
おお、とどよめきがあがる。
「わたくし、警察を……!」
「必要ない」
楪の言葉は固い声に遮られた。皆が一斉にそちらを向くと、カラスを捕らえた例の署長がいた。楪は思わず身構え、その様子に男は「分かりやすいな」と呟く。表情こそ変わらなかったが、その声は僅かに笑っているようでもあった。
「そう睨むな。そいつを連れていくつもりはない。疑いは晴れた」
「え?」
カラスは捕まえた男を警察に引き渡し、署長の言葉の続きを待った。
「流浪人が放火をしていると情報を持ってきたのはこの者だった。本人が放火をしていたのだから、今更貴殿を疑う理由はない。犯人逮捕、感謝する」
謝罪の言葉こそなかったが、随分と物分かりの良い警察だとカラスは思った。
署長は放火犯であろう男にしっかりと縄をつけると、部下たちに連れて行くように指示をした。それから、炎の落ち着いた建物を見つめる。消防と住人の協力により、被害は想像より小さいものに留まったようだ。
警察がその場を離れると、吉鷹の父は改めてカラスへと頭を下げた。住人が集まってくる。その内の何人かは「悪かった」とカラスが警察に連れられた際に見て見ぬふりをしたことを謝ったが、「無愛想で何考えてるか分かったもんじゃねえと思っていたが……」と付け加えたことで、その純粋な言葉がカラスに刺さった。
とはいえ、町人の言葉は最もである。カラス本人も、そういう素振りをしていたことは自覚していた。本来であれば、この地に長い間留まる気など、なかったから。
――失礼ですわね、カラスは良い人ですわよ。
――だから謝ってるじゃねぇか。
町人たちと言い合う楪を見つめ、カラスはそっと息を吐く。
それもこれも、このお転婆な令嬢のせいだ。
東の空はまだ暗いが、上空の星の位置が随分と動いている。未だ町人たちに力説する楪の背を軽く叩き、「帰るぞ」とカラスは告げた。楪はまだ話し足りなさそうにしていたけれど、時間がないことはよく理解していて、「分かりましたわ」とその手を取った。
誰からともなく、「今度、改めてお礼をさせてくれ」と声があがる。カラスが振り返ると、吉鷹の父をはじめとする皆が温かな眼差しをしていて、それが妙にくすぐったくて。「機会があったらな」と返した彼は、まだ暫く、この町で過ごすことになる。
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