第4話 不穏な影

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第4話 不穏な影

 霧の深い山の中、男たちが話し込んでいる。 「……そうか、やはり逃げたか」  地を這うような低い声で呟いたのは、一際体格の良い男だった。筋肉質な腕や足の至るところに傷があり、特に、口元から顎にかけてある一直線の傷痕は特徴的だった。男の周りにいる者たちが皆恐縮している様子から、彼がこの組織のまとめ役、頭領であると窺えた。 「どこへ向かった」  と、男が問う。周囲に控えていた者たちは、「おそらく」と、控えめながらも確信をもった声で答えた。 「明ケ時町――……」 ・    明治時代前期、華族の子女を教育する目的で設けられた華族女学校が設立された。楪が通う桃梅(とうばい)高等女学校もそれに準ずる機関であり、華族令嬢の多くが良妻賢母となるための教養を学んでいる。  広い敷地に鎮座するのは、鮮やかな煉瓦造りの館。縦格子の黒い門には優雅な装飾が施され、異国情緒に溢れていた。  構内の廊下を渡り歩く楪は、ふと、窓の外を見てあることに気がつく。よく刈り込まれたツツジの茂みに隠れている人物は、もしかしなくとも。 「カラス?」  声をかけられ、男は観念したようにそちらを向いた。「楪嬢」と彼女を呼んだ声音には、(何で話しかけるかな)という呆れが含まれているようにも思える。 「何してるんですの、そんなところで」  問いかけですぐ、カラスの腕の中に子犬がいることに気がついた。煩わしそうに身を捩った犬が威嚇で吠えるよりも先に、カラスはその体を放す。グルル、とひと睨みして去る犬を眺めながら、彼は「犬探し」と答えた。 「犬探し?」 「吉坊のとこの犬が、今朝から見当たらないらしくてな」 「吉坊くんのところの……ということは、シシくんのことですわね」 「ああ」  風邪を治してすぐ訪れた吉鷹の家にいた黒い犬を思い出しながら、楪は確認する。決して人懐こい犬ではなかったが、悪戯をすることはなく(どちらかといえば礼儀正しく)、勝手に脱走するようにはとても見えなかったのだが。 「心配ですわね……。見つかりそうですの?」 「まあ、手の空いてるやつで協力してるしな。つーかあいつら、あの火事の日以降、おれのことを何でも屋みたいに扱いやがって」  身軽で喧嘩も強いカラスのことを町人たちはすっかり気に入り、彼は今では町の用心棒や便利屋のような存在になりつつある。その境遇に愚痴のような言葉を零しつつも、その声音は丸く感じられた。カラスはきっと、今の自分の現状をそこまで嫌がっていない。寧ろどちらかといえば気に入っているはずだ。だから楪も「大変ですわね」と言いつつも思わず笑ってしまった。 「わたくしも、見つけたら捕まえますわね」 「いや大人しくしといてくれ」  むん、と握り拳を作って宣言する楪に、カラスは即座に否定する。楪は唇を尖らせ、子どもように拗ねてみせた。カラスが心配してくれているのは分かっているが、小言が増えると京極家の使用人たちを思い出してしまう。 「京極さん、誰かいるんですか?」  お喋りに夢中になっていた楪の背後から、教師が声をかけた。驚いて振り返った彼女が「ええと」としどろもどろになるのを見て、教師は窓の外を覗く。楪はひやりとしたが、視線を向けた先には既にカラスの姿はなく、風に吹かれて木葉がかさかさと転がっているだけだった。 (もういない……)  感心する楪を他所に、教師は「もうじき授業ですよ」とやんわりと諭した。はい、と慎ましく返事をした彼女は教室へと戻るのとほぼ同時に授業開始を知らせる鐘が鳴った。  苦手な裁縫の授業は、迷子の犬のことを思うといつも以上に進まなかった。教師の説明は右耳から左耳へ流れていくだけ。授業の最中に当てられても、心ここにあらずといったように曖昧な返事をしてばかりの楪に、教師は(体調が思わしくないのでは)と心配するほどだった。  そうして授業を終え、短い休憩時間。窓際の席でぼんやりと外を眺める楪へ、教師は「京極さん、体調はどうかしら」と問いかけた。楪は「問題ありません」と答えようとして、窓の外、校庭の花壇に黒い影を見つけてハッとする。  少し逆立った毛並みは、見覚えのある黒い虎毛。右耳の先端が欠けていて、右目には特徴的な傷がある。間違いなくなくカラスが探している吉鷹の犬、シシだった。 「~~ッ!」  楪は思わず立ち上がる。あまりの勢いに、机と椅子がガタリと音を立てた。 「きょ、京極さん!?」  驚く教師へ、楪は学校を抜け出す名目を考えて。 「すみません、やっぱり体調が少し……。養護室へ行って参ります」  咳払いをひとつして、着物の裾で口元を覆った。教師は心底憂うような表情をすると、「そうですか。では、一緒に行きましょう。念のため、ご自宅にも連絡を差し上げた方がいいですね」とその背中を支えた。  げ、と楪は内心焦る。養護室に行く振りをして抜け出すつもりだったので、教師が着いてくるのは困る。まして、実家に連絡が入り、迎えに来られることになれば尚更。  校庭にいるシシはいつ姿を眩ませるか分からず、楪は少しの時間が惜しい状態だった。そんな中で、まともな言い訳が思いつくはずもなく。 「ごめんなさい、体調は嘘ですわ!知り合いの犬がいましたの!」  逡巡の末、楪は馬鹿正直に宣言した。そうして、勢いのまま逃げるように走り去る。 「は!?犬!?ちょっと、京極さん!?」  あまりの素早さに、教師は手も足も出なかった。はしたなく走る背中を暫くぽかんと見つめていたが、やがて正気を取り戻すと、「こうしてはいられません……!」京極邸に連絡を入れるべく、そそくさと教室を後にする。 ・  桃梅高等女学校が建つ明ケ時町の中心部は、鉄道も通り、馬車も走っている。  勢い任せに高等女学校を飛び出した楪は、シシが鉄道や馬車に轢かれることがないかひやひやしつつ、全力で追いかけ回していた。  シシは鉄道やや馬車、時には人を巧みに交わし、路地の中へと入り込むが、楪はそれを見逃さない。「すばしっこいですわね、待ちなさい……!」と、そう言いながら路地を曲がった時、 「あらっ?」 「は!?」  彼女は自分と同じように、ハルを追いかけているであろう吉鷹と合流した。 「なんで!?」  真っ先に吉鷹が疑問をぶつけた。楪は飄々と、 「カラスに聞きましたわ!」 「そうじゃなくて、学校行ってるんじゃ」 「抜け出しましたわ!」 「できんのそんなこと!?」  元気に宣言され、吉鷹は動揺する。華族の女学校というものは、そうも簡単に抜け出せてしまうものなのか。当の本人は「わたくしにかかれば!」と何故か得意げな顔を吉鷹へ向けた。そんな風に、よそ見をしていたからだろうか。 「あらっ?っと、とっと……」  カクン、と楪が躓きかけて、吉鷹は思わず視線を下へ向けた。特に段差があったわけではないので、小さな石ころでも踏んだのか。そう考えながら、吉鷹はあることに気がついた。楪の履物が、普段の黒いブーツじゃない。踵の高い舟形の草履で、 「走りづらくない……!?いつものは!?」  思わず声を上げてしまう。  台は艶やかな赤色、鼻緒には紅葉の柄があしらわれている。二本歯の下駄よりは動かしやすいのだろうが、まさか作った職人もこうもガサツに扱われるとは思っていないだろう。  「新調しましたわ!」と嬉しそうに報告する彼女に、「今日に限って……!」と吉鷹は口をぎゅっと結ぶ。  シシを捕まえるまではあと一歩、最大のチャンスは目の前だ。一人よりは二人だと結論づけた吉鷹が指示を出し、二手に分かれて挟み撃つことにした。吉鷹は、この辺りの地理に詳しい。  楪がシシを追いかけ、吉鷹が抜け道を使って先回りする。この作戦が功を奏し、楪から逃げるために走っていたシシは、自ら吉鷹の腕に飛び込むようにして捕まえられた。 「よし!」 「やりましたわ!」  二人は歓喜したが、吉鷹の腕の中にいるシシの様子はどうにもおかしかった。喉の奥から低い唸り声をあげ、毛を逆立ている。グル!と鋭く吠えたシシに、思わず吉鷹は抱擁を解いた。  再び逃げられると楪は構えたが、シシは地面に鼻を擦り付けたり、空中に向かって鼻をひくつかせたりと、頻繁に何かを嗅ぐような仕草を繰り返す。 「……シシ。もしかして、何か探してるのか」  吉鷹がそう問いかける。シシは肯定するようにひと鳴きして、再び向かう方角を定めた。走り出そうとするシシに、吉鷹は慌てる。 「待って!オレたちも行くから、逃げないで!シシ!」  けれど、シシはちらりと吉鷹の方を見ただけで、何も言わずに再び走り出した。  すっかり意気消沈した吉鷹を支えるようにして、楪は「追いかけますわよ」と声をかける。 「シシくんが探しているものを、見に行きましょう。そこに行けばきっと、逃げた理由も分かりますわよ」 「……うん」  そうして二人は、もう一度シシを追いかける。今度は、無理に捕らえることがないように。  二人の気持ちを理解したのか定かではないが、シシは途中から速度を落とすと、まるで行く先を示すようにして目的地へと向かった。吉鷹と楪は、揺れる虎毛の尻尾についていく。  最中、楪は訳も分からず不安になった。不気味な感覚が襲って、背筋を嫌な汗が流れる。(走りすぎて体調が悪くなったかしら)と眉を寄せる彼女を、吉鷹が見上げた。 「……?顔色悪いけど、大丈夫か」 「ええ、大丈夫ですわ」  そして――。 「……え」  辿り着いた先で、楪と吉鷹は青ざめた。  男の人が倒れていた。胸元には刀が突き刺さり、赤々と滲んでいる。「ひっ」短い悲鳴とともに、楪は後退った。それと同時に吉鷹の視界を遮るような動きをしたものの、一歩遅かった。 「うわぁぁ!」  吉鷹が悲鳴をあげる。  路地を突き抜けたその声に、大通りを歩いていた者たちの多くが反応して「どうした!?」とやって来た。中には見回りをしていた巡査もおり、「これは……」と路地の様子に唖然とする。 「一体誰が」 「怖い」  野次馬の声にかき消されぬように、「下がってください!近づかないで!」と巡査が懸命に指示を出す。  その最中、それは突然現れた。  どん、と屋根の上から飛び降りてきたのは体格の良い男だった。顎に深い傷がる。筋肉質な傷だらけの腕を見せつけるように伸ばした彼は、呆然として動けない大衆の前で、倒れた男に突き刺さった刀を抜き取った。  せき止められていた血が溢れ出し、それを見た野次馬たちがようやく、蜘蛛の子を散らすように走り出した。血塗られた刃の切っ先がきらりと光る。 「ガルル!」  威嚇するように声を荒げたシシが、男の腕に噛みついた。着物の袖が引き裂かれ、鋭い牙が突き刺さってなお男は平然として、蠅を払うようにシシを投げ飛ばす。 「シシ!」  吉鷹が悲鳴をあげ、無謀にも助けようと走り出した。 「!吉坊くん、駄目!」  楪が腕を伸ばし、半ば乱暴に彼の体を引っ張る。吉鷹は地面に転がりつつも難を逃れたが、彼を庇った楪が男に捕らわれる羽目になってしまった。 「きゃぁっ」 「動けばこの女を殺す!」  刀を首元に突き付けられ、楪は身動きができない。人質がいる以上、巡査も簡単に動くことはできず、吉鷹を庇うように抱えるだけで精一杯だった。  男が路地を出るのと同時に、「動くな!」という鋭い声が届いた。現場を見ていた者たちが通報したのだろう、何人もの警官が集まっている。否、警官だけではない。 「!あれは……、お嬢様を返せ!」  楪が学校を抜け出したと連絡を受けた京極邸の者たちも、この騒ぎに集まって来ていた。  質の良い洋装姿の者たちに、男は薄く目を見開いた。ここから逃げ出すための人質として利用するだけの予定だったが、使い道は多そうだ――そんなことを考える。  男は周囲の様子を一瞬で確認した。拳銃を構えた者もいるが、楪が人質になっていることで発砲を留まっている。誰も彼も、男に攻撃する素振りはない。そして、この包囲を抜けた先には馬。 「お前、来い」  男は、京極邸の一人を指名する。 「他の奴らは動くな。動けばこいつを殺す」  相変わらず楪の喉元に刃を突き付けたまま。  抵抗はできず、呼ばれた者は警戒しつつも彼に近づいた。男は周囲に聞こえない程度の声量で、 「娘を返してほしければ、千円を用意しろ」 「――は」  指示を出した直後、男は使用人を殴りかかった。次いで、囲んでいた警察たちを軽々と吹き飛ばす。楪を抱えたまま、一瞬で馬に跨った男は、「行け!」鋭く合図をし、馬が駆けだした。 「離して!離してちょうだい!」 「黙れ、金が用意されることを祈るんだな」 「すぐに追え!逃がすな!」  喧騒が入り乱れる。  その様子を呆然と見つめる吉鷹の前を、警察たちが横切った。彼らの一部は路地の中に入り込み、倒れている男の容態を確認している。 「まだ息はある。中央病院へ運ぶぞ」 「はい」  俯く吉鷹は、現場を見た恐怖で呆然としたままだった。何故楪が攫われたのかも、何故男が刺されていたのかも、そして、シシがまるで刺された男を探すように走り回っていたことも、何もかも理解が追いつかない。  そんな彼に、「大丈夫かい?君にも話を……」と努めて優しく警官が語りかけたが、彼はそれを無視して走り出した。 「あっ、どこに行く!?」  心配する警察官や険しい顔で「早く屋敷に連絡を」と言い合う者たちの声を掻い潜り、吉鷹は家のある方へと懸命に走る。状況の整理ができないままに、自分のせいだと強く責めていた。投げ飛ばされたシシを助けることはできなくて、人質にされた楪を見ても一歩も動けなくて。頭がぐちゃぐちゃだった。  長屋の並ぶ住宅街に辿り着くと、吉鷹は大きく息を吸い込み、そして。 「カラスー!」  と、その名を呼んだ。声は響き渡り、町人たちが「何だ何だ」と振り返る。離れたところで屋根の修繕をしていた吉光も、「今、倅の声が……?」とふと手を止めた。  大声で呼ばれた当の本人は、猫のように屋根の上で寝転んでいた。吉鷹の声に勢いよく体を起こすと、 「何だよ、さぼってねぇって!休憩中だ!」  子どもの言い訳のようなことを言う。が、吉鷹の「カラス!」という声は止まらず、彼が自分に気づいている様子もない。只事ではないことを察し、カラスはひらりと屋根の上から飛び降りた。 「どうした、吉坊。大声出して」  思いのほか早く現れてくれたことに安堵しつつも、吉鷹はすぐに顔をくしゃくしゃにすると、とうとう泣き出した。顔を恐怖で滲ませ、大粒の涙を溢しながらも懸命に、先程の出来事を伝えようと口を開く。 「助けて、カラス。楪姉ちゃんが、連れていかれた!」
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