第6話 攫う者たち

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第6話 攫う者たち

 霧深き山を、どのくらい進んだろうか。  攫われた楪は、山中に佇む小屋へ雑に投げ込まれた。柱は傾き、歪に削れた箇所もある。古い家具や見捨てられた敷物が醸し出す特有の匂いがした。 「お頭ァ」  中にいた男が、ぐりんと顔を向けた。その頬は赤らみ、手には酒瓶を持っている。とてもじゃないが、彼らが購入できる品には思えなかった。 「お、えらく綺麗な女ですねェ」  酔っ払い特有の呂律の回らない口調で、彼は喋り続ける。「人質だ」と楪を連れた男も下品に笑った。 「千円用意するよう頼んだ」 「そいつァいい!」  膨大な金額に、酔っ払いは手を叩いて喜ぶ。  楪の手足は、ささくれだったボロボロの縄で縛られた。手入れもされず、小石や砂が転がる床に膝をついた楪は、彼らを気丈にも睨みあげた。男は「おいおい」とその小さな顎を掴みあげる。 「気の強い女は嫌いじゃないが……、あまり反抗するな。その気になれば、俺たちはお前をいつでも殺せる」 「……殺したりしたら、人質としての価値がなくなりますわよ」  震える体を押さえ込みながらも指摘した楪に、男は片眉をあげた。それから、 「なるほど、通りで落ち着いていたわけだ」  と、笑いを含んだ声で言う。 「育ちの良いお嬢さん。金を払えば、本当に帰してもらえると思っているのか」 「な……っ」  身じろぎをする楪だが、両手足を拘束されていては動けない。そんな彼女を見下ろしながら、男は語る。 「この山は間隠山。霧が深く、行方知らずになる者も昔から多いが、一度入ったら出られないという噂の理由はそれだけじゃない。この濃い霧の中には、俺の仲間が多くいるんだよ。そいつらは、この山に入った人間を容赦なく襲う」  ・  山の中には乳白色の霧が満ち、大きく渦を巻くようにして動いている。一寸先は白い幕。道は狭く、凸凹にがたついている。一歩間違えれば、馬と共に崖下に転落するだろう。嫌でも慎重にならざるを得なかった。  前方を行くシシの後ろを着いていきながら、カラスはふっと息を吐いた。山の中はかなり冷えているが、背中には汗が伝う。  ふと、シシがその足を止め、グルルと低く唸った。同時に、カラスも何かの気配を察知して臨戦態勢をとる。懐に仕舞い込んでいた小刀を取り出し、指先でくるりと回す。  白い靄の中から、亡霊のように何者かが現れた。カラスは小刀を構える。いざという時は、その息の根を止めてでも、楪を迎えに行かなければならない。  カラスが謎の影と邂逅した、数刻後。  指定された額を抱えて馬を走らせていた月岡もまた、この間隠山へ到着した。  噂通りに霧が深い。周囲の樹木がまるで現実のものとは思えないような、淡い緑色の影で立ち並んでいた。  カラス同様に、崖近くの道を渡る彼は、その前方に黒い影を見た。 「……」  獲物を捕らえる獣のように、その瞳が細くなる。白い革手袋に覆われた手が、腰元のサーベルに触れた。 ・  小屋の中では、各々が酒を呷りながら、どんちゃん騒ぎを起こしていた。楪はその隅で、先程男が告げた言葉を脳内で反芻する。  男は、男たちは、この山に入った京極邸の者を襲い、その金品だけを奪うつもりだろう。来る途中、靄の中から見えた崖は鋭く深く、あそこに落とされたりすれば、もう二度と戻って来られない。  この頭領の男が強いことはよく分かっている。実際、京極邸の使用人も、警察官ですらも、歯が立たなかった。彼に勝てる存在がいるとすれば……、 (……カラス……)  脳裏に浮かんだ姿に、楪はぎゅっと目を閉じる。甘えすぎだということは分かっている。今回だって、彼の「大人しくしておいてくれ」という言葉を聞いていれば、こんなことにはならなかっただろう。それでも、彼なら助けてくれると信じたくて。だから、ここに来るまでの途中に、まるで目印のように草履やハンカチをこっそりと落としてきたのだ。  京極家の者は誰が助けに来てくれるのだろうかと楪は考えて、幼い頃から自分の面倒をよく見てくれていた男のことを思い出した。月岡というその青年は、数年前に楪の父に誘われ、軍の所属になっている。時折屋敷に顔を出すことはあるものの、その姿を見ることはめっきり減った。ここ最近だと、火事の翌日、楪が熱を出した時に偶然屋敷に帰って来ていたくらいだ。彼はカラスに負けず劣らず腕が立つ。月岡ならば、無事でいてくれるかもしれない。  ゴホ、と、嫌な咳が零れた。普段ならば夕食も終え、薬を飲んでいる時間である。頭が痛かったり胸が苦しかったりして呼吸がうまくできないのは、体調のせいなのか、この状況への恐怖のせいなのか。万が一のために薬はいつでも持っているが、とても飲めるような状態ではない。  楪の頭上にふと影が差した。見上げると、酒に酔い、すっかり顔を赤くした盗賊の男が覗き込んでいる。思わず、ヒュ、と喉から掠れた音が鳴った。  男の、太くて血管が浮き上がった腕がのそりと伸びた。 「ひっ、嫌……!」  悲鳴をあげれば、楪を攫った頭領の男が振り返る。彼は呆れて、「傷物にするにはまだ早い」と言ったが、男は止まらなかった。 「金持ってくる奴ってのはどうせ殺すんだろぉ、我慢するだけ無駄だぁ」  着物が乱雑に引っ張られる。「嫌、やめてちょうだい!お願い、やめて!」楪の悲痛な叫びにも、周りの男たちはげらげらと笑うだけ。  が、その笑い声はすぐに止まった。頭領が楪に覆い被さっていた男を投げ飛ばしたのだ。男の体が積み上がっていた木箱に突っ込み、土埃が舞い上がる。  楪は一瞬、この頭領が自分のことを助けてくれたのだと期待した。しかし、何のことはない、彼はただただ、自分の獲物に先に手を出されたことに怒っただけである。 「まぁいい。確かにそろそろ退屈していたところだ」 「あ……、嫌……っ」  再び襲われそうになり、楪は恐怖でがたがたと震える。泣き叫ぶことすら敵わない。呼吸がうまくできず、意識すら失いそうになった時。 「お頭ァ!ヤバイのが来ます!」  建付けの悪い扉が無理に開かれ、焦った男の声が飛び込んできた。  今まさに楪を襲うところだった男は手を止めて、邪魔されたことへやや気分を害されつつも振り返る。 「どういう意味だ?金を持ってきたにしては、随分早いな」 「いえ、別の奴でさぁ!この霧の中で、とてつもなく……、ガハッ」  報告途中の男が膝からくずおれた。その腹部には、背後から深々と刀が突き刺さっている。 「何だテメェ!」  一瞬にして小屋の中は騒然とした。各々が酒瓶を投げ飛ばすように手放し、手近な武器を手に取り、突如現れた男を囲う。圧倒的な人数差にも関わらず、男は軽やかともいえる動作で彼らを薙ぎ払った。  異常事態を察知し、頭領も険しい顔をする。楪を突き飛ばすように手放し、自らも小屋の隅に置いていた刀を手に取った。地面に俯せになった楪はなかなか立ち上がることができず、その様子を遠巻きに見るだけ。人と物とが入り乱れ、霧と砂煙が立ち込め、何が起きているのか把握することも難しかった。時折、誰のものとも判別がつかない呻き声があがる。  喧騒の中心で刀を振るっていた男目掛けて、崩れた小屋の隙間から矢が放たれた。予想していなかった外からの攻撃に、彼は一瞬反応が遅れる。左腕に刺さった矢はすぐに引き抜いたが、鏃に何らかの毒が塗られていたことは明白だった。それでも男は動揺のひとつも見せない。身を抉るようにして瞬時に毒を抜き、手にしていた刀をちょうど矢が飛んできた方向へと投げつけ、木の上で弓を構えていた男へ見事に命中させた。  そしてまた、敵の持つ武器をうまく利用して彼らを薙ぎ倒す。  力量の差は明白だった。盗賊の男たちは皆、すっかり地に伏せ、苦しそうに声をあげている。  そして、楪はようやく、喧騒の中心にいた男の姿をはっきりと見た。 「カラス……」  普段とは全く異なる雰囲気を纏った彼は、けれども間違いようがない。所々付着した赤色は、彼自身の血か、それとも返り血か。  楪の呟きに、頭領の男は「なんだお前、こいつを助けに来たのか」と目を開いた。彼は、仲間たちが被害に遭ったことをそれ程怒っていない。むしろカラスほどの強い男が自分の目の前に現れたことを喜んでいるようでもあった。 「どういう関係だ?こんな令嬢と関われるような奴じゃないだろう。お前は、俺たちと同類だ」  まるで天命を宣言するかのように。両手を広げ、男は言う。カラスはそれを黙ったまま受け止めた。 「貴方たちなんかと、一緒にしないでちょうだい……!」  否定したのは楪だった。先程まで恐怖に震えていたとは思えない気丈さで告げる彼女を、男はどこか面白そうに見つめ、それから、カラスに向き直る。 「随分とたらしこんでるな。そっちの才能もあるのか?」  カラスはやはり何も答えない。乱れた髪が目元と頬に陰をつくり、楪からはその表情が上手く見ることができなかった。 「自分でもよく分かっているはずだ。生きる世界、住む世界が違うと」  男はにやりと笑ったまま、「どうだ。俺と来ないか」と提案した。カラスの面が、僅かに持ち上がる。 「お前ほどの強さがあれば何でもできる。美酒に美食、美女……、何でも奪うことができる。この令嬢を助けに、多額の金を持った奴もそろそろ現れる。そいつから金を奪えば贅沢できるぞ。令嬢が気に入っているというのなら、この娘も攫えばいい。受けた毒もしんどいだろう?共に来るなら、助けてやる」 「……うるせえよ」  ようやくカラスが口を開く。地を這うように低く、相手を威圧する声だった。ぴり、と辺りの空気が張り詰める。知らず知らず、男の刀を握る手が強張った。  カラスは楪の様子を見つめる。縛られた手足。乱れた髪。額から零れた汗と、引き裂かれた着物から覗く白い胸元。腸が煮えくり返りそうだった。 「酒だの金だの女だの、どうでもいい。クズが」  カラスの手元にあるまともな武器は、彼が愛用している小刀だけ。対する男は打刀を手にしているにも関わらず、勝てる気がしなかった。  ありえない、と男は思う。目の前の人間は、先程毒矢を受けていた。普通の人間であれば意識が混濁し、動くことはおろか喋ることさえ苦しいはずだ。男が立ったまま微動だにしないのはそれが原因だと思っていた。まさか、違うのか。動けるのか。この威圧感は、一体何だ。  カラスが一歩足を踏み出した。呼吸をすることも躊躇われるくらいの緊張感が漂う。もう一歩、彼が足を進めた時、男は「待て!」と乾いた喉で叫んだ。 「それ以上動くな。動けば、この女を殺す」  銀色の切っ先が楪の首元を指した。男から楪までの距離は、彼が一歩踏み込めばその首を刈り取れるほど。一方で、カラスから楪までは、大股で歩いても五歩以上かかる。それだけの距離があって、男が刀を振り下ろすよりも早くカラスが攻撃することは不可能だと考えたのだ。けれど――。 「……動いたことに気づけなきゃ意味ねえよ」  瞬きの内。あるいは、瞬きをしたかどうかも分からない。いつの間にか男の視界にカラスの姿はなく、すぐ傍で飛び散る鮮血が見えた。少し遅れて痛みが突き上げ、男は自身の首元が切られたことを悟る。目だけを動かした先で、ざんばらな黒髪が揺れていた。 (なんて奴だ……)  ――格が違う。  男が意識を失う直前、唯一浮かんだ言葉はそれだけだった。  辺りを静寂が包む。  カラスはゆっくりと振り返ると、口を閉ざしたまま楪の拘束を解いた。居住まいを正した楪は、「カラス」と、その腕の傷を案ずるように手を伸ばす。直後。 「触るな!」  他者を寄せ付けない厳しい声が発せられ、びくりと楪はその手を止めた。おそるおそる彼の様子を伺うと、カラスは暗い表情のまま、 「おれは人殺しだぜ」 と自嘲した。それから、 「もうすぐおまえの家の奴らが来るんだろ。そいつに連れて帰ってもらって……、もう二度と、おれとは会うな。おれも会わない」  淡々と、抑揚のない声で続ける。  楪は、辺りに横たわる者たちを見る。誰の者か分からない血が地面を汚していた。時折肩が上下している者もいるが、きっと息絶えている者もいるだろう。「人殺し」という肩書は、間違いではない。けれど。 「……わたくしの父や祖父だって、人殺しですわ」  突然の告白に、カラスは顔をあげた。ここに来てはじめて、楪と目が合う。彼女の瞳は相変わらず星のように瞬いていた。カラスに対する恐怖はない。嘘をついているような後ろめたさも。彼女の言葉は、紛れもなく本心だった。 「先の戦争で、わたくしの祖父は大勢を殺し、その功績が故に、我が家は侯爵の地位を与えられた――」 「……国のため、大義のためってやつだろ。同じにするわけにはいかない」 「それを言うならカラスだって、わたくしのためでしょう」  カラスは口を噤み、俯いた。楪は足にぐっと力を入れて立ち上がる。 「だからもう会わないなんて言わないでちょうだい。わたくしはこれからも、あなたと一緒にいたいですわ」 真っ直ぐに告げて、血に汚れた彼の手を取った。びくり、とカラスの体が震える。けれど彼は、声を荒げることも、楪の細い体を突き飛ばすこともしなかった。 「ありがとう、カラス。わたくしを助けに来てくれて。……あら?」  いつもと変わらぬ顔で微笑んだ楪は、次の瞬間、糸の切れた人形のようにふらりと倒れ込んだ。カラスが慌ててその体を支え、ぎょっとする。楪の体はとてつもなく熱かった。素人でも、危険な状態だと分かる。 「おい、楪嬢!しっかりしろ!」  必死に声をかけても、楪は目を覚まさない。荒い息を零し、体を震わせるだけだった。「クソ!」と、カラスがその体を持ち上げるのと同時に、くらりと立ち眩みがした。今になり、毒が効いてきたらしい。思わずふらつき、がたりと近くの木箱を倒す。楪の体だけは傷つけぬよう、覆いかぶさって彼女を庇った。  音に反応したのか、小屋の外で待機をしていたシシが入ってくる。駆け寄り、心配げに吠えるシシに、「大丈夫だ」とカラスは額から汗を滲ませながら答えた。  直後、シシの耳がピンと立つ。グル……と、その喉が小さく鳴った。誰か来たのだと、直感的に分かった。 (楪嬢の家の者か……?いや、もし違っていたら)  カラスは逡巡する。  もしも残党だったなら。今の自分では、上手く立ち回れないかもしれない。  カラスは楪をしっかりと抱え、もう一度立ち上がった。ひとまずこの場から逃げることに決めたのだ。  小屋の中に転がったランプは、敢えてそのままにしておいた。暗がりの中、明かりを持って逃げていては襲ってくださいと言っているようなものだ。  辺りを警戒しながら小屋を出る。先導するシシの後ろを、馬を引いたカラスがついて歩く。 ・  暫くして、一人の男が小屋まで辿り着いた。楪の救出に向かった京極家の男、月岡である。周囲を注視しながら中へと入った彼は、「これは……」とその惨状に息を呑む。  ここに来るまでの道中でも、盗賊と思しき柄の悪い男たちが何人も倒れていた。 (仲間割れか……、あるいは、誰かが先にこの場に来たか……?)  小屋の中を確認する彼は、一際離れたところに倒れている男の姿を見る。体格がよく、顎に傷跡のある男だった。 (お嬢様を攫った者はこいつか。話によれば、相当に強かったらしいが……)  男の外傷は首元に一太刀のみ。相当に腕が立つ者がいたということになる。  一体誰が。何のために。そして、楪はどこへ行ってしまったのか。  地面には引き裂かれた着物の一部が風に揺れている。見覚えがあった。楪のものに違いなかった。それを拾い上げると、月岡は無事を祈るように零した。 「楪お嬢様……」 ・  小屋から抜け出したカラスは、馬に跨り、暗い道を辛うじて進む。新月の夜ではないのが幸いだった。 (クソ……、毒が回ってきた……)  が、先程以上に意識が朦朧としてきて、しまったと思った時には手綱を外してしまっていた。茂みの中へ転がり落ち、がさりと音が立つ。シシは振り向き、ウゥ……と喉を鳴らした。どれだけシシが二人を助けたいと思っても、彼らの体を引っ張ることも、押すこともできない。「頑張ってくれ」というように鼻や頭を押し付けたシシだったが、カラスは苦しそうに息をするだけ。  とうとうシシは、諦めたようにその場を離れた。その気配がなくなったことに、カラスは苦笑する。 (助けを呼んでくれたり……さすがに無理か。楪嬢は置いてくるべきだったかもな……、失敗した……)  柔らかな体をぎゅっと抱きしめ、カラスは目を閉じる。毒で意識が混濁していたこともあったのだろう、彼は珍しく自分にたちに近づく気配に気がつかず――、その体に、人影がかかった。
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