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第7話 包みに隠れた真実
夢を、見ていた。
「ここを出て、何がしたいんだ。どうやって生きていくつもりだい?」
豪華な前掛け、肩甲骨が見えるほどに抜かれた衣紋。どこまでも色っぽく妖艶な女が、煙管を片手に問いかける。行燈の灯りが、女の真っ赤な唇をぼんやりと照らした。
「どうもしない」
答える男の声に覇気はない。その目はどこまでも暗く、まるで生ける屍だった。
「ただ、こんなところよりはマシだろ」
「虚しくなるだけさ」
女は煙管を吸う。煙がゆらゆらと不安定に揺らめき、上空に霧散する。
「あたしたちは、ここでしか生きていけない。生きていく術を知らない」
口元に僅かばかりの笑みを湛えて、女は庇から町を見下ろした。夜だというのに、町の灯りは消えることを知らない。鮮やかな提灯が辺りを照らし、その下を男女が絡み合うように歩いている。
その道を真っ直ぐ、遠くには何もかもを飲み込むような黒い海が見えた。ここは島。そして鳥籠。女は海を渡ってやってくる数多の人間たちを慰め、男は決して表に出せぬ汚れ仕事に連れていかれる。影の者たちが生き、そして死んでいく世界。
女はもう一度告げた。
「ここから逃げても、生きられない」
その言葉を無視して、男は島を出た。男はこと殺しにおいては誰より優秀で、本人もそれを自負していた。追手は全員殺した。心は痛まなかった。
――ここから逃げても、生きられない。
女の言葉の意味は、島を抜け出してすぐに理解できた。
狂った世界で生き続けた人間が、平穏な輪の中に入ることができるわけがなかった。どこに行っても上手く馴染めず、適当な賊の一員になってはやり過ごすしかなかった。そうしてまた、平穏とは遠い世界で息をする。それが嫌になって逃げだして、各地を転々として、なるべく人と関わらないようにして。
虚しい、と沸き上がった感情には気がつかない振りをして、これでいいのだと思っていた。けれど。
「カラス!」
まるで太陽だった。凛と咲く花だった。底抜けに明るくて、純真無垢な少女に、灰色の世界は塗り替えられることになる。
・
目を覚ますと見覚えのない天井が映り、カラスはゆっくりと瞬きをした。
「ここは……」
呟きながら、記憶を辿る。
確か、吉坊に頼まれて、楪を助けるために馬を走らせて。霧の深い山で盗賊と戦闘になり、それから。
「……っ、楪嬢……!」
勢いよく体を起こすと、矢で射られた箇所がずきりと痛んだ。が、気にしていられない。ベッドを抜け出し、間切りに使われているパーテーションを退かせようとした時だった。
「やだぁ、センセイったら」
「そんなこと言って、本当は喜んでいるくせに」
甘く絡み合う男女の声に、カラスは神経を逆撫でされた。わざと音を立て、乱暴にその場から飛び出すと、「ん?」と、椅子に座っていた男が顔を上げる。男の真横には、女が色っぽくしなだれていた。
「なんだ君、起きたのかい」
長い銀色の髪を揺らし、男が尋ねる。垂れ目がちな目元の下にホクロがあり、それが妙に艶やかだった。白衣を着てはいるが、医者というにはどうにも胡散臭い。
「おれと一緒に女がいただろ。どこにやった」
厳しい表情で詰め寄り、強く尋ねたカラスを、男は「静かに」と嗜める。
「ここには君以外の患者もいるんだ。ご令嬢なら別室だよ。熱を出していたので、隔離させてもらった。案内しよう」
男は冷静にそう言うと、すぐ傍にいた女へ「悪いね、仕事だ」と甘く微笑んだ。「アタシ帰るわよ」少しだけ拗ねる女の額へ「いいけれど、また来てね」とキスを落とせば、彼女は満更でもなさそうに「もう」とその場を後にする。二人の様子を、カラスは据わった目で見つめていた。
室内を出てすぐ、足元からワン!という鳴き声がした。
「シシ、おまえも無事だったか」
ほっとしたカラスへ、男は「その優秀な猟犬には感謝したほうがいい」と小さく微笑んだ。どうやら、動けなくなったカラスたちの元へ男を案内したのはシシらしい。この場所は、間隠山を越えてすぐにある村のようだった。
カラスに頭を撫でられ、シシは気持ちよさそうに目を細める。
その様子を眺めながら、男は「そしてもちろん、優秀な僕にも」と冗談っぽく付け加えた。
「優秀な僕、ねぇ……」
「嘘ではないよ。僕は医師であり、薬学の天才でもある。まあそうでなくとも、君たち二人を運ぶのはなかなかに骨が折れた。感謝されて然るべきだろう」
彼の言葉は正論ではあるが。感謝されて然るべきだと胸を張る様子を見ていると、なかなか素直に謝礼の言葉というのは出てこないものだった。
「おっと、そういえばまだ名乗っていなかったかな。僕はギンだ。よろしく。ええと……」
色素の薄い瞳に見つめられ、カラスは一応「カラス」と名乗った。ギンという名前もまま変わっているからか、彼は「おかしな名前だ」と訝しむこともなく、「そうか、カラス」とにこりと笑った。
「さて、君といたご令嬢ははここにいる。来た時よりも容態は回復しているけれど、相変わらず熱はひいていないね」
軽く説明した後、ギンが引き戸を開けた。シシは病室には入れないので、廊下で待つことになり、大人しく座っている。
ベッドに眠る楪の頬はまだ少し赤い。けれど、医師であるギンの言う通り、小屋から逃げ出してすぐよりも呼吸は落ち着いていた。
「外傷もない。熱が下がりさえすれば、すぐに元気になるだろうね」
「……そうか」
カラスはほっと安堵する。ようやく肩の力が抜け、目元にあった厳しさも薄まった。
「さて、カラス。君の容態も調べておきたい。少し来てくれないかな」
助けられた恩義もあり、カラスはギンに大人しく着いていく。
移動した部屋には、中央病院などと比べても遜色ないほどの様々な器具が並べられていた。明治時代以降、徐々に浸透することになった西洋医学のものである。
「体の調子はどうかな」
と、ギンが尋ねた。
「ああ、随分いい」
「それは良かった。君はなかなか丈夫みたいだね、普通なら暫くは動けないし喋れない。下手をしたら死んでしまうくらいの毒だったよ」
「……慣れてるんでね」
処方するにあたり、毒の種類でも調べたのか。穏やかに感心しているギンと裏腹に、カラスの声は僅かに硬くなった。先程見た夢といい、置き去りにしてきた過去がちらついてしまう。
「……」
「……なんだ?」
ギンの透き通る目に見つめられ、カラスは眉を顰める。彼は「いや、何」と終始和やかな声のままだったが、思いもよらぬ言葉を続けた。
「僕はてっきり、身分違いの恋に苦しんで夜逃げでもしていたのかと思ったよ」
ギンの言葉を理解するのに、カラスは数秒を要した。
身分違いの恋。馬鹿げた発想だと思うと同時に、傍から見れば自分たちが横に並ぶのはおかしなことなのだと改めて実感した。何せ、高貴な令嬢と、何も持ちえないみすぼらしい男なのだから。
カラスは、ハッと鼻で笑い、「夜逃げするような仲じゃねえよ」と否定した。先程の女との様子と言い、ギンというこの男はどうも女遊びに余念がない。すぐに男女の仲を疑うのも、そういう性格のせいだろう。
「ああ、そうなんだ?じゃあ最後に心中、とかも考えていなかったわけだ」
「……面白くない冗談だな」
「まさか、冗談ではないよ」
カラスが不快そうに眉を寄せたのに対し、ギンは淡々としたままだった。彼はその懐から小さな包み紙をふたつ取り出すと、机の上へ置く。包みの色はそれぞれ、ベージュと真白だった。「なんだ、それ」とカラスは尋ねたが、「何だと思う?彼女が持っていた」と逆にギンに問いかけられてしまった。
光に翳すと、包み紙の中は粉のようなものであることが分かった。
「……薬か?」
楪との会話を思い出しながら、彼は検討をつける。彼女は元来体が弱いということだった。
「概ね正解。こっちはよくある咳止めだね」
そう言った彼が、ベージュの包み紙を引いた。机の上には白い包み紙が残され、カラスは眉間の皺を深くする。
――こっちはよくある咳止め。
では、もう一方の白い包み紙は、一体何だというのか。
答えを求めるように見つめたカラスへ、ギンは徐に口を開いた。
「薬には飲み合わせというものが存在する」
が、はっきりと答えを出すわけではなく、ギンはそんなことを語り始めた。机に置いた包み紙を指で摘まみながら。その表情はどこまでも真剣だった。つい先ほど、女性を前にして鼻の下を伸ばしていた男と同一人物とは思えない。
「二つ以上の薬を飲む場合、成分によっては症状を悪化させる。今回のこれは見たことのない薬だったから、彼女がこれを服用していると想定して中の成分を粗方調べさせてもらった。その結果分かったことだけれど」
ギンはわざとらしくそこで言葉を区切ると、カラスに包み紙を手渡しながら、言葉を続けた。
「こっちの成分は、毒だよ」
たっぷりの間のあと。カラスの口から零れたのは、「……は」という言葉だけだった。
「毒って……、ちょっと待ってくれ。意味が分からない」
「その反応からするに、君が与えたものではないのかな。あるいは、知らずに与えてしまったか」
「んなことするかよ!」
「静かに」
思わず声を荒げたカラスに、ギンは再度忠告した。彼は、
「まあ毒といってもこの程度では死に至らない。多少体の機能に影響を与えるくらいかな。服用し続けるのであれば、もっと問題も出てくるだろうけどね」
と淡々と続けたが、カラスの頭は鈍器で殴られたような衝撃が走り続けている。
毒?体の機能に影響?それが本当なのだとしたら、誰が、何のために。いや、そもそも。
「……おれは、おまえのことをそこまで信用していない」
目の前の男が、嘘をついている可能性だってあるわけだ。睨みつけるようにして告げたカラスに、ギンは肩を竦める。
「僕は医師だよ。病気と薬に関して嘘をつくことはない。……といっても、信用できないだろうから……、ちょっと待ってね」
そう言うと、ギンは別室へと姿を消す。少しして戻って来た彼は、鼠のいる密閉されたケースをふたつ抱えて現れた。中の鼠は同じ種類だろうが、その動きには大きな差があった。
「こっちは普段通りの鼠。そしてこっちの弱っている方が、ご令嬢が持っていたこの薬を投与した鼠。明らかに動きが違うだろう?何度も言うけれど、僕は病気と薬に関して嘘はつかない。それにこんな嘘、ついたところで僕には何の得もないよ」
証拠と言わんばかりに提示された事実と、ギンの正論にカラスは愕然とし、混乱する。どう足掻いても、理解が追いつかなかった。その彼を他所に、ギンは「とにかく、彼女を苦しめるつもりがないのなら、こっちは飲ませないことだね」と言ってのけた。
カラスは僅かに視線を落として考える。少なくともこの医師は、自分と楪をわざわざ助けてくれている。病気と薬に関して嘘はつかない、という言葉は本当なのだろう。そして、彼の発言を信じるならば、どうしても気がかりなことがあった。
「……楪嬢は小さい頃から体が弱くて、薬を飲んでいると聞いている」
ギンの目が険しくなった。彼は思案するように顎に手を当てると、
「……今回だけが特別で、普段の薬と毒薬を入れ替えられてしまったのか。でも、だとしたら何故こんなに毒性の弱いものを……?あるいは、何か目的があって敢えて毒薬を飲ませ続けているのか……、もしもそんなことをしている奴がいるのなら――」
それは、静かな怒りだった。医者として、薬学者としての矜持が許さないのだろう。
ぶつぶつと考えを巡らせていたギンは、何かを決めたのか「ひとまず」と顔をあげた。
「この薬を飲まされ続けていた、飲まされ続けると仮定して、対応できる解毒薬を作っておこうかな」
「できるのか」
「できるさ。言っただろう、僕は薬学の天才だと」
胸に手を当て、堂々と彼は告げる。それから、解毒薬が完成すれば無償で受け渡すことと、ここから帰った後も楪の様子を毎日注意深く見ることをカラスへ伝えた。そのことに、カラスはしっかりと頷くことができなかった。京極家の者でなく、せいぜい一週間に一度会う程度の間柄で、常に彼女の様子を見るというのは、土台無理な話だった。
・
注射器を用いた血液検査を受けた後、カラスは楪がいる部屋へと戻った。懐にしまった、(ギン曰く)毒薬が気になって仕方がない。彼女とうまく話せる自信もなかったが、部屋に入ってすぐ、「カラス」と声がかけられたので驚いた。楪は既に目を開けており、
「わたくし、また……。不甲斐ないですわ……」
と困り眉で無理に笑った。
「あれだけ連れ回されたんだ。無理もねえよ」
「ふふ、優しい……」
その声はいつもよりも丸く、ふわふわといている。いつぞや熱に浮かされていた時と同じだ。今の台詞も、夢うつつに零したものに違いない。
「そういえば」と、彼女は続けた。
「ん?」
努めて優しく微笑んだカラスに、
「薬を持っていたはずなんですけれど」
と、楪が自身の懐に触れた。カラスの脳裏に、ギンに告げられた毒の話がちらつく。
「ああ、落としたのかもな。先生が別の薬を用意できるみたいだし、大丈夫だろ」
「たしかに、そうかもしれませんわね」
冷静に言い切ったカラスの言葉を、楪はあっさりと信じた。嘘をついた事実に多少なりとカラスの良心が痛んだが、本当に毒であるならば、飲ませるわけにはいかない。絶対に。
楪がゴホ、と咳をした。喉が痛みそうな咳で、「待ってろ、先生呼んでくる」とカラスは背を向ける。
廊下の曲がり角に、ギンは既に立っていた。存外気配がなく、カラスは驚く。そんな彼に、ギンは「渡さなかったみたいだね」と呟く。カラスは黙ったままだった。その横を通り過ぎながら、ギンは真っ直ぐに告げる。
「信じてくれてありがとう。僕も彼女の回復に尽力しよう」
妙に様になる言葉を放ち、ギンは楪のいる部屋へと入る。そうして、ベッドに横になる彼女に美しい笑みを向けると、
「やあ、楪嬢」
と、カラスの呼び名を真似てみせた。
「僕がこの村の医師。ギン先生と呼んでくれてかまわないよ」
そうして何を思ったか、楪の細い手を取った。薔薇を背負っているような男に微笑まれ、楪は多少なりと動揺した。「あ、あの……」そう言う彼女の言葉を遮るように、「ああ大変だ、まだこんなにも熱い」切なげに零した彼はその直後、頭に大きな衝撃が走り、「痛い」と零すことになる。カラスの足が容赦なく、彼の後頭部を押さえつけていた。
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