第3話 花に約束

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第3話 花に約束

 明治時代後期、明ヶ時町。  そこに暮らす元・流浪人のカラスという青年は、ひょんなことから、とある華族令嬢・京極楪の町の案内役を務めている。  町の火事から数日後。約束の日を迎えた彼は、いつもと同じように京極家の屋敷の側で楪が現れるのを待っていたのだが。 (おかしいな、全然来ねえ)  待てど暮らせど現れない楪に、カラスは首を傾げた。  洋館の一角、美しい装飾に縁どられた縦長の窓は、一向に開く気配がない。単に遅れているだけか、約束の日付を誤解しているか(もちろんカラスが誤解している可能性だってある)、のっぴきならない急用が入ってしまったか。図りかねたカラスは、近くの大きな木々に登り、体を休めつつ彼女を待つことにした。彼は眠りが浅く、人の気配が近づけばすぐに目を覚ますことができる。  結局、東の空が明るくなっても、楪はその姿を見せなかった。白い朝陽にカラスの目は自然と醒め、欠伸をひとつしてから器用に伸びをした。彼のすぐ近くで、鳥が目覚めの挨拶をするように鳴いている。  ちらりと屋敷を見ると、ちょうど楪の部屋のカーテンが開けられた。ただし、開けたのは楪自身ではなく、使用人の女性だった。どこか慌てているようにも思われる。  カラスは少し思案してから、京極邸に侵入を試みた。使用人たちは既に屋敷を出入りしていたが、忍び込むことはそこまで難しくなかった。するすると屋敷の外壁を辿ったカラスは、目当ての部屋に辿り着くと、窓からその中を確認して目を見開く。  大きなベッドに横になった楪は、苦しそうに肩を上下にして呼吸をしている。明かに体調不良でうなされていた。  普段の賑やかな様からは想像できない彼女の姿にカラスは暫く唖然としていたが、そういえば、と初めて楪に出会った時のことを思い出した。彼女は自身のことを、「体が弱い」と言っていた。その割には元気すぎるだろうと、当時は半ば呆れて疑っていたのだが。 (マジかよ。本当に弱いんじゃねぇか)  今更ながら、出会ってからの自分の行動が軽率だったのではと思い始める。夜も遅い時間に町を連れまわし、挙句先日は火事にまで巻き込んでしまった。 (本人の希望とはいえ……、やりすぎたか……?)  そんな風に若干の罪悪感に苛まれながら、どうしたものかと考えていると、部屋の中の楪が苦しそうに寝返りを打った。それから、「水……」と、少し離れた台の上に置かれた飲み水を取ろうとして、ふらふらと立ち上がる。使用人は誰もいない。あまりに危なっかしい様子に、カラスは堪らなくなった。  少しして「あ」と倒れかけた彼女は、斜めになった視界に衝撃に備えたが、その体はぽすんと受け止められる。「ツキオカ……?」思わず零したのは、幼い頃から彼女の世話係を務めている者の名前。けれど、楪の霞んだ視界に映ったのは――。 「カラス……?」 「相変わらず危なっかしいな」  楪をベッドに座らせてから、カラスは台に置かれたコップを取り、彼女に差し出した。それを受け取り、楪は不思議そうにカラスを見つめる。 「どうやって入ったんですの……?」 「それはまあ……、ちょちょいっと」 「ちょちょい……?」  不思議そうにする楪の声は、いつもよりもずっと小さい。  そうっと水を口に含んだ彼女は、まだ焦点の定まらない目でカラスを見つめ、途端に「ふふ」と微かに笑った。 「わたくし、夢でも見ているのかしら。カラスが、こんな……、会いにきてくれるなんて……」 「夢でもなんでもいいから、寝てろよ」  楪の体が、天蓋付きのふかふかのベッドに沈む。随分と大きなベッドだった。まるで、お伽噺に出てくるお姫様のそれ。 「楪嬢、何かあるか?」 「なにか……?」 「ほしいものとか」  思わず尋ねてしまったのは、楪がいつもと比べてあまりに弱々しかったからか。  彼女は一度瞬きをしてから改めてカラスを見つめ、 「欲しいものはないけれど、傍にいてほしいですわ」  甘えるようにそう零し、カラスの袖をきゅっと握った。  カラスは目を見開く。例えば彼が、楪の世話係だったり、許嫁だったりしたならば、「眠るまで傍にいますよ」と微笑むこともできただろうが。生憎、彼はただの流浪人、本来であれば華族令嬢と関わるような人間でないし、京極家の人間は誰一人として二人の関係を知らない。 「いや……、傍はちょっと。見つかったら捕まるんで……せめて食いもんとかで……」  努めて冷静に拒否をしたカラスに、楪は少し唇を尖らせたが。 「じゃあ、柿が食べたいですわ」  駄々をこねることはなくそう告げた。「柿ねぇ……」微妙な声音で繰り返しつつも、カラスはそれを了承した。 ・  明ヶ時町から少し離れた山中。 「んぐ……っ、しっぶ……っ」  すっかり手入れもされずに伸び切った柿の木に跨ったカラスは、先程採ったばかりの柿の皮を小刀で剥き、小さく齧って吐き出した。  野生の山柿は、市場に出回るものと違って渋いものが多い。この柿の木の近くには崩れかけた山小屋があって、昔は柿栽培でもしていた者がいたのではないかと考えたが、外れだったようだ。  木から降り立ち、どうしたものかと頭を掻く。頭上の太陽はいつのまにか雲に隠れ、鈍色の空が広がっていた。もうじき雨が降るだろう。 (誰か、柿譲ってくれるような奴いたっけな……)  少なくとも、自宅の敷地内で柿を栽培しているような者はいなかったと記憶しているが。行商人も含め、確認した方が良いかもしれない。この辺りの柿は、粗方外れだと判明しており、これ以上山に篭っても成果が得られる気はしない。  そう結論づけた時、近くの茂みから何かの気配を感じ、カラスは鋭い視線をそちらへ向けた。 「……」  小刀をくるりと指で回し、草の重なる茂みへ近付く。野犬か。盗賊か。相手は一向に動く気配はない。ざっと、その中へ足を踏み入れると。 「……グル……」  黒い虎毛の犬が小さな声で唸っていた。手入れされていない毛並みはぼさぼさだ。右目は怪我をして潰れており、おそらく見えていないだろう。獣に襲われたのか、右耳も少し欠けていた。 「……猟犬か」  呟いたカラスが、小刀を懐にしまう。  犬の首元にはボロボロになった首輪があり、おそらく捨てられてしまったのだろう。右目を失い、猟犬としての価値が下がったのか。あるいは、捨てることを前提で、敢えて怪我をさせたのか。 「……悪いな」  見下ろしたまま、ぼそりとカラスは告げ、茂みに背を向ける。自分が命を預かれるような立場でないことは、よく理解できている。  か弱い鳴き声が背中を追ってきた。カラスはそれを無視して山を下る。あの犬が幼い頃の自分に重なるなんて、ふと過ぎった思考を振り払うようにして。  途中、雨が降り始めた。山の天気は変わりやすい。早く帰ろうとより一層速めた足は、けれど不意にぴたりと止まった。 ・  山の中を、犬は彷徨う。冷たい雨に当たって体が冷え、ぶるぶると震えた。少しでも雨風を凌げるよう、近くの小屋に隙間から入り込む。  その視界が霞んで、もう声もでないとぐったりした時、その体は温もりに包まれた。 「……?」  犬の視界に、一度己を見捨てた男――カラスの姿が映る。  着物の懐は温かく、安心したのか、犬はすっかり目を閉じた。 ・  山を降りる頃には、明ヶ時町にも雨雲が広がっていた。カラスが黒犬を懐に抱え、傘もささずに町を走っていると、「カラスー!びしょ濡れで何やってんだ?」と声がした。見ると、吉鷹が軒下からぶんぶんと手を振っている。  カラスが答えるより先に、彼はその懐に抱えられた存在に気づき、「犬だ!」と歓喜の声を上げた。それから、家屋の中へ「父ちゃん、カラスが犬拾ってきたー!」と大きく告げる。 「烏が犬……?」  怪訝な声で繰り返した吉鷹の父・吉光は、長屋から顔を出すと、「ああ、そっちのカラス」と得心が言ったように頷いた。  二人の厚意に甘え、カラスは吉光の家で風呂に入れてもらうことになった。二人はあの火事の後、町人たちの協力を得て引っ越し、知人宅の一階を間借りしている(ついでにカラスも小さな住まいをもらった)。吉鷹は「前よりも狭くなった」と子どもらしい多少の文句を零したが、それでも住める家があるだけありがたいということは理解している。 「じゃあさっきの犬は、山で拾ってきたのか」  吉光が薪をくべながらカラスに問いかけた。風呂桶に身を沈めたカラスは「ああ」と答えて、長く息を吐いた。冷えた体に、熱い湯が心地いい。  拾われた犬は先にぬるま湯で体を洗われており、今は吉鷹が膝に乗せ、「シシ、シシ」と名前を呼んであやしている。シシ、という名前は、首輪についていた木彫りのタグから判明した。犬に「獅子」という名前を与えたかつての飼い主は、一体何を考えていたのだろう。  吉鷹は犬を受け取るや否や「オレが飼いたい」と言った。元々飼い主を探すつもりだったカラスだが、拾った犬は元は猟犬。返答を渋っていたが、吉光の「動物を飼うのは大変だぞ」と言う言葉にも吉鷹は真剣な目で頷いたから、結局彼らに任せることになった。亡くなった奥さんが「いつか犬や猫を飼いたい」と言っていたことも、二人が飼うことを決めたきっかけだろう。 「でもまた、なんで山の中に?」 「まあ、ちょっとな……」  と、カラスは一連のこと――楪が療養中であることや、彼女から柿を食べたいと頼まれたことなどを伝えた。楪が熱を出したということに吉光は大袈裟な程に驚いたが、続くカラスの「山柿はどれも駄目だな」という言葉に、「柿ならうちにあるぞ」と簡単に言ってのけた。 「は?」 「稲荷通りのところの夫婦いるだろ。兄弟だかが農家らしくてな、毎年大量に送られてくるのを、よく分けてもらってるんだ」  その言葉通り、吉光は家の奥からかなりの量の柿を持ってきた。 「父ちゃん、犬って柿食える?」 「ああ、雑食だからな」 「じゃあこいつにあげよ」 「小さく切ってやれよ」  艶の良い、甘そうな柿を目にして、カラスは少し項垂れる。 「どうした?」 「いや、おれの頑張りなんだったんだと思って……」  くっくっ、と吉光は喉を鳴らす。「こいつに会うためだったんだろ」と吉鷹が犬を持ち上げ、真面目な顔で言った。すっかり小綺麗になったその犬を見つめ、「そうかもなぁ」と、カラスは相槌を打つ。 ・  昼過ぎから降った通り雨は、夕刻には止んでいた。  楪は、まだ少し怠い体をベッドに沈めたまま、ぼうっと天井を眺める。朝に比べると、熱も引いているように感じた。  と、不意にカタンと音がした。窓からだ。そうっと視線を向け、彼女は目を丸くする。 「カラス……!」 「起きてて大丈夫なのかよ」  どうやって部屋に、と尋ねようとして、楪ははたと思い出す。そういえば、今朝も。突然部屋の中に現れたカラスが倒れそうなところを助けてくれた夢を見た。いや、夢だと、思っていたけれど、まさか。  楪は自分の両頬をみょんと引っ張る。しっかり痛い。  不可解な行動にカラスは「何してんだ?」と眉を寄せ、それから、「ほら、柿食いたいって言ってたろ」と懐から艶やかな橙色を取り出した。  その彼の行動に、楪はとうとう理解する。今朝のあれは、やっぱり夢ではなかったらしい。 (〜〜ッ!わたくし、何か恥ずかしいことを言いませんでした……!?確か、確か……っ)  ――傍にいてほしいですわ。  自分の発言を思い出し、その顔が林檎のように赤くなる。開きかけた口から悲鳴が溢れるのを、カラスはすんでのところで掌を押しつけて止めさせた。叫び声なんかあげられたりしたら、侵入者であるカラスは捕まる。  彼の意図を楪も察し、こくこくと頷いて深呼吸。  楪が落ち着いたのを見計らって、カラスは剥いた柿の一欠片を差し出した。「美味しいですわ〜!」と彼女は嬉しそうに頬張る。幸せそうに食べる彼女の表情が、カラスは割と好きだった。 「どこの柿かしら」 「さぁ。吉坊のところに譲ってもらったけど、元々貰い物らしいし、詳しいことは知らねぇな」  あなたも食べて、と押し戻された柿をしゃくしゃくと齧りながら、カラスは答える。柿は甘く、渋い山柿ばかりを舐めていた舌が潤った。「うまい」と素直に声が出る。 「カラス、昨日の夜は、会いにいけなくて申し訳ありませんでしたわ」  そうしてすっかり柿も食べ終わってから、不意に楪が謝罪した。「仕方ないだろ」とカラスは肩を竦めたが、彼女の眉は八の字に曲がったまま。だから彼は、「まーおれも、ほぼ何も言わずに消えた日もあったし」と付け加える。先日の火事が起こる前の日の話だ。ボヤ騒ぎの犯人として疑われていることに気づいていたカラスは、楪を巻き込まないようにと、約束の日に遠目に「今日も無理」とばつ印を見せるだけ見せてその場を後にした。  そのことを思い出したのか、楪は「たしかに」とけろりとした。あまりにあっさりしており、それはそれで微妙な気持ちになるものだが、カラスは何も言わなかった。  そんな風に、久しぶりの世間話に花を咲かせていたからか。こんこん、とノックの音がするまで、気配に敏感なカラスすら、この部屋に近づく誰かの存在を察知することができなかった。 「!」  二人して肩をびくりと跳ねさせ、次いで、カラスが動いた。 「やべぇ、おれ、出る――」  と、告げるのと同時に。何を思ったのか楪がカラスの袖を引いて、「こっち」とベッドの中に引き摺り込んだ。大して強くもない、女の力だ。けれど、あまりに唐突な出来事に放心したのと、その腕を振り払うことができなかったカラスは、彼女に抱えられる形で毛布の中に身を隠すことになってしまう。 「おま、あほか……!逆ならともかく、無理があるだろ……!」 「し、静かにしてちょうだい……!」  奮闘する二人の状況も知らず、扉の向こうの誰かは「楪お嬢様、失礼します」と声をかけた。若い男の声だった。  大して間をおかずに扉が開いたのは、彼女が寝ていると思ってのことだろう。実際、部屋に入った彼は、「起きてらっしゃったんですね」と少し驚いたように告げた。 「具合はいかがですか」 「ええ、もうだいぶいいですわ」  少しだけ咳をしながらも、楪が返す。 「それはようございました。お水が減っているようですので、取り替えておきますね。何かあればすぐにお申し付けください」  使用人はあくまでも立場を弁えており、楪の元へ近づこうとはしなかった。ベッドは広いので、中に隠れたカラスの存在には気づいていない。  ぱたり、と扉が閉じられて暫く、その気配が遠く消え去ってから、ようやくカラスは息を吐いた。 「おまえは、ほんっと、後先考えず……!」 「ご、ごめんなさい!思わず……、はしたなかったですわ……」 「いや、はしたないというか……」  すぐ傍に感じた温もり、体の柔らかさを思い出しそうになって、カラスはがしがしと頭を掻いた。 「はぁ、まあ見つからなかったから良かったか。じゃあ、今度こそ行くぞ、おれ」 「……ええ」  夜の帳がおりつつある空は、赤と紫が混ざり合って不思議な色をしている。  窓の外の様子を確認するカラスに、楪は少しだけ寂しげな表情をした。それに目敏く気づいた彼は、「楪嬢」と薄く笑う。 「吉坊のところが、犬を飼い始めたんだ。元気になったら、見に行くか」  珍しくカラスから取り付けられた約束に、楪の顔がパッと明るくなる。 「ええ、ええ……!約束ですわよ……!」 「ああ」  目を細めたカラスは、今度こそ窓から部屋を出た。そうして、夕暮れ時の町を飛ぶ烏のように、ひらりと姿を消す。 ・  数日後。  屋敷の外、いつもの合流場所に現れた楪は、「完全復活ですわー!」と高らかに拳を突き上げた。不調や疲れはすっかり見当たらず、文字通りいつも通りだった。その様子に、カラスも一安心する。 「さあ行きますわよ、カラス!」  元気よく楪が先導し、町の方を指差した。そうして楽しそうに、「やりたいこと」を語ってくれる。 「吉坊くんの犬を見て、柿のお礼をして、それから、久々にお買い物もしたいですわ。他にも行きたいところがたくさんありましてよ!」  弾けんばかりのその笑顔に、カラスは肩を竦めながらも笑った。 「はいはい。どこまでもお供しますよ、じゃじゃ馬お嬢様」
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